（１７）　折り入って３

　坂の途中、海よりも山に近いあたりに建つ小さなビル。その一階の薄暗い通路の奥という目立たない場所に、その店はあった。

　ビルの前を危うく通り過ぎてしまうところだった。俯き加減に歩いていたことが奏功した。小さな行灯(あんどん)が目に入って、足を止めた。蝋燭を模したLEDの灯りが揺れて、「夏雪」という文字を浮かび上がらせていた。

　小料理屋「夏雪」。その店名が染め抜かれた暖簾をくぐる。
　先客はなく、少し迷った末にカウンタの端の席についた。

　迎えてくれた女将は、和装に割烹着姿。とても可愛らしい人だ。そして、どこか見覚えがあると思わせる人だった。

「はじめましてですよね。おひとり？　それとも待ち合わせ？」
　
　おしぼりを受け取りながら、あとからもう一人来ますと答えた。

「何か飲みながら待ちますか？」

「いえ。すぐ来られると思いますから、このまま待ちます」

「あなたみたいな美人さんを待たせるなんて、いけない男はどんな男かしら」

　女将は待ち人を勝手に男だと決めつけ、悪戯っ子のように顔をほころばせた。只者ではない感が、満ち溢れている。

　何故この女将に見覚えがあるのだろう。そんなことを考えていると、背後の扉が開いて女将の視線がそちらに向いた。

「あら。各務(かがみ)さん。いらっしゃいませ」
　
　次長だった。
　慌てて席を立って、振り返る。

「お疲れ様です」

　軽く頭を下げると、次長はにこやかに手をあげて応えてくれた。

「あら。こんな美人を待たせるなんて、どんな色男が来るのかと思ったら、各務さんのお連れさんなの？」

「女将。最近は、たとえ美人だなんて褒め言葉でも、迂闊(うかつ)に口にするとセクハラになるんだよ。だから、思ってても言わないの」

「あら、そうなの？　わたしにはいくら言ってくれても大丈夫よ。さあ、言っていいわよ」

「女将は言われ慣れてるでしょ」

「そうでもないわ。みんな、可愛いとは言ってくれるけど、美人だって言ってくれる人はなかなかいないのよ。男ってみんな恥ずかしがり屋さんなのね」

「女将さん、同性のわたしから見ても、お世辞抜きにとっても綺麗です」

「あら。あなた、美人な上に正直なのね。わたしと一緒」
　
　謙遜しない可愛らしさというのは才能なのだろう。同性から見ても嫌味がない。

「各務さんはたいてい一人で来るんだけど、たまに二人で来るときはいつも美人を連れてくるのよ。気をつけた方がいいわ」

「え、そうなんですか」

「人聞きの悪いことを言わないでよ。ここで女性と飲んだのなんて、一回だけじゃないか」

　次長は隣の席に座りながら、苦笑いで女将に抗議した。
　次長が座ったのを見て、隣の椅子をさりげなく、ほんの少しだけ次長から遠ざけてから腰掛けた。

　その一回の女性とは誰だったのか。わたしの知っている人だろうか。言い方からして奥様ではないようだったので、少しだけ気になった。