第3話

文字数 3,147文字

 

 ――最悪だ。
 会社から家に帰る途中、私は普段とは逆の方向から乗り換え駅を目指していた。つまり、一度乗り過ごしたのだ。暖房が効き過ぎた車内はもわっと熱くて、頭が痛いなと思ううちにいつもの駅を過ぎていた。

 仕事ではミスがあった。数日前にこちらで製本して先方に送った契約書が、一つ前のバージョンだった。別の会議があって急いでいた上司からなるべく早く送ってと口頭で急かされ、慌てて出したものだ。今から修正(なお)して郵送では間に合わないので、直接先方に赴き届ける形で事なきを得た。

 新年の慌ただしさがだいぶ落ち着き、今年も頑張るかなんて、柄にもなく思った矢先のことだった。予定外の外出をしたせいでその後の仕事も思うように進まず、珍しく数時間の残業をした。

 ミスは誰にでもあるし、いちいちくよくよしていては仕様がない。平社員の私にできるのは、自分の非をきちんと認め、謝罪し、引きずらないこと。そんなの分かっているはずなのに、一杯になったグラスに最後の一滴を落とした瞬間、何かが溢れて止まらなくなった。もしかしたら今日が、私の二十八歳の誕生日だからかもしれない。


 花屋の前を通る頃には、時刻は二十二時を回っていた。いつしか見慣れたくしゃっとした黒髪の、襟足部分が目に入る。その髪の持ち主はこちらに背を向けて、店のシャッターを閉めるところだった。

「あれ、今日は遅いんですね」
 シャッターを閉め終わり、こちらへ振り向いた彼が言った。
「…………」

 どれほどひどい顔をしていたんだろう。言葉を返さない私の顔を改めて見て、彼は一瞬ぎょっとした表情を浮かべた。それから、店の隣にある自動販売機をそろりと指差した。

「……コーヒーくらい、(おご)りましょうか」



 花屋のすぐ(そば)の階段を上がった先に、ちょっとした広場がある。駅直結のオフィスビルが建っていて、そこのエントランスのようなもの。石でできたベンチや変な形のオブジェがあって、周りにはテナントの飲食店が並ぶ。
 言うまでもなく寒いのだけれど、今日の分の気力を既に使い果たした私には、それがどんな寒さかを形容する(すべ)はない。

 ベンチの一つに腰を下ろし、私は彼から缶コーヒーを受け取った。カシュっと音を立てて開け、一口(すす)る。ケトルで沸かしたお湯に比べると、自動販売機のホット飲料は結構(ぬる)い。それでも猫舌の私には、まだ若干熱い気がする。

 彼は私の隣に座って、静かにコーヒーを飲んでいた。ココアとかミルクティーとか甘い飲み物を選びそうな見た目なのに。意外にも私と同じ、ブラックコーヒーを何食わぬ顔で飲み進めている。


「あ、そうだ」

 彼はふと思い出したように、通勤用であろう黒のトートバッグから一本の花を取り出した。
 ひらひらと蝶のように可愛らしい花が、茎に幾つか並んでいる。白地に絵の具を滲ませたような、グラデーションのある青みの紫は上品で美しい。

「今日のお花です」

 コーヒーを買う前、彼は一度閉めたシャッターを開けて店に戻っていた。忘れ物かと思ったが、これを取ってきてくれたのか。

「……ありがとうございます」
 私はその花を、素直に受け取った。

 不意に、涙が一粒(こぼ)れた。

 再びぎょっとするような気配が隣から伝わってくる。彼はトートバッグをがさごそと手探って、ポケットティッシュを取り出した。差し出されたティッシュで目元と鼻を押さえながら、私は言った。

「……無かったんです」
「え?」
「切り取りたいと思う瞬間なんて、私には無かった」

 目の前の地面に向かって淡々と言葉を落としていく。そこには恨めしさとも取れる響きが、煙のようにじわりと立ち上っていた。

 何を言ってるんだろう。単なる一人の客に数か月前に言った言葉を、彼が覚えているはずもないのに。そこに勝手に救いを感じて、勝手に(ひるがえ)されたような気持ちになって、それを心の奥でいつまでも引きずって。傍迷惑(はためいわく)もいいところだ。

 言うだけ言って、私は押し黙った。横顔に視線を感じるが、彼がどんな顔をしているかは見えない。振り向いてそれを確認する勇気もなく、私はただじっと広場のコンクリートの地面を睨み続けた。


 しばらくして、彼がぽつりと言った。

「別になくてもいいと思いますけど」

 思わず、ぱっと顔を上げて彼を見た。そんなこと、同情やその場しのぎで言ってくれたのなら(かえ)って(みじ)めだ。
 けれどもそこにあったのは、どこかきょとんとしたような、表裏のない彼の眼差し。

「切り取りたいと思う瞬間なんて、なくてもいいんです。あったらあったで、素敵ですけど」
「……はあ」

 間の抜けた、溜め息ともつかない返事が口から漏れた。無理に慰めるでもなく、そんなふうに真っ直ぐな瞳で言われては。

 一杯になったグラスから溢れた水は、いつの間にか形をと
り宙に浮き上がって私の周りでぐるぐると、ある一定のリズムを刻んでいた。それが、ぺしゃんと。唐突に意思を失ったかのように、落ちていった。コンクリートの地面から立ち上る煙が消えた。


「切り取りたい瞬間って、例えばなんですか?」

 ぽけっと彼の顔あたりの空中を見ていたら、訊ねられた。……確かに、そう問われてみれば。

 (すく)った砂が手からさらさらと流れ落ちていくような日常の中。早く何かを得なければ、何かを成さなければ、「締切」がやってくる前に。そんな不透明な恐怖が心を鈍く掴んで、具体的には考えたこともなかった。

 恋愛や結婚? 仕事での成果? 趣味を思いっきり楽しむとか? 改めて考えてみると、そのどれもがそうなような、そのどれもが違う気もした。


 難しい顔をして、今にもうーんと(うな)り声を上げそうな私を見て。彼はくすっと笑った。
「言ったとおり、俺はなくてもいいと思いますけど。ワタナベさんがそう言うなら、」

 ワタナベさん。いきなり呼ばれた名前に驚いて彼を見る。そう言えば、スタンプカードを作ったときに教えたんだった。そうした私の様子には気づかないで、彼は言葉を続けた。

「お互い考えてみましょうか。何があったら、切り取りたい瞬間なんて思うのか。思いついたら、教えてください」
「……はい」

 素直に返事をした。
 それから私は缶に残ったコーヒーを一口飲んだ。だいぶ(ぬる)くなっていたけれど、私にはこれくらいがちょうどいい。

 溢れるだけ溢れた水はこれ以上流れ出ることはない。グラスの表面に、鏡のように澄んだ湖面を作り出している。



 (ひざ)の上で、彼からもらった花が静かに輝いていた。

 冷たい夜。星などほとんど見えない、都会の仄暗(ほのぐら)い空の下。辺りを照らすのは、閉店作業をしている飲食店の、ぼんやりとした明かりだけ。

 そんな風景の一端で、一人静かに、花は瑞々(みずみず)しく咲いていた。どこにでもあるような白の薄い包装紙に包まれて。切り取られたことなんて、まるで気づいてもいないみたいに。


 ――綺麗。

 ただ、そう思った。


 弾かれたように、私は彼のほうを振り向いた。

「名前、教えてください」

 ああ、と思い出した様子で言って、彼は答えた。
「スイートピーです。蝶が舞うようで、新年に似合いの花ですよ」
「......ありがとうございます。でも、そうじゃなくて」

 その花の名前がスイートピーだということは受け取ったときに気がついた。最近スマホで見た記事に、たまたま載っていたから。彼から名を聞くうちに少し興味が湧いて、私は自分でも花について調べるようになっていた。


 ――でも、そうではなく。私が今知りたいのは。

「あなたの、名前を」


 いつもにこにこと細まっている柔らかな瞳が、少しだけ見開かれた。それから。

 もらった花なんかよりも一層無垢に、光るように彼は笑った。

 近くの閉店作業中のカフェの明かりが、彼の周りをぼやっと電球色に照らしていた。


 唇からありふれた名前が零れる。


 その一瞬、世界は永遠になった。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み