5、幼な恋【万世】
文字数 2,142文字
「……あのね。万世くんのお父さんとお母さんと幾世くんは、もう帰ってこないの。遠いところに行ってしまったの」
今の母さんがおれの顏を手のひらで包んでそう言ったのは、七年前。
「遠いところ? 外国?」
「いいえ、ちがう。もっともっと――もーっと遠いところ。絶対に帰ってこられないくらいに遠いところ」
「どこなの?」
「お父さんとお母さん、幾世くんは、天国に行っちゃったの」
実の両親や五つ年上のにーちゃんが死んだのは、交通事故だった。
よく晴れた日曜日。町内の小学校低学年が集められて、近所の市営公園で交通安全教室なんてものが開かれていた。一年生だったおれは当然のようにそれに参加させられて。安全な自転車の乗りかたやら、交通ルールやら、延々と聞かされて退屈だったのを覚えてる。
おれがその交通安全教室に閉じこめられているあいだ、両親とにーちゃんは買い物に行っていて。その帰り、大型トラックに突っこまれて車は大破した。
家族を亡くしたおれは、母親の妹夫婦の家でくらすことになった。そこの一人娘のちとせのことが、物心ついたときにはもう好きだった。
ちとせはいつだってにーちゃんのことを見ていたし、一年生のおれと遊ぶより四年生と六年生、高学年同士にーちゃんと遊ぶほうが断然楽しかったと思うけれど、おれが「あそぼ」と言えば、笑っておれの相手をしてくれた。初恋は実らないってどこかで聞いてからも、好きという気持ちはどうしようもなかった。
「ちとせちゃん」
にーちゃんがいなくなったあの日。
家に連れてこられたおれは真っ先にちとせの部屋に駆けこみ、宿題をやっていたらしいちとせの背中に抱きついた。
「ちょ、ちょっと、かずせくん?」
当然びっくりして、ちとせは振り向いて立ち上がる。
「どうしたの? お父さんとお母さんがあわてて出かけていったけど……幾世お兄ちゃんは?」
ほら。やっぱりそうやって、にーちゃんのことを気にするんだね。
「……いないよ」
にーちゃんは、いなくなった。この家に「来てない」んじゃなくって、もう「来れない」。
ちとせの両親も、ちとせがにーちゃんのことが好きなのを知っていたから、事実を教えるのは、ちとせがもっと成長して冷静に受け止められるようになってからにしようって、話し合ったんだそうだ。
ぼかされた理由を聞いたちとせはお気楽にも「幾世お兄ちゃん、外国に行くのに私に何も言ってくれなかったなんてひどい!」とか、「手紙書いてもいいかな?」とか、「電話だったらいつでも声聞けるよね」とか。連絡は難しいと大人にさとされて、ほおをふくらませてむくれていた。
そして――二年前の、冬休み。
リビングで届いた年賀状を仕分けしていたちとせが突然に椅子から立ち上がって、そのまま階段を駆け上がっていった。
ソファでごろごろしてたおれは、机の上に広がった年賀状を見にいった。つい今さっきまで、ちとせが宛名別にし分けていたそれ。父さん宛てのがいちばん多くて、次は母さん。
その母さんに宛てて届いた一枚の年賀状を、おれは手にとった。
「おかげさまで息子も大学の推薦入試に合格しました。幾世君も、生きていてくれれば受験生のはずでしたね。彼はとても優秀な子でしたから、元気だったならきっと難関大学を――」
なに、これ。いまさらなんてこと書いてくれんの?
息子のじまんをしたいのはわかる。でも、どうしてそこに、わざわざにーちゃんの名前を出してくるかな?
怒りを通りこして、泣きたくなった。
おれはそのハガキをテーブルにたたきつけて、ちとせを追いかけた。
ノックして、返事を待たずにドアを開けると、ちとせはベッドで肩を震わせていた。
――泣いてる。
「だいじょうぶ?」
そんなわけないって、わかってる。それでもほかになんて声かけたらいいかがわからなくて、結局そうとしか言えなかった。
「……ねえ、かずせくん」
「何?」
「幾世お兄ちゃんって、もう、いないの?」
「…………」
「見まちがいだったらいいのに。……でも、そうじゃないんだね? もうどこにも、いなくなっちゃったんだね?」
「いるよ」
おれは即答していた。
「ここ」
ちとせの心ん中。
「それと、ここにも」
おれの中にだって、にーちゃんは居座ってる。
「約束……したのに。絶対って、約束、だったのに……」
ぽろぽろ流れて止まらないちとせの涙を、おれはうすっぺらい胸で受け止めながら、だまってそばにいることしかできない。
「幾世お兄ちゃん……」
ちとせはにーちゃんの名前を呼んだ。何度も、何度も。おれは耐えきれなくなって、
「ちとせ!」
突然呼び捨てにされて、ちとせはぼうっとしていた。
「かずせくん……?」
「万世」
「え」
「かずせくんなんて、子どもっぽい。万世って呼んで。にーちゃんの名前ばっかじゃなくて、おれの名前を呼んでよ」
涙にぬれた横髪を耳にかけてあげて、おれはちとせと向かい合う。
「おれはここにいるから。今もこれからも、ずっとちとせのそばにいるから。だから……そんなににーちゃんばかりを見ないで。おれのことを見て」
おれには最初から、ちとせだけしか見えない。
今の母さんがおれの顏を手のひらで包んでそう言ったのは、七年前。
「遠いところ? 外国?」
「いいえ、ちがう。もっともっと――もーっと遠いところ。絶対に帰ってこられないくらいに遠いところ」
「どこなの?」
「お父さんとお母さん、幾世くんは、天国に行っちゃったの」
実の両親や五つ年上のにーちゃんが死んだのは、交通事故だった。
よく晴れた日曜日。町内の小学校低学年が集められて、近所の市営公園で交通安全教室なんてものが開かれていた。一年生だったおれは当然のようにそれに参加させられて。安全な自転車の乗りかたやら、交通ルールやら、延々と聞かされて退屈だったのを覚えてる。
おれがその交通安全教室に閉じこめられているあいだ、両親とにーちゃんは買い物に行っていて。その帰り、大型トラックに突っこまれて車は大破した。
家族を亡くしたおれは、母親の妹夫婦の家でくらすことになった。そこの一人娘のちとせのことが、物心ついたときにはもう好きだった。
ちとせはいつだってにーちゃんのことを見ていたし、一年生のおれと遊ぶより四年生と六年生、高学年同士にーちゃんと遊ぶほうが断然楽しかったと思うけれど、おれが「あそぼ」と言えば、笑っておれの相手をしてくれた。初恋は実らないってどこかで聞いてからも、好きという気持ちはどうしようもなかった。
「ちとせちゃん」
にーちゃんがいなくなったあの日。
家に連れてこられたおれは真っ先にちとせの部屋に駆けこみ、宿題をやっていたらしいちとせの背中に抱きついた。
「ちょ、ちょっと、かずせくん?」
当然びっくりして、ちとせは振り向いて立ち上がる。
「どうしたの? お父さんとお母さんがあわてて出かけていったけど……幾世お兄ちゃんは?」
ほら。やっぱりそうやって、にーちゃんのことを気にするんだね。
「……いないよ」
にーちゃんは、いなくなった。この家に「来てない」んじゃなくって、もう「来れない」。
ちとせの両親も、ちとせがにーちゃんのことが好きなのを知っていたから、事実を教えるのは、ちとせがもっと成長して冷静に受け止められるようになってからにしようって、話し合ったんだそうだ。
ぼかされた理由を聞いたちとせはお気楽にも「幾世お兄ちゃん、外国に行くのに私に何も言ってくれなかったなんてひどい!」とか、「手紙書いてもいいかな?」とか、「電話だったらいつでも声聞けるよね」とか。連絡は難しいと大人にさとされて、ほおをふくらませてむくれていた。
そして――二年前の、冬休み。
リビングで届いた年賀状を仕分けしていたちとせが突然に椅子から立ち上がって、そのまま階段を駆け上がっていった。
ソファでごろごろしてたおれは、机の上に広がった年賀状を見にいった。つい今さっきまで、ちとせが宛名別にし分けていたそれ。父さん宛てのがいちばん多くて、次は母さん。
その母さんに宛てて届いた一枚の年賀状を、おれは手にとった。
「おかげさまで息子も大学の推薦入試に合格しました。幾世君も、生きていてくれれば受験生のはずでしたね。彼はとても優秀な子でしたから、元気だったならきっと難関大学を――」
なに、これ。いまさらなんてこと書いてくれんの?
息子のじまんをしたいのはわかる。でも、どうしてそこに、わざわざにーちゃんの名前を出してくるかな?
怒りを通りこして、泣きたくなった。
おれはそのハガキをテーブルにたたきつけて、ちとせを追いかけた。
ノックして、返事を待たずにドアを開けると、ちとせはベッドで肩を震わせていた。
――泣いてる。
「だいじょうぶ?」
そんなわけないって、わかってる。それでもほかになんて声かけたらいいかがわからなくて、結局そうとしか言えなかった。
「……ねえ、かずせくん」
「何?」
「幾世お兄ちゃんって、もう、いないの?」
「…………」
「見まちがいだったらいいのに。……でも、そうじゃないんだね? もうどこにも、いなくなっちゃったんだね?」
「いるよ」
おれは即答していた。
「ここ」
ちとせの心ん中。
「それと、ここにも」
おれの中にだって、にーちゃんは居座ってる。
「約束……したのに。絶対って、約束、だったのに……」
ぽろぽろ流れて止まらないちとせの涙を、おれはうすっぺらい胸で受け止めながら、だまってそばにいることしかできない。
「幾世お兄ちゃん……」
ちとせはにーちゃんの名前を呼んだ。何度も、何度も。おれは耐えきれなくなって、
「ちとせ!」
突然呼び捨てにされて、ちとせはぼうっとしていた。
「かずせくん……?」
「万世」
「え」
「かずせくんなんて、子どもっぽい。万世って呼んで。にーちゃんの名前ばっかじゃなくて、おれの名前を呼んでよ」
涙にぬれた横髪を耳にかけてあげて、おれはちとせと向かい合う。
「おれはここにいるから。今もこれからも、ずっとちとせのそばにいるから。だから……そんなににーちゃんばかりを見ないで。おれのことを見て」
おれには最初から、ちとせだけしか見えない。