一、春

文字数 2,519文字

 青い春。若者の讃美歌だ。桜が狂ったように咲き誇り、嵐がそれをかき回す。新しい学校、新しい景色、新しい仲間。それは本物か? 新しい学校はすぐに行きたくなくなる。新しい景色もいずれ見飽きる。新しい仲間はいつか敵になる。友達は百人もできない。それでも貴方は夢を見たいと申すのか。貴方のように夢を持っている人間は、嵐にさらわれた桜の花弁が寺の住職に箒で始末したあと。貴方には夢があるか。
幼稚園児のように軽々しくケーキ屋さんになりたいなんて言葉は通用しない。どんな職に就きたいか。それって夢じゃないだろう。本当の夢はきっと、死に際にわかるものなのかもしれない。「あれがしたかった」「こう生きてみたかった」。それが本当の夢だ。今の貴方は夢を持っているか。貴方の夢は、人を幸福にするものか。自分だけ幸福になるだけの夢だったら、やめちまえ。
 二年前の白昼夢。二十二歳の青年たちは、青という言葉を私に教えてくれた。
 私に夢はなかった。夢などなく、いつ死ぬかだけを考えていた。実際に死へのカウントダウンは始まっており、何度も仕事の合間に心臓が止まるのではないかとただ平凡に考えていた。私には青春もなかった。淡い恋などしたことがない。ただ、なんとなく。なんとなく生きていたのだ。貴方は目標を持って生きているか。私は何度でも貴方に問いかける。貴方は一輪の花を見て、涙を流せるような大人になれたか。
 春はアレルギーだ。出逢いと別れの繰り返しと世間はいう。だが、それは気のせいだ。春の幻覚だ。花粉症のようなものだ。またこの季節がやってきたと思うだけ。出逢いはそのうちなあなあになり、別れも自分から縁を切るようになる。くしゃみが出るのと同じで、春が終わってしまえば嵐はおさまる。
 命は春に芽吹くわけではないし、生き物の死が春に訪れるわけではない。私たちは春を過大評価しすぎている。それはきっと、寂しい大人がすることだ。本当の夢と同じだ。
 青い春は若者の特権だ。今の若者はそれに気づかない。今の若者だけではない。大人たちもだ。自分たちの青い春は、とうに終わってしまったと勘違いしている。ベッドの上で寝ころんでいるだけの日常でいいのか。春は毎年巡り巡ってくる。神は何度も私たちにチャンスをくれている。それが春だ。春はチャンスの季節だ。終わってしまったと嘆く春(いま)ではなく、始めてみようと思える春(いま)だ。
 ああ、花見の季節だな。私も上野公園で楽しく花見をしてみたい。しかし、したことはない。テレビでは酒を飲みながら、自分たちで持ち寄ったつまみや弁当を楽しむ人々が映っている。華々しいことだ。彼らはきっと、青い春だ。うらやましい、うらやましい。だが、自然と出るこのうらやましいは、嫉妬でも僻みでもないと自分でもわかっている。ポジティブな感情だ。一升瓶や樽酒の中に、ひらりと落ちる花弁は、かわいらしく酔った女性だ。そんな風流なことが実際に起こったら、私は悲しくなる。本当の季節(美しさ)は、文章に書き起こすことなど到底できやしない。私はこの憎たらしい文章と、一生戦っていく戦士なのだ。だからこそ、この浮ついた季節には反吐が出る。ふわふわして、あたたかくて、やさしい春なんて。嫌いだと言い切りたいが、それもできない。私は青い春を愛してしまった。春は何かが起こるかもしれないという打ち砕かれる幻想を持たせる。砕かれる幻想だとわかっているのに、名刺香のにおいを再確認してしまう。どこかで誰かが私を必要としてくれる。いつも願っているのに、願いは叶わない。春は残酷だ。
 春に似合う色は、桜色とみんなが答えるだろう。正解は青だ。桜の色が生えるのは、青空が背景にあるからだ。重い腰を上げ、ようやく光り出したおひさまが、面倒くさそうにライトを当てる。
 大嫌いだと言い切れない春。憎い春。それなのに、愛してしまう春。写真におさめきることができない季節。どこを切り取ろうかとカメラを持って繰り出してきても、人が一緒に写ってしまう。私に権利などないから、人の混ざり込んだ写真は削除する。
私だけの春が欲しい。誰もいない桜の木を、ペンタックスの愛機に。朝日とともに。光とともに。月とともに。温かい風に吹かれながら、花粉のにおいをかいでいたい。おしゃべりなおばさんはいない。桜に目をかけずに歩くサラリーマンもいない。スマホも置いて、この身ひとつで春に紛れ込みたい。恋という忘れてしまった感情に、和菓子の甘さを足してみたい。三十代で離婚を経験した女に、まだこの甘味は味わえるのか。青を教えてくれた若者たちに、淡い恋ではなく愛をプレゼントしたい。君たちは私に、生を思い出させてくれた。切り取った春の一部を、若い君たちはどう表現するのだろうか。ピアノのメロディが聞こえる気がする。きっとそれは気のせいだ。ただの私の願望だ。狂い咲く桜と、春一番。花の嵐が巻き起こったあと、何が残る。空いた缶と飲み干された日本酒の瓶。始末に困る樽。たくさんのゴミ。桜の花弁は美しさを提供してくれるが、住職はゴミとして出すだろう。始まる季節にわくわくするのか、それとも悲しみを抱くのか。春はほつれたジーパンのように、穴から風を肌に感じさせる。ふわふわして、温かくて、優しい春よ。この青い愛は、どこへ飛ばせばいい? 桜の絵が描かれた紙に、くだらない愛の言葉を書き連ねて赤い口へ。本当につながるかはわからない。私だけではない。愛をプレゼントしたい仲間はたくさんいる。みんな心に詩人を飼っている。思いの丈をぶつけたいと、節に願っている。
 青を教えてくれた青年たちよ。君たちの春は、今なのか。それともその春は永遠に続くのか。続いていてほしい。青い、青い春よ。透明に近い、薄いブルーよ。この片想いを永遠につづけてさせてはくれないか。
 空を見上げると季節はうっかりしていた。雪だ。春が風邪をひくこともあるのだな。暖かかった日々が続くと、薄着になる。そして風邪をひく。雪はいつの間にか春雨に代わる。春こそ純情な乙女はいない。そのスカートを風が遊ぶと表現したのは、誰だっただろうか。
ねぇ、貴方の春は、いつでしたか。自分の心にだけ、教えてよ。
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