09.ブルーマンジャックショー

文字数 9,142文字

 極北の黒い海に沈む。洋上の吹雪、海の流れ、地底のプレートの動き、鯨の叫び以外聞こえなくなる。

 雲に覆われた弱い太陽が、それでも水深二〇〇メートルまで届いていたが、以降は真の闇。

 全長三〇〇メートル。黒い鯨の形をした巨大潜水空母「アイングロバーバル」は、三機のブレインアーマーを格納すると、スクリューではなく、電磁波を利用した流体水流効果で静かに前進と沈降を開始した。

 大型輸送機で空輸され、敵制空権を過ぎて西ドイツ領内に入っても着陸せずに、沖合に浮上停泊していた潜水空母のデッキから収容された。

 西日を浴びる大型の輸送機で空輸されている最中も、一番機の延々と賛美歌は続き、着艦してもそれは終わらなかった。

 さも楽しげに、時として鼻歌を交えながら。

 二番機からは何も聞こえなかった。いや、微かに続くすすり泣く声。

 戦闘時のトランス状態は、空輸中から空母の格納庫(ハンガー)に収容されるまで続いていた。

 戦闘後は、殺戮衝動を抑えるため、鎮静剤の投与が補助電脳通じて自動で行われているはずだが、興奮した脳の活性は収まることがない。

 サラエボの透き通った空を染めるあの赤い夕日。

 真っ赤に染まる空に、黒く大きな手に掴まれたナオミの細い体。

 グシャリと潰されたところからノイズが走り、赤い夕日が徐々に大きくなって、ケイスを包み込む。

 自分の手にぬるりとした感覚。

 ブレインアーマーに換装された自分の手だ。握られた手を広げることができない。

 溶かしたビニールのように赤い夕日がケイスを包み込む。

 ビニールが気管つまって、息ができなくなる。もがこうとして気がつくと、薄暗い格納庫の中。

 コクピットの中、身体をしっかりと包み込んでホールドする樹脂性のシートに身を預けて、呼吸を整える。

 師匠(ナオミ)の教えの通り、肺で吸い込んで腹ではき出す。へその下を意識しながら。意味がないとわかっていても行ってしまう習慣。

 それでも、段々と精神は落ち着き、脳内の興奮もなくなってくる。

 両耳の後ろから伸びている複数のケーブルを外して体を引き抜くと、身体パーツで破損しているところがないか、自分の目でもチェックして、ケイスはようやく人心地つく。人工物とはいえ、それでもケガはあまりしたくなかった。

 球状のコクピットから抜け出すとタラップを降り、指示通りにヴァレンティナの待つ、検査室へ向かおうとして立ち止まる。

 巨大な鯨の腹の中を思わせる、巨大な格納庫。淡く光る赤い照明の中に、他のニ機のリヒターも浮かび上がっている。

 戦闘の激しさを物語るように、発進前、新品だった装甲は傷だらけとなり、鈍く光を跳ね返している。

 艦内のクルー達が整備に走り回る中、ケイスは他の二名が降りてくるのを待とうか迷った。二人ともコクピットから出てくる様子がない。

 会ったところで何を話そうというのか?お互いの戦果を称え合う?生き残れたことを共に喜ぶ?それとも、この体で、兵器として生きることの意味について聞くのか。

「ケイス准尉。検査室まで出頭しろ」

 連絡員の無表情な声が格納庫(ハンガー)にこだまする。

「ケイスさん!」

 格納庫の中にレイチェルの声が響き、長いブロンドのカールをなびかせながらケイスに小気味良く走り寄る。いつもの看護婦姿と違い、今日はこの艦の所属するドイツ海軍の女性兵士(ウェーブ)の制服を着ている。茶色をベースとして作られたジャケットには少尉のバッチ。彼女が医師として、この艦では少尉扱いなのがわかる。

「お疲れ様でした。ケイスさん。ヴァレンティナさんが待ってますよ」

 戦闘とは縁遠い、人なつっこい瞳でケイスを見上げる。

「ああ、わかっている」

 殺戮のトランス後の影響で朦朧としているケイスには、彼女の瞳はまともすぎた。

 適当に返事をして通り過ぎようとする、ケイスの手をとって歩き出す。

 一瞬どうして良いのかわからないケイスをどんどんと引っ張っていき、格納庫から艦内の通路へと進んだ。

 何度か、リハビリ中に言葉を交わしたことはあるものの、ケイスにとっては自分の身体をいじくり回す研究者の一人でしかなかった。

 唯一他の他と違うのは、ケイスの新しい人口の肉体に始めてスイッチをいれたということくらいだ。

 なにくれとなく面倒を見てくれるレイチェルに対して特に意識をもったことがない。いや、リプレイスメント後、彼女が自分のスイッチを入れてから、激痛と戦わなければならないリハビリも、ブレインアーマーに換装され思うように手足が動かず、アイヒマンに罵倒された日々も、ケイスにとってどうでも良い、遠い出来事にになっていた。

 ただ、兵器として生きることに徹することで、現実を忘れようとしていたのか、それとも、リプレイスメントされた身体を持った者の宿命か。

 レイチェルは艦内の通路(チューブ)を歩く間、ちらりと見せた横顔は真剣だった。しばらく黙って歩き、ヴァレンティナの待つドアのまで来ると、

「あの、検査(チェック)の後、ここの食堂に一緒に行きませんか?」

 前を歩くレイチェルが、首だけで振り向くと、遠慮がちに首を傾げた。

「ケイスさん、その体になってから、ごはんを経口摂取してないですよね?」

 ケイス達は、味覚を感じる生体材料で作られた口蓋から、食物を摂取することもできた。

 味覚、嗅覚といった部分に関しては、まだまだ改善の余地があるそうだが、補助電脳から擬似的な信号サポートによって、味を楽しむこともできると聞いている。

 体内器官が使用する、一日一定量の指定されたエネルギーを摂取することが義務づけられている。それ以外にも、人が普通に取る食事を同じように食べることも可能だ。

 しかし、ケイスにとっては、食べることの意味が見いだせない。身体のリハビリ中に感じた、以前の自分の肉体とまったく違う感覚、動かしたくても以前のように動かせない、感じたくても感じられない日々の連続で襲ってくる落胆とジレンマ。

 味覚に関しても同じように落胆を感じたくなかった。

 そして、それを嫌悪しつつも、味覚によって与えられる脳の快感に比べれば、戦闘行為による脳内トランスの方が遙かに今の自分には有意義だと思い出している。

 レイチェルは戸惑うケイスを曇りのない瞳で見上げた。ケイスのゴーグル型の目にキラキラとした瞳が映し出される。

 ヴァレンティナの検査、アイヒマンへの報告の後、結局、レイチェルの無邪気な熱意に負けて、一緒に来ることになった艦内の食堂。

 殺風景ではあるが、潜水艦の艦内というと厳格なルールに則って、クルーの行動は厳しく管理されているイメージだが、このドイツの艦は違っていた。民間企業のスタッフも多く乗り込み、軍民合同で艦の運営と、ブレインアーマー等の整備が行われているため、食堂内の雰囲気も和んだ感じがする。

 リヒター三機と支援戦闘機数機、戦闘ヘリを搭載しているのはケイスも知っているが、他の搭載兵器については明かされていない。総乗員数三千名を超える、海中の動く前線基地(ヘッドクォーター)。艦内の食堂はいくつかに分かれているが、それでもケイス達の来た食堂はスタッフが数百名は余裕で食事が摂れる。

 食堂内のでのモニターでは当たり障りのない、古いアニメーションや映画、浮上時に取得した数時間遅れの情報統制されたニュースを流していた。

 ビュッフェスタイルのカウンターには、潜行中の空母とは思えないくらいの、様々料理であふれている。ステーキやハンバーグといった肉類から、白身魚のフライ、サワラのバターソテー、スクランブルエッグやサニーサイドといった数種類の焼き方焼かれた卵、色とりどりのサラダ、マッシュポテト、ライス、クルミやレーズンの入ったパン、ホットケーキ。

 以前なら、胃が求める旺盛な食欲によって口の中が唾液で潤んだはずだが、今のケイスにはそれすらない。

 興味もなく少量の料理を適当に自分のプレートに盛っていく。最後に紅茶を注いだカップを持ち、他のクルー達の視線を感じながら、比較的空いているはじの方の席に座った。

 レイチェルは小さい体の割には、カウンターのあちこちを飛び回って、ずいぶんとたくさんの料理を盛りつけてきた。

「ケイスさんも一緒に食べてくださいね」

 そう言ってケイスの分も小皿に取り分けると、自分もパクパクと食べ出す。こちらまで美味しくなりそうな笑顔を見せると、

「美味しいです。潜水艦と聞いていたから、全然期待してなかったんですけど、施設の食事よりぜんぜん美味しいですね」

 ケイスはスプーンで一口、湯気のたっているスクランブルエッグをすくって、そのまま黙って見つめた。

「食べないんですか?」

 フォークに刺したウィンナーをそのままに、レイチェルが見つめる。

「いや、あまり、食欲がないんだ」

 そのままスプーンを置く。

「ダメです。食べてください」

 可愛らしい瞳に真剣に真剣な眼差しで言った。

 それでも、戸惑っているケイスに

「口蓋内の構築(ビルド)と神経節の調整は私が担当したんです」

 そう言うと少し悲しい顔をする。

「以前の様にとはいかないかもしれません。けど、がっかりさせるようなこともないと思います」

 そして、もう一度ケイスの目を真剣に見つめた。

 仕方なく、もう一度すくったスクランブルエッグを口に含んでみる。うまく口に含むことができず、顎のパーツの上に少しこぼれてしまう。

 それをもどかしげにぬぐってから、咀嚼をすると、遠いところから、食欲を刺激するバターの香りとタマゴの風味。懐かしいようで、新しい感覚。

「どうですか?何か変なところをありませんか?」

 黙って咀嚼を続けるケイスに心配そうに聞く。

「いや、思っていたよりも感じるんだな」

 お世辞でもなく、そう思った。どことなく懐かしい味。長い間忘れていた感覚がそこにあった。きっと、生まれて始めて、母乳以外の食べ物を口から摂取した時の感覚。

「はじめは、すごく、味が遠い感じがすると思います。生体材料の神経節の接合と、脳内神経の対応が進めば、もう少し生身の頃に近づくと思うんです」

 嚥下した食べ物が、偽物の内臓を通り胃の辺りに落ち込み、エネルギーに代わる感覚。

 ケイスがレイチェルに頷いた。自分が微笑んでいるようだと気がついた。今度はホットケーキを切り分ける。少し震える手で小さなプラスチックのパッケージに入ったメープルシロップをかけ回す。遠い所で、湯気に甘い香りがのった気がする。

 そのまま、ひとかけらをフォークで刺すと、ゆっくりと口に運んだ。

 香ばしい小麦の香り。メープルシロップの甘さ。バターのこく。優しく、懐かしい思い出。

 雑音混じりのラジオ。切ない声のシャンソンが脳内に響き、ナオミの優しい笑顔でいっぱいになる。

 戻らない肉体、愛しい人、全てを渇望するような、急激な欲求。俺をここから出せと。このきつい潜水服の中からだしてくれと。今すぐ、俺は全てを取り戻したいんだと。

 靄のかかっていた脳内が急激に覚醒していくのが分かる。薬物や戦闘によるトランスではない。人間的な脳の活性化。しばらく忘れていた感覚。これは、なんだ?この感覚は。憎しみ、切なさ、やるせなさ、哀愁、喪失感、様々な感情の濁流が急激に渦巻いてくる。

 そして、最後に、この感覚は。

 ホットケーキを口に運んだまま静止してしまったケイスを心配そうに見つめるレイチェルの姿が、ケイスのゴーグルに映し出される。

 それでも、ゆっくりと咀嚼を開始して、飲み下す。切り分けて、ひとかけらを口に運ぶ。同じ動作を繰り替えす。

「ケイスさん…?」

 心配するレイチェルの顔が遠くなる。

 腹の内からわき起こってくる、感情の起伏。薬や装置で押さえられたいたものが、ケイスの内側で急速に膨らんでくる。嗚咽とものつかないものがケイスを揺り動かそうとする。息を吸っているのか、吐いているのかわからなくなってくる。

 最後のホットケーキを飲み下すと、ゆっくりと紅茶を飲み込む。アールグレイの香りが水をかけたように心をなだめる。

 ゆっくり息を吸って吐く。身体のリズムを感じながら、心を静める。

『息を吸って、吐く。それが生きる道。おまえ達は呼吸をないがしろにしすぎる』

 畳の香りと汗の臭い、ナオミの声がする。

「大丈夫ですか?どこか調子がわるいですか?」

 レイチェルが少し青ざめて見つめる中、

「いや、大丈夫だ。ちょっと感動してた」

 ケイスがようやく言うと、

「よかったぁ。もし調子がわるかったらいつでも言って下さいね」

「ああ。ただ、君みたいな、かわいい子に口の中をいじられるのはあまり気がすすまない」

「だめですよ、ちゃんと言って下さいね」

 レイチェルがようやく笑顔になって、食事の続きを始めた。

 ふと見ると、食堂のモニターでは、白黒の画面で追いかけっこをするネズミと猫のアニメーション。

 賢いネズミが色々な手で猫を追い詰めていく。最後に飼い主が登場して、猫をしかり始め、ずたぼろになった猫がアップになった時だった。

 画面が一瞬ちらつき、グレーアウト。そのうちに、シルバーに光るラインで格子状のワイヤーフレームが画面いっぱいに広がり、そして、真ん中が膨らみだした。

 膨らんできたところは鼻のようだった。人間の鼻ではない、獣の鼻。そのあと、ピンと伸びたヒゲと頭部に比べて大きな目と口、頭に立った耳がせり上がる。

 粗いワイヤーフレームで構成されたその顔、大きな目と口が強調された、チェシャ猫だった。

「ケイス、脱獄の時間だよ」

 頭蓋の内側をサンドペーパーで削る様な、ざらついた電子音の混じった人口の声が脳内に響く。

 食堂内のすべてのモニターに顔が浮かび、 その全てがケイスの方を向いていた。

「どうしたんですか?」

 じっとモニターを見つめ続けるケイスを不思議そうにレイチェルが見つめた。

「いや、あのモニターに・・・」

 ケイスが眼をそらさずに言うと、

「最近よくやっているアニメですよね。ネズミと猫が追いかけっこする」

 レイチェルも同じ様に、モニターに眼を向ける。

「あの猫とネズミのキャラクターは、ドイツでも文房具になったりしていますよ」

 そう言うと、クスクスと少し笑った。

「無駄だケイス。この映像は君の体内器官の周波数にだけ合わせてある」

 チェシャ猫がもう一度言う。ザラザラとした電子音が少し和らいできた様だ。さっきより、不快感が少ない。

「さあ、レディーに失礼だ。食事を続けたまえ」

 大きな目と口で、チェシャ猫がニヤリと笑った。

 モニターから眼を戻したレイチェルに軽く頷くと、ケイスも食事を続ける。よく裏ごしされた、乾燥バジルの振りかけられたマッシュポテトを口へ運ぶ。

「よろしい、ケイス君。素直さは美徳だ」

 モニターの中でワイヤーフレームが満足そうに頷いた。

「さあ、ケイス、脱獄の時間だよ」

 幻覚と幻聴。レイチェルに話した方が良いのだろうか?

 パクパクとさも美味しそうに目の前のハンバーグを平らげているレイチェルがこちらに向かって微笑む。

「ケイス君。やめておいた方がいい。君の故障だと思われてもつまらない」

 そして、また、「ク、ク、ク・・・」と品悪く笑う。

 ケイスが何か言おうとするのを、遮るように

「まだ、そちらからの、フォワードを受け取ることはできない。次回までに送信インターフェースを用意しよう。単独で行動中の潜水艦にアクセスすのは、君が思っている以上に大変なのだよ」

 そして、大きな目をくるりと回すと

「まだ、半信半疑のようだな。今日は、君にとって大切な選択肢について考えてもらおうと挨拶にきた」

 ゲラゲラと下品に笑う。黒板を爪でひっかく様な、神経を逆なでする笑い声。

 すると突然の、照明の色が赤く切り替わった。続けて、警報音。今の出来事が原因かと思い、ケイスがドキリとするが状況は違うようだ。

「第六区画、ツヴァイリプレイスメントに状況103発生」

 レイチェルが立ち上がり、早くも艦内用のハンディフォンを取り出して話し始める。

 チェシャ猫の顔が薄れていき、最後に残った大きな目だけをギョロリとさせると消えてしまう。

 食堂の出口に向かっていたレイチェルが、まだ椅子に座ってぼーっとしているケイスにくるりと振り返った。

「ケイスさんも、一緒に来てください」



 第六区画はケイス達、リプレイスメントの居住区と調整や管理のための施設が集約している。

 ケイス達の居た食堂からはすぐだ。

 通路の先に、室内に向かって、銃をかまえた衛兵の一団が現れる。

 ヴァレンティンとアイヒマンの姿も見えた。

 ケイスはなんとなく、嫌な予感が気がした。二番目(ツヴァイ)のリプレイスメントの発狂。幻覚による脱獄の誘い。

「やめるんだ!銃をこちらに渡せ!」

 グリーンのベレーをかぶった衛兵の一人が、グロッグを右手でかまえ、左手を差し出すようにしてゆっくりと近付く。

 女性的なフォルムを強調した美しい形のリプレイスメントボディ。専用に作られたワンピースを着ている。

 手には奪ったグロックと、足元に転がるグリーンベレーと倒れている衛兵。

 女性らしい一種独特な造形で作られた頭部。ケイスと同じゴーグル型の眼部。

 痛々しい形で、右側の頭部が思い切りへこみ、亀裂走っている。

 メイサは少し首を傾げて、ゴーグル型の瞳でこちらを見つめている。手にはグロッグをぶら下げたままだ。

 床には、すでに金色に光る薬莢が二つ転がっていた。

「先生、ここから出してください」

 虚ろな電子音。声帯パーツが損傷している。

「よしなさい。メイサ。あなた、混乱しているだけよ」

 ヴァレンティナの声は少し震えている。

「苦しいんです。ここから出たいんです。この狭い宇宙服の中から」

 ケイスがドキリとする。生体材料とチタン、炭素繊維のハイブリッドに詰め込まれた脳と人工の内臓と筋肉。

 ゴーグル型の瞳から見える世界。人工の心肺での呼吸。ケイスにとっては潜水服に詰め込まれた感覚。

「苦しいんです」

 メイサが無造作に奪ったグロッグをへこんだこめかみの辺りに当てる。躊躇なく引き金を引いた。

 ゴキンと痛々しい金属音。首が左に吹き飛ばされるが、上体は崩れていない。首を再び戻すと、もう一度引き金を引いた。

 再度、重々しい金属音。ピシャリと何かが飛び散った。

 あまりの光景にレイチェルが手で顔を覆う。

 損傷した頭部から、青い液体が流れ出す。

「安定液が・・・」

 ヴァレティナが口を手で覆った。

 頭部を覆っているチタン製の槽が壊れ、内部の安定液、青色の液体が流れ出している。

 メイサの上体がガクガクと震え左に傾いだ。それでもまだ、グロックを持った腕がゆっくりと上がっていく。

「撃て。両肩ごと吹き飛ばしてしまえ。難しければ、首を狙ってもいい」

 アイヒマンが甲高い声で叫んだ。

「脳さえ残ってれば、またすぐに詰め直してやる。何度でもな!」

 ヒステリックな叫びが、周りにいる人たちのすべてを苛つかせるようだ。

(サディストが・・・)

 ケイスは舌打ちをしようとして失敗する。

 それでも衛兵は躊躇していた。リミッターが仕込まれているとはいえ、素手で中隊程度の人数なら制圧できるリプレイスメントだ。下手な刺激は与えたくない。それに頭部の損傷でリミッターが外れている可能性もある。

 警備員の一人、黒人の大男が両手でしっかりとグロックをホールドしながら、左肩で額の汗を拭う。もう既にトリガーに指がめり込み始めている。

 その時、すっと一歩、ケイスの体が前に出た。一番先頭でグロックを構える衛兵を手で遮る。

 あまりに自然な動作だったので、衛兵の動きが一瞬遅れた。

 スッスッと前に出ると、もう一度こめかみにあてがわれようとするグロックにふわりと右手を添える。

 まるで、それが当然のことのように、自然な呼吸でグロックを取ると、メイサの体を左手で抱きしめた。

 もはやメイサは、声帯を使って話すこともできないらしい。ガクガクと震えながら、ケイスの腕に倒れ込んだ。

 我に返った衛兵がケイスとメイサを囲む。白衣を着たスタッフがストレッチャーを押してきて、メイサを横たえた。ヴァレンティナとレイチェルが付き添って急いで部屋から出ていった。

「なんの仕業だ?」

 アイヒマンがつかつかとケイスの前に来ると、ゴーグルをのぞき込む。

「何が?」

「今のことだよ。貴様、何をしたんだ?」

「別に、ただ彼女はここから出たかっただけだとわかったからな」

 ケイスが自分の頭を一差し指で軽くつつく。

 アイヒマンの口元が引きつった。

「西側の軍事費を大量につぎ込んで生かされているおまえらに生死の選択権はない。脳が残っている限り何度でも蘇らせてやる」

 ギロリとケイスのゴーグルが見つめた。アイヒマンが少し後ずさる。

「死にたい訳じゃない。ここから出たいだけだ。俺もこの"潜水服"の中から」

「それが、貴様らにとっては死ぬってことだ。脳がリプレイスメントされた体に適合した強運にもう少し感謝した方がいい」

 アイヒマンは、甲高い声言うと、そのまま部屋を出て行った。

 ケイスは右手に握られたメイサから取り上げたグロックを見つめる。

 特殊樹脂で作られた拳銃が鈍く光った。

「ケイス准尉。それを」

 右肩が叩かれる。さっきの黒人の衛兵が、慎重に自分の右手を差し出した。

 ケイスはグロックを見つめて肩をすくめると、ゆっくりと渡す。

「ありがとう。ケイス准尉」

 衛兵が大きなため息をつくのを、後ろに聞きながらケイスも部屋を出る。

 最初に口に残ったホットケーキの香りと、その後、メイサのへこんだ頭部がケイスの脳裏に浮かんだ。
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