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文字数 5,243文字
「でね、彼女が泣き出して、今まで何度も叱ったのに泣かなかった人が、がんばっていたからだね、って褒めたら泣いちゃって……可愛いなあって、惚れ直しました」
(それはよかったですね……)
内心飽き飽きしているのをおくびにも出さず、笑顔を張り付けたまま、頷いて相槌する。
「それがきっかけで、何かイイ感じになったって言うか……」
(知ってます。初めてのデートで遊園地行ってはぐれたことも、動物園に行って大雨に降られたことも。雨宿りしていたライオンのオリの前でキスしちゃったことも)
現在、というか、過去二十年間、生まれてこのかた彼女なんてものが出来たことのないハルにとって、人の恋バナ、というか、ノロケ話を聞かされていて、面白い訳がない。
しかも、彼女サイドから同じ話を既に聞かされているのだ。
もっとも、男側は彼女が仕事に妥協しない男らしい面に惚れて、と思っているようだけど。
『もう、怒鳴ってばっかで、このオヤジウザイ! て感じィ? でも負けるもんか! 泣くもんか! ってェ。ソレが、がんばっているから、なんて急に褒められて、緊張の糸がプツンってしてェ。泣いちゃってェ、そしたら彼慌てちゃってェ、粗品用のタオル、ビニールはがして渡すじゃない! おい、いいのかソレ? って言うか普通ハンカチだろ? ってもう呆れちゃてェ……でも、可愛いなあってェ』
ハイハイハイハイ……。
思い出しただけで、頭が痛くなる。
既に食傷気味なところに、また同じ話で、正直、いい加減にしてくれ、と言いたい所ではあるが。
相手が受け持ち患者さん(とその夫)である以上、ハルは笑顔で応えるしか、ない。
産科病棟実習中、である。
正確には母性看護学実習、で、どうにも、男子学生には非常にやりにくい実習である。
ハルは子供が大好きだし、ハルの同級生も子供好きが多い。新生児に関わるのは、正直楽しみでしょうがない。しかし。
何と言っても、受け持ち患者さん(正確には妊産婦さん、または褥婦さん、と呼ぶ。出産は病気ではないので)あっての臨地実習なのである。つまり、相手はすべて女性なのである。デリケートな場面で、男子がどう思われるのか怖いし、何より妊産婦さんたちに拒否されたら、と考えるだけで、とても気が重い。
だから、ハルの学校では男子学生は、母性看護学実習を男女の区別なく習得することを定める一方で、可能な限り病棟スタッフや教員とともに病室(この場合は褥室という)に訪問することが定められている。また、授乳、乳房マッサージ、悪露処置等々、受け持ち対象の女性にとって大きな羞恥心を伴う援助や見学に関しては、「可能であれば」する、ということになっており、普通分娩は原則背後もしくは側方から見学、帝王切開その他の見学・援助も女子学生とペアで行なうことが基本である。妊産婦さん達の気持ちに最大限の配慮をしつつ、何とか男子学生にも学びを、という、試行錯誤の結果である。
ところが。
今回の実習で、女子学生の受け持ち妊婦さん・褥婦さんが皆さん、男子の同伴をお断りになられた。
というか、大部屋への立ち入りを拒否する方が、各部屋にいたため、実質受け持ち出来なくなってしまったわけである。
産科病棟の入院日数はトラブルがなければ出産後五日、帝王切開でも一週間と、回転が早いので、実習期間中には何とか受け持ち出来るのかも、と楽観していた、が。
二週目に入っても中々決まらず、正直焦って来ていた。待っている間、ちょうど開催されていた父親教室に参加したり、外来で妊婦さんと関わることはできたし、新生児室実習もできた。が、肝心の出産前後――分娩・産褥期実習ができていない。
教員からは、とにかく許可をもらった褥婦さんのカルテ情報を記録にまとめ、最悪見学はビデオ学習でも単位が取れるように配慮するから、と言われているが。
ハルの前に実習に来ていた男子の同級生たちが、皆実習できていたのに……自分だけ受け持ち拒否されたことも、正直つらかった。
「個室の妊婦さんが、試しに話してみたいって」
指導者(病棟スタッフ)からオファーを受け、挨拶に伺った先には、加山菜摘さん・二十六歳・初産婦が待っておられた。入院したものの、陣痛が止まってしまい、現在陣痛促進剤の点滴中である。
顔を見るなり、
「あ、そうそう、この子。可愛いなって思っていたんだ。いいよ。受け持ちしても」
と即答された。
どうやら外来で実習してた時に見かけたらしく(申し訳ないが、ハルは覚えていなかった)、指導者から打診があって、ピンと来たという。折よく、一人目の受け持ち褥婦さんが退院した女子学生とともに、受け持ちが決定した。
それが昨日の水曜日の夕方の話。
そして、今日は分娩。
日中に分娩に当たるのは、かなりラッキーである。しかも、朝一番から。
出産は二十四時間、いつ始まるか分からない。
女子学生でも受け持ち妊婦さんの正常分娩に当たらず(陣痛は始まっていても、というか始まって入院してくることが多いンだけど、特に初産の場合、長引くことが多い。十~十五時間、二十時間以上かかる人もいる)、他の学生と一緒に受け持ち以外の分娩を見学することも多い。
さて、日中の分娩に当たったラッキーなハルが、先程から恋バナに(不本意ながら)耳を傾けているのは、分娩室に入れてもらえないからである。
最初は分娩見学も許可されていたのだが、陣痛が進み、痛みが最高潮のタイミングで、立会中の旦那さんが「まだ時間がかかるのかな」のポツンと漏らした一言が逆鱗に触れた。
「出てけ! こっちは死にそうな思いをしてるのに! キー! 男は出ていけー!」
突如、立ち会いを拒否されてしまった夫・俊明さんとともに、ハルまで分娩室から追い出されてしまった。とんだとばっちりである。
俊明さんは立ち会いをしたいとごねて、再入室を打診したが、
「うるさい! 入ってくるなー!」
と、菜摘さんにこちらも再度追い出されたのである。
「……ギリギリになったら、また声かけますから。土岐田君、も、ね」
と、助産師に言われ、分娩室の外にある待合用のソファーに腰かけて、二人の男は待つ羽目になった。
「ずっと腰をもんでいたのにさあ、肝心な所でのけ者だよ。ヒドイよねえ」
「はあ、でも陣痛の痛みはスゴいらしいんで……奥さん、気が立っていたんですよ」
不用意な一言が原因とは言え、ずっと付き添って菜摘さんに気を遣っていたのはハルも知っているので、何とか慰めようと答える。
「そうかい? そんなに痛いの?」
「らしいです。たとえば」
「わあ、いいよ! 聞いたら夢に出そう。俺、痛いのダメなんだ。……よかった、君がいてくれて。俺一人でここで待たされていたら、正気保てないかも」
扉の向こうから、菜摘さんの泣き叫ぶ声と叱咤激励する助産師や看護師の声が、途切れ途切れ聞こえてくる。
その恐怖を紛らせるためなのか、単に間が持てなかったからなのか、ポツポツと俊明さんは父親になる期待や不安を口にし始め、やがて……冒頭の恋バナ披露につながる。
不意に、菜摘さんの叫び声が途絶えた。二人で耳を澄ましながら、音沙汰を待つが、中からは誰も出てこない。ふう、と俊明さんは疲れたようにため息をつく。心配そうに顔をのぞき込むハルに気付いて、大丈夫、というように微笑んだ。
「土岐田君、だっけ? マジ最初、何で男の子が産科の実習なんだ、よりによって男の子に受け持ってもらうなんて、って反対したんだよ」
確かに愛妻が寝間着姿で若い男と過ごす様子は夫として耐えがたいのかもしれない。
「でも菜摘が、すごく真面目で家族想いの優しい子だから、承諾したんだって言うから。助産師さんや看護師さん達が小さい頃からよく知っていて、そこだけは保証しますって」
……そんなやりとりがあったとは知らなかった。
確かに、亡き母が、この産科病棟の隣にある小児科病棟の個室を特例で使わせてもらっていた時、家に帰るより先に母の病室に帰る毎日だった。
メイの出産で産科に移る前から、よく看護師さん達には、声をかけてもらっていた。
キリ・ナミは時々オヤツまでもらっていたので、二人の手を引いてステーションにお礼に行くこともあった。
三兄弟も実はこの病院で産声をあげたのだ。
母の死んだこの産科病棟は、悲しい場所であると同時に懐かしい場所でもある。
「ホント、君といると何だか落ち着いてくるよ。年下なのに、頼るようでゴメン。でも、ありがとう。退院するまで、菜摘のこと、お願いします」
「……ありがとうございます」
すみません、いい加減にしてくれ、とか思って。
それで安らぐのなら、何度だって同じ話を聞きます。
基本お兄ちゃん気質のハルである、頼られると俄然ヤル気が倍増する。
さっきまでの貼り付けた笑顔でなく、心から笑って、俊明さんの話に耳を傾け。
「お待たせしました。立会して大丈夫ですって。やっぱり、旦那さんに手を握ってもらいたいそうですよ」
中からサポートの看護師が顔を出し、声をかけてくれる。
「どうぞ中に入って……土岐田君も」
声と共に招き入れられ、俊明さんに続いて分娩室に入った。
陣痛の合間で、疲労感はあるものの、少し穏やかになった菜摘さんが、涙ぐんで俊明さんに手を伸ばす。
「ゴメンね、あんまり痛くて……でも、やっぱり……」
「いいよ、僕なんて手を握っているだけなのに、変なこと言ってゴメンね」
「ううん、私こそ……う、また来た」
再び陣痛の波が襲い、菜摘さんが苦痛に顔を歪めると、助産師が「もう少しですよ、赤ちゃんも頑張っていますからね」と声をかける。
やがて、助産師の誘導で呼吸を整えながら、いきみ始めた菜摘さんを見守り……。
「元気な女の子ですよ! お母さん、頑張りましたね。おめでとう」
娩出され、しばらくして大きな産声を上げた赤ちゃんは、菜摘さんの胸もとに運ばれ、親子三人の初対面を果たした。
嬉しそうな菜摘さんと俊明さんの顔を見て、ハルは自分が生まれた時を思い浮かべた。もちろん記憶にはない。でも。
まるで見てきたように思い出せるのは、今は亡き母の美晴さんが暎比古さんと一緒に嬉しそうに語ってくれた思い出話のためだろう。きっと、こんな顔をして、喜んでくれたのではないだろうか。
しかし、ゆっくり思い出に浸っている間もなく、続いて胎盤剥離・娩出と続き、さまざまな測定や観察に追われ、ようやく分娩見学が終了した頃には、すでに正午をだいぶ回っていた。
疲労困憊ではあったが、同時に充実感もあった。指導者にあいさつし、相方の女子学生とともに昼休みに入るハルの足取りは軽かった。
その時。
階下にある食堂に向かうため、産科病棟のエレベーターホールの隅にある階段室に入ろうとしたハルの背筋が凍った。
振り向くと、ちょうど、エレベーターが開いた。
出てきたのは、三十歳手前くらいの、若い女性と、六十歳くらいの初老の二人の女性。
にこやかにおしゃべりしている初老の女性二人を、穏やかな笑顔で見守っていた女性は、ハルと目が合うと、「こんにちは」とあいさつをした。
「こんにちは」
反射的に挨拶を返し、通り過ぎる女性達を見送る。三人は産科とは反対側の棟にある小児科病棟へ向かっていった。
女性達がそれぞれ押していたのは、キャスターのついた本棚だった。
「そうか、移動図書室……」
小児科病棟をはじめ、定期的に病棟に図書館職員がやってきては、本の貸し出しサービスをしていることを思い出した。それに、小児科病棟では、絵本の読み聞かせもしてくれていた記憶がある。入院患者ではないが、美晴さんの面会にきた時に、ナミにせがまれて一緒に聞いたことを思い出した。
今ではあんなこまっしゃくれたナミが、絵本の読み聞かせをせがむなんて、そんなかわいい頃もあったんだよな、と思い出に浸りたいところだが。
「土岐田君、行くよ?」
女子学生に声をかけられ、ハルは慌てて後を追う。
階段を下りながら、ハルは先ほどの若い女性を思い出していた。
ごく普通の、若い女性が普段着に来ているような、無地の水色のカットソーに、デニムのスカート。グレーのスニーカーは、パッと見、泥汚れはなかった。
後ろで一つに束ねた髪の毛は、無造作ではあるが、ぼさぼさというのでもない、清潔な様子。それだけだったら、当たり前に見かける、風体なのに。
むしろ、穏やかな笑顔は、春の日を思わせる。目が合った瞬間、自然に紡ぎ出された挨拶の声は、読み聞かせにも向いていそうな、優しく耳触りのよいメゾソプラノで。
なのに。
執着。
羨望。
嫉妬。
エレベーターの扉があいた瞬間、そんな感情が、オーラとなって立ち上っている、気がした。今日感じた、様々な温かい感情が、みんな消えてしまいそうな……背筋が総毛立つ、寒気。
春の日のような笑顔に似つかわしくない、そんなどす黒い感情に身を包まれたあの女性の存在が、ハルは恐ろしかった。
(それはよかったですね……)
内心飽き飽きしているのをおくびにも出さず、笑顔を張り付けたまま、頷いて相槌する。
「それがきっかけで、何かイイ感じになったって言うか……」
(知ってます。初めてのデートで遊園地行ってはぐれたことも、動物園に行って大雨に降られたことも。雨宿りしていたライオンのオリの前でキスしちゃったことも)
現在、というか、過去二十年間、生まれてこのかた彼女なんてものが出来たことのないハルにとって、人の恋バナ、というか、ノロケ話を聞かされていて、面白い訳がない。
しかも、彼女サイドから同じ話を既に聞かされているのだ。
もっとも、男側は彼女が仕事に妥協しない男らしい面に惚れて、と思っているようだけど。
『もう、怒鳴ってばっかで、このオヤジウザイ! て感じィ? でも負けるもんか! 泣くもんか! ってェ。ソレが、がんばっているから、なんて急に褒められて、緊張の糸がプツンってしてェ。泣いちゃってェ、そしたら彼慌てちゃってェ、粗品用のタオル、ビニールはがして渡すじゃない! おい、いいのかソレ? って言うか普通ハンカチだろ? ってもう呆れちゃてェ……でも、可愛いなあってェ』
ハイハイハイハイ……。
思い出しただけで、頭が痛くなる。
既に食傷気味なところに、また同じ話で、正直、いい加減にしてくれ、と言いたい所ではあるが。
相手が受け持ち患者さん(とその夫)である以上、ハルは笑顔で応えるしか、ない。
産科病棟実習中、である。
正確には母性看護学実習、で、どうにも、男子学生には非常にやりにくい実習である。
ハルは子供が大好きだし、ハルの同級生も子供好きが多い。新生児に関わるのは、正直楽しみでしょうがない。しかし。
何と言っても、受け持ち患者さん(正確には妊産婦さん、または褥婦さん、と呼ぶ。出産は病気ではないので)あっての臨地実習なのである。つまり、相手はすべて女性なのである。デリケートな場面で、男子がどう思われるのか怖いし、何より妊産婦さんたちに拒否されたら、と考えるだけで、とても気が重い。
だから、ハルの学校では男子学生は、母性看護学実習を男女の区別なく習得することを定める一方で、可能な限り病棟スタッフや教員とともに病室(この場合は褥室という)に訪問することが定められている。また、授乳、乳房マッサージ、悪露処置等々、受け持ち対象の女性にとって大きな羞恥心を伴う援助や見学に関しては、「可能であれば」する、ということになっており、普通分娩は原則背後もしくは側方から見学、帝王切開その他の見学・援助も女子学生とペアで行なうことが基本である。妊産婦さん達の気持ちに最大限の配慮をしつつ、何とか男子学生にも学びを、という、試行錯誤の結果である。
ところが。
今回の実習で、女子学生の受け持ち妊婦さん・褥婦さんが皆さん、男子の同伴をお断りになられた。
というか、大部屋への立ち入りを拒否する方が、各部屋にいたため、実質受け持ち出来なくなってしまったわけである。
産科病棟の入院日数はトラブルがなければ出産後五日、帝王切開でも一週間と、回転が早いので、実習期間中には何とか受け持ち出来るのかも、と楽観していた、が。
二週目に入っても中々決まらず、正直焦って来ていた。待っている間、ちょうど開催されていた父親教室に参加したり、外来で妊婦さんと関わることはできたし、新生児室実習もできた。が、肝心の出産前後――分娩・産褥期実習ができていない。
教員からは、とにかく許可をもらった褥婦さんのカルテ情報を記録にまとめ、最悪見学はビデオ学習でも単位が取れるように配慮するから、と言われているが。
ハルの前に実習に来ていた男子の同級生たちが、皆実習できていたのに……自分だけ受け持ち拒否されたことも、正直つらかった。
「個室の妊婦さんが、試しに話してみたいって」
指導者(病棟スタッフ)からオファーを受け、挨拶に伺った先には、加山菜摘さん・二十六歳・初産婦が待っておられた。入院したものの、陣痛が止まってしまい、現在陣痛促進剤の点滴中である。
顔を見るなり、
「あ、そうそう、この子。可愛いなって思っていたんだ。いいよ。受け持ちしても」
と即答された。
どうやら外来で実習してた時に見かけたらしく(申し訳ないが、ハルは覚えていなかった)、指導者から打診があって、ピンと来たという。折よく、一人目の受け持ち褥婦さんが退院した女子学生とともに、受け持ちが決定した。
それが昨日の水曜日の夕方の話。
そして、今日は分娩。
日中に分娩に当たるのは、かなりラッキーである。しかも、朝一番から。
出産は二十四時間、いつ始まるか分からない。
女子学生でも受け持ち妊婦さんの正常分娩に当たらず(陣痛は始まっていても、というか始まって入院してくることが多いンだけど、特に初産の場合、長引くことが多い。十~十五時間、二十時間以上かかる人もいる)、他の学生と一緒に受け持ち以外の分娩を見学することも多い。
さて、日中の分娩に当たったラッキーなハルが、先程から恋バナに(不本意ながら)耳を傾けているのは、分娩室に入れてもらえないからである。
最初は分娩見学も許可されていたのだが、陣痛が進み、痛みが最高潮のタイミングで、立会中の旦那さんが「まだ時間がかかるのかな」のポツンと漏らした一言が逆鱗に触れた。
「出てけ! こっちは死にそうな思いをしてるのに! キー! 男は出ていけー!」
突如、立ち会いを拒否されてしまった夫・俊明さんとともに、ハルまで分娩室から追い出されてしまった。とんだとばっちりである。
俊明さんは立ち会いをしたいとごねて、再入室を打診したが、
「うるさい! 入ってくるなー!」
と、菜摘さんにこちらも再度追い出されたのである。
「……ギリギリになったら、また声かけますから。土岐田君、も、ね」
と、助産師に言われ、分娩室の外にある待合用のソファーに腰かけて、二人の男は待つ羽目になった。
「ずっと腰をもんでいたのにさあ、肝心な所でのけ者だよ。ヒドイよねえ」
「はあ、でも陣痛の痛みはスゴいらしいんで……奥さん、気が立っていたんですよ」
不用意な一言が原因とは言え、ずっと付き添って菜摘さんに気を遣っていたのはハルも知っているので、何とか慰めようと答える。
「そうかい? そんなに痛いの?」
「らしいです。たとえば」
「わあ、いいよ! 聞いたら夢に出そう。俺、痛いのダメなんだ。……よかった、君がいてくれて。俺一人でここで待たされていたら、正気保てないかも」
扉の向こうから、菜摘さんの泣き叫ぶ声と叱咤激励する助産師や看護師の声が、途切れ途切れ聞こえてくる。
その恐怖を紛らせるためなのか、単に間が持てなかったからなのか、ポツポツと俊明さんは父親になる期待や不安を口にし始め、やがて……冒頭の恋バナ披露につながる。
不意に、菜摘さんの叫び声が途絶えた。二人で耳を澄ましながら、音沙汰を待つが、中からは誰も出てこない。ふう、と俊明さんは疲れたようにため息をつく。心配そうに顔をのぞき込むハルに気付いて、大丈夫、というように微笑んだ。
「土岐田君、だっけ? マジ最初、何で男の子が産科の実習なんだ、よりによって男の子に受け持ってもらうなんて、って反対したんだよ」
確かに愛妻が寝間着姿で若い男と過ごす様子は夫として耐えがたいのかもしれない。
「でも菜摘が、すごく真面目で家族想いの優しい子だから、承諾したんだって言うから。助産師さんや看護師さん達が小さい頃からよく知っていて、そこだけは保証しますって」
……そんなやりとりがあったとは知らなかった。
確かに、亡き母が、この産科病棟の隣にある小児科病棟の個室を特例で使わせてもらっていた時、家に帰るより先に母の病室に帰る毎日だった。
メイの出産で産科に移る前から、よく看護師さん達には、声をかけてもらっていた。
キリ・ナミは時々オヤツまでもらっていたので、二人の手を引いてステーションにお礼に行くこともあった。
三兄弟も実はこの病院で産声をあげたのだ。
母の死んだこの産科病棟は、悲しい場所であると同時に懐かしい場所でもある。
「ホント、君といると何だか落ち着いてくるよ。年下なのに、頼るようでゴメン。でも、ありがとう。退院するまで、菜摘のこと、お願いします」
「……ありがとうございます」
すみません、いい加減にしてくれ、とか思って。
それで安らぐのなら、何度だって同じ話を聞きます。
基本お兄ちゃん気質のハルである、頼られると俄然ヤル気が倍増する。
さっきまでの貼り付けた笑顔でなく、心から笑って、俊明さんの話に耳を傾け。
「お待たせしました。立会して大丈夫ですって。やっぱり、旦那さんに手を握ってもらいたいそうですよ」
中からサポートの看護師が顔を出し、声をかけてくれる。
「どうぞ中に入って……土岐田君も」
声と共に招き入れられ、俊明さんに続いて分娩室に入った。
陣痛の合間で、疲労感はあるものの、少し穏やかになった菜摘さんが、涙ぐんで俊明さんに手を伸ばす。
「ゴメンね、あんまり痛くて……でも、やっぱり……」
「いいよ、僕なんて手を握っているだけなのに、変なこと言ってゴメンね」
「ううん、私こそ……う、また来た」
再び陣痛の波が襲い、菜摘さんが苦痛に顔を歪めると、助産師が「もう少しですよ、赤ちゃんも頑張っていますからね」と声をかける。
やがて、助産師の誘導で呼吸を整えながら、いきみ始めた菜摘さんを見守り……。
「元気な女の子ですよ! お母さん、頑張りましたね。おめでとう」
娩出され、しばらくして大きな産声を上げた赤ちゃんは、菜摘さんの胸もとに運ばれ、親子三人の初対面を果たした。
嬉しそうな菜摘さんと俊明さんの顔を見て、ハルは自分が生まれた時を思い浮かべた。もちろん記憶にはない。でも。
まるで見てきたように思い出せるのは、今は亡き母の美晴さんが暎比古さんと一緒に嬉しそうに語ってくれた思い出話のためだろう。きっと、こんな顔をして、喜んでくれたのではないだろうか。
しかし、ゆっくり思い出に浸っている間もなく、続いて胎盤剥離・娩出と続き、さまざまな測定や観察に追われ、ようやく分娩見学が終了した頃には、すでに正午をだいぶ回っていた。
疲労困憊ではあったが、同時に充実感もあった。指導者にあいさつし、相方の女子学生とともに昼休みに入るハルの足取りは軽かった。
その時。
階下にある食堂に向かうため、産科病棟のエレベーターホールの隅にある階段室に入ろうとしたハルの背筋が凍った。
振り向くと、ちょうど、エレベーターが開いた。
出てきたのは、三十歳手前くらいの、若い女性と、六十歳くらいの初老の二人の女性。
にこやかにおしゃべりしている初老の女性二人を、穏やかな笑顔で見守っていた女性は、ハルと目が合うと、「こんにちは」とあいさつをした。
「こんにちは」
反射的に挨拶を返し、通り過ぎる女性達を見送る。三人は産科とは反対側の棟にある小児科病棟へ向かっていった。
女性達がそれぞれ押していたのは、キャスターのついた本棚だった。
「そうか、移動図書室……」
小児科病棟をはじめ、定期的に病棟に図書館職員がやってきては、本の貸し出しサービスをしていることを思い出した。それに、小児科病棟では、絵本の読み聞かせもしてくれていた記憶がある。入院患者ではないが、美晴さんの面会にきた時に、ナミにせがまれて一緒に聞いたことを思い出した。
今ではあんなこまっしゃくれたナミが、絵本の読み聞かせをせがむなんて、そんなかわいい頃もあったんだよな、と思い出に浸りたいところだが。
「土岐田君、行くよ?」
女子学生に声をかけられ、ハルは慌てて後を追う。
階段を下りながら、ハルは先ほどの若い女性を思い出していた。
ごく普通の、若い女性が普段着に来ているような、無地の水色のカットソーに、デニムのスカート。グレーのスニーカーは、パッと見、泥汚れはなかった。
後ろで一つに束ねた髪の毛は、無造作ではあるが、ぼさぼさというのでもない、清潔な様子。それだけだったら、当たり前に見かける、風体なのに。
むしろ、穏やかな笑顔は、春の日を思わせる。目が合った瞬間、自然に紡ぎ出された挨拶の声は、読み聞かせにも向いていそうな、優しく耳触りのよいメゾソプラノで。
なのに。
執着。
羨望。
嫉妬。
エレベーターの扉があいた瞬間、そんな感情が、オーラとなって立ち上っている、気がした。今日感じた、様々な温かい感情が、みんな消えてしまいそうな……背筋が総毛立つ、寒気。
春の日のような笑顔に似つかわしくない、そんなどす黒い感情に身を包まれたあの女性の存在が、ハルは恐ろしかった。