第77話 ロード・オブ・アリス 「愛ちゃんの、夢物語」

文字数 9,191文字

 ありす、何を泣いているんだ?
 訳があるなら聞こうじゃないか。

 ………………。

 恋文町の真下の地下に広がる世界は生暖かかった。
 恋文ビルヂング101号室のドアを開け、古城ありす、石川ウー、金沢時夫、佐藤マズルの四人は長い長い下り階段を下りてきた。
 巨大植物や光る巨大茸のルミネセンスが放つ、ぼんやりとした薄緑の光の世界を抜けると、地下の中央にそびえる巨大な洋館へとたどり着いた。
 地下の古城は沈黙していた。中へ入ると、何ともぬけの殻だ。
「いない……!? 世界各地で起こっているCCDかしら!?」
「何それ」
「蜂群崩壊症候群の略。突然ミツバチが居なくなる現象のことよ」
「女王は古城を捨てた? なぜだ」
 時夫は辺りを見回した。
 城内のどこにも、それどころか蜂人たちも一匹もいない。
「女王は外に出ていったってことよ。どっかに、白彩以外に外へのゲートがあるんだ。あたし達、また陽動に引っかかっちゃったのかしら」
 地下に下った間に地上が大変なことに……。
「つまり?」
「間に合わなかった。女王は……ついに……とうとう雪絵を……手に入れ……その闘いの末に、雪絵を食べた。もう……この世界に雪絵はいない」
「うわぁあああああ! そんな、そんな馬鹿なぁー……!!」
 時夫は頭を抱えて、大理石の床にうずくまる。
「敵は取るわ。まだ諦めるのは早計よ金時君。この城の中に、何かヒントがあるかも」
 ありすは時夫の肩にポンと手を置いて、軽く微笑んだ。
 女王は一体地上で、何を企んでいるのか。ここには、それに関するヒントが少なからずあるはずだった。だが、この城には誘拐された人質たちさえ、誰一人としていなかったのだ。
「女王のことは無論だけど、君のことも教えてくれないか。そろそろ話してくれよ。前にここに来たとき、君は何だかとっても懐かしそうな顔をしていた。それに、スネークマンションホテルのときも……。あの時、君はあのホテルに地下の古城を連想したから、迷わず入ったんだろ?」
 唐突に冷静に立ち直った時夫が、ありすに訊いた。
「えっそうなの?」
 ウーが怪訝そうに、時夫とありすの顔を見つめた。
「さっき、これを発見したんだ」
 時夫は、小さな肖像画を机の上に置いた。
 ヴィクトリア朝のドレスを着た古城ありすの油絵。だが何かがおかしい。絵は古く、そして絵の中のありすは蜂人をはべっている。
「何、これ……」
 ウーは唖然とした表情を浮かべた。
「白彩へ出入りする前に君、古文書の『火水鏡』、全部解読したんだろ? 俺は知ってるんだ」
 その本の別名を『恋文奇譚』。ウンベルトA子の協力を得て、ありす達が丘の上にそびえる恋文図書館から盗み出したものだ。ありすはその後、古文書の解読に今日まで時間を費やしてきた。
「なぜそれを……?」
「だって君、顔に書いてあるぜ」
 時夫は、デートの際、ありすが語ったことを思い出していた。
 その時ありすは、半分しか解読していないと言ったのだが、その後のありすの独白から、時夫はありすが全て解読したに違いないと踏んでいた。
 そして、古城ありすはある種の覚悟を胸に抱いて、白彩への殴り込みを決意した。これまでずっと一緒にいた時夫には、ありすの微妙な変化を目ざとく感じ取ることができたのだ。
「えぇ------?」
 ありすは酷く慌てて顔をなぜた。
「それ……あたし」
 ありすは肖像画を指差した。
 あぁよかった! 時夫のはったりが当たったらしい。
「君はここで、ロイヤルゼリーを食べていたんじゃないか。その不老蛋白の力で……」
「……あたし、昔ね。ここに住んでたんだ」
 ありすは意を決したように言った。皆に嫌われるのではないか。いいや、嫌われてもいい。その覚悟が黒曜石の瞳に宿っていた。
 ありすは古文書を解読して、過去の記憶を取り戻したようだった。
「あぁーここ、4Kテレビがある。地上から誘拐ついでにかっぱらってきたものだわ! 黒水晶か女王が作り変えたわね」
 城の随所にあるアンティーク類は、よく観察するとありすの店のこだわりを髣髴とさせた。漢方薬局「半町半街」では、アンティークも扱っている。それは過去の記憶のなせる業なのかもしれない。
 しかし、ありすが居た当初より城の規模はおよそ二倍になっているらしい。
 サリーもまた、ブルジョア的な趣味があり、世界中のあらゆる美しいものをかき集めるのが好きな孤独な女王だ。案外二人はよく似ている。
 ありすが大食いなのも、先代の女王蜂だとすれば頷ける。
 ありすは、かつて真灯蛾サリー女王が座った食堂の長テーブルの椅子に、ゆっくりと腰掛けると、テーブル上の小さな傷を懐かしそうに白い人差し指でなぞった。三人はありすを囲むようにして、左右の席に座った。
 そこへ蜂人が一匹ヌッと現れ、三人はぎょっとした。
「……やっぱり巣別れだって。地上へ出て行ったんだ。ここで人間女王の力で生き延びても、しょせん時間稼ぎに過ぎない。いつかは滅びる。しかし雪絵さんのロイヤルゼリーの力で大規模な巣別れが可能となり、その結果生き残れる」
 青い眼の蜂人は、手にお盆を乗せて、そこにティーカップが載っている。飲み物を運んできたらしい。
 その飲み物はいたって普通の紅茶であるところが何だかおかしい。英国といえば、紅茶か。それ以外にも、マカロンを始めとしたアフタヌーン・ティーのお菓子類がどっさり出てきた。
 中でも美味しそうなのがババロワだ。このわずかに残った蜂人は、すでにありすのテレパシーの支配下にあるのか、ありすを女王として扱っている。
 ありすを女王と認める蜂人のフェロモン・センサーが、復活したのかもしれない。
 時夫がその表情から察するに、ありすがテレパシーで呼んだものらしかった。
 ありすはゆっくりとティーカップを口許に傾けた。長い睫が一瞬閉じられる。
「『火水鏡』に書かれているのは、百五十年前のここ、恋文町であった出来事。話は江戸の吉原から始まるの」
 何故か地下で優雅なアフタヌーンティーを飲みつつ、ありすの口から、全てが明らかにされようとしている。文献を読了し、黒水晶を統合したありすは、綺羅宮神太郎との因縁を語り始めた。

吉原の国のありんす

 明治維新前夜の三年前のこと。
 綺羅宮神太郎(きらみやかんたろう)は、幕府に追われた討幕運動の蘭学者だった。江戸の新撰組ともいえる「新徴組(しんちょうぐみ)」に追われ、吉原にかくまわれた綺羅宮は、そこの遊女の愛に援けられたのである。
 その夜、綺羅宮は、愛に自分の持っている『不思議の国のアリス』の内容を意訳して語って聞かせた。それはルイス・キャロルが、一八六五年に出版したばかりのものだった。一晩中、綺羅宮が語るその物語に、愛は夢中で聞き入った。
 その後、吉原の花魁・愛は、小火騒ぎのドサクサで綺羅宮を逃がした。小火は愛が起こしたものではなかった。だが綺羅宮を逃がした際の不審な行動から、後に愛は放火の下手人として新徴組に追われることになる。
 綺羅宮はその後、同士の故郷である千葉県東部にある農村にかくまわれた。恋文村は、二百年前の江戸時代に由来する小さな村だ。この地にあった恋人たちの悲愛の伝説が名前の元になっている。
 綺羅宮は曹洞宗に属する源宗寺の住職という世を忍ぶ仮の姿をとりながら、寺の中で、世直しのために洋の東西を問わず文献研究に没頭した。どこかに、世の中を善くする新しい学問があるのではないか? 妖怪と幻獣をも収めた本草学、漢方、西洋の学問と東洋の学問、科学と宗教。それらを合流すれば生み出せるはずだ。
 そして綺羅宮は研究に研究を積み重ね、遂に、西洋哲学で語られた「意味論」が、昔から歴史やこの世の事象を動かし、有らしめてきた実体のある「力」であったことを発見する。
 この世の中を突き動かしているもの、それは「意味論」の存在である。それは科学より魔術より、ずっと根底にある原理だった。
 綺羅宮はそこに、人類の能力の新しい地平線を切り開いたのだった。この件(くだり)を綺羅宮は、興奮と共に書いている。
 そして遂に綺羅宮神太郎は、西洋の科学と魔術とを、西洋医学と東洋医学とを、弁証法的にアウフヘーベンした結果、「科術」を生み出し、最初の科術師となったのだ。
 その頃、吉原の愛が千葉の故郷の村へと帰ってきた。実はこの村こそ、恋文村だった。花魁の愛は新徴組に追われ、逃げてきたのだった。そこで、源宗寺の住職になった綺羅宮と再会した。
 だがこの年、恋文村の地域では飢饉が起こり、それをきっかけとして米騒動が始まった。その百姓一揆に、愛も参加した。
 愛は、香取にある九頭竜権現という小さな祠まで行って、必死に祈った。なぜなら、愛の苗字は九頭竜だったからである。
「あなたの知識が必要なのです」
 綺羅宮には、愛に吉原で命を救ってもらった貸しがあった。
 かくて、綺羅宮は村長とつるんで一揆に参加した元花魁の愛に、協力することにしたのだ。綺羅宮はどうしたら人々が死なず、また食糧難を救えるだろうかと必死に頭を悩ませた。
 そこで綺羅宮は、源宗寺で古今東西の文献から生み出した科術の力を使うことにした。
 弟子になった愛は、たちまちにして綺羅宮の教える科術を修得した。愛にはもともと、科術師としての才覚が備わっていた。その噂は村人たちに広まっていった。
 だが指導者に祭り上げられた愛の絶大な科術の力は、百姓一揆をあらぬ方向へとなだれ込ませる結果となった。
 綺羅宮は恐れた。このままでは、幕軍との闘いで数多くの人が死ぬだろう。そこに、和平も何の解決もない。
 結果は綺羅宮の予想通り、愛に操られた百姓一揆と幕軍との戦で、多くの人が死んでいった。綺羅宮は人々を助けられず、多くの人々が亡くなった。
 九頭竜愛は侍達を恨み、怒りから精霊と契約し、さらに危険な科術の力を使った。
 世直しのために、科術を開発したのに……。
 綺羅宮は事態の収束のために、科術の力を行使しなければならなくなった。問題は愛だった。科術師としての力が暴走し、このままではさらに大きな災禍をもたらすことになるだろう。
 愛自身も、どうにもならぬ程に、その力は強大化していた。やむなく綺羅宮は罠を仕掛けて、愛を井戸の中へと落とした。この村の地下に、愛を封印したのである。
 その後、源宗寺での科術研究に戻った綺羅宮は、戒めとしてこの奇譚を文献に記した。
 しかしその時、明治政府の発布した神仏分離令で廃仏毀釈が起こった。
 廃仏毀釈では、鹿児島県の全ての寺が廃寺になるなど、厳しい弾圧が行われた。知られざる明治の暗黒時代、近代化の美名の元の闇である。
 寺だけではない、国家神道の名の下に神社も二十二万社から八万社に統廃合され、数多くのご神木が切り倒された。日本史上まれに見る宗教弾圧の時代だった。やがて源宗寺はこの世から忽然と姿を消した。
 綺羅宮は寺をあの世に隠し、「幻想寺」とした。地上では源宗寺があったところに碑が立っているだけになった。
 文献の最後で綺羅宮は、この村に将来災厄が訪れるときは、地下を目指せという言葉を記している。
 そしてあの科術師・愛に操られた百姓一揆の悲劇と同じことが、またこの土地で繰り返されるだろうと予言し、古文書を締めくくった。

『愛ちゃんの、夢物語』

「このタイトルってもしかして……」
 「不思議の国のアリス」の、最初の日本語訳のタイトル。
「そう。文献収集を趣味とする綺羅宮は、日本に『不思議の国のアリス』を紹介した。その時、日本人になじむ様にありすの名を『愛』と改めたんだ」
 最初の科術師・綺羅宮神太郎は、明治維新後も幻想寺の住職として科術の研究を続け、丸山英觀に『不思議の国のアリス』を翻訳するように進めた人物でもある。
 綺羅宮の科術には、意味論の教本であるアリスの物語から得た着想が、ふんだんにあったのだ。その時のアドバイスに従い、丸山はタイトルを『愛ちゃんの夢物語』とした。名前を、日本風に「愛」と改めて。
「それって……」
「そうよ。吉原の花魁、九頭竜愛のこと。つまりあたしの前世」
 なんという因縁。なんというめぐり合わせ。
 その愛が今、古城ありすと名乗っている。前世の記憶を引きずったままに……。
 ちなみに愛が落とされた井戸があったところは現在、地下エレベータが出来ている自販機の場所となっているらしい。
「しかし苗字が九頭竜とはな。クトゥルーと関係あるのか?」
「さぁ? 千葉にも九頭竜の伝説が残っている。ヤマトタケルが戦ったとか。九頭竜神社もいくつかあるのよ」
 千葉県って一体……。
「千葉でも、幕末に一揆があったんだな」
 時夫の疑問に、マズルが答えた。
「江戸時代の初期頃にも、成田の義士・佐倉惣五郎の伝説があります。惣五郎は、民衆の苦しい生活を直訴し、一揆を画策したとして、幕府によって処刑されました。彼の物語は幕末期に、全国の一揆の組織化の際に使用されました。たとえば、信濃の南山一揆の小木曽猪兵衛の例が有名です」
 だが、まだ解決していない疑問が残っている。
「綺羅宮って百五十年前の人間だよな? そいつが幻想寺のお坊さんとして、ずっと生きてるってことか?」
 時夫達が見た幻想寺の住職は、かなり若かったのだ。
「……それが、普通に死んだはずなのよ。私の記憶では。でもアイツの匂いは確実に綺羅宮だわ」
「それともう一つ、綺羅宮のいう繰り返される悲劇っていうのは?」
 もしかすると成田闘争のことかもしれないと、時夫は一瞬連想した。
「前哨戦があったの。金時君に端を発した今回の事件の前に。それが、九ヶ月前の市の合併のときに起こった、ブルーベリー街の蜂起事件。その時も阿部麻梨亜さんというアラフォーの女性が、悪徳政治家ののり・たまおに対して、恨み、復讐心から、自然霊、精霊の力を借って、呪った。そして、特殊能力が身に着いた。それは魔学だったんだ。元はごく普通の人間だったんだけどね」
 ありすも関わったという謎の事件。それは、昔起こった百姓一揆の繰り返しなのだろうか。
「ほら、君ん家の近所の森に報道ヘリが落っこってたでしょ。あの時の騒動で落ちたの」
 古城ありすは色々な事件の中枢に居た。はっきり言って、この町でありす、お前こそ一番の不思議だ。
「このG-SHOCK、その時自治会長をしていたおじいさんから貰ったんだ」
 彼氏のプレゼントかと思えばそうではない。じいがショックを受けた事件、か……。
「なるほど。で、この町に災厄が訪れるとき……っていうのは?」
「大戦のとき、綺羅宮は空襲が襲うのを予言した。でも恋文町の人たちは、その予言を知っていたから防空壕をどこよりも深く掘って、誰も死ななかった」
 科術師・綺羅宮の予知能力はすさまじい。「火水鏡」は、未来に起こった恋文町の状況・展開を予想したような内容でもある。
「あたしは、その時代の関係者がそっくり現代に転生しているんじゃないか、って思う。そして過去に作った魂の傷、罪を償うために、あたし達、この時代に生まれ合わせたんだよ」
 つまり、今の幻想寺の綺羅宮自身も転生者なのかもしれない。
「……俺もなのか?」
「うん。文献の中の誰っていう固有名詞はないんだけど、あたし、その当時、金時君にも、ウーにも会ったような気がする。とにかく必要な人間が、自然と集まってきているのよ」
 なんともおセンチな話だ。
 吉原の愛はその後、一体どうなったのだろう……?
「君……解毒剤として『女王連プロポリス解毒湯』をよく使ってるよな。女王……」
「あたし自身、あの時代以来、魂を落として、地下の城にずっと一人で住んでいた。地下の世界で愛は、精霊の正体たる蜂人と出会って、初代女王として、この蜂人の王国に近代化の維新をもたらした。そうして洋風の城を建設したの。愛は地上の明治維新に倣って、地下でも舞踏会のドレスのような格好で暮らしてた。サリーが蜂人の卵の栽培所にエネルギーを送ってた、悪趣味なドレスみたいなものじゃない。もっときれいで、シンプルだった。地下であっても必要なものは地上から手に入れ、骨董品を収集した。地下の鉱物や珍しい漢方を売れば、お金は簡単に作れた。地下でもオシャレには手間を掛けて、非常に凝っていた。あたし、凝り始めると止まらなくなるの。地下でも漢方薬をはじめとして、科術の研究を続けた……」
 フランス人形のような外見のゴスロリ少女ありすは、当時本物のドレスを着ていた。古より地下で繁殖していた蜂人たちは、愛との出会いで急速に文明開化していった。
 科術の力で、地下世界に最初に文明を授けたのはサリーではなく、愛(ありす)だったのだ。地下の「古城」が、明治期に建てられた西洋建築風なのはそのせいである。
 誰もが沈黙する。
「だからこの地下の国の古城は、あたしが昔住んでいた場所だったって訳。そうして、ようやく這い上がってこれたんだ。ふふ、あははは……」
「一体どうやって?」
 時夫はいつも、ありすを質問攻めにしてしまう。
「実は、そのいきさつは、まだあまり思い出せてないんだけどさ。きっと、師匠であるうちの店長は、全部知ってるんだと思う」
 あの三連立方体の形で出てきた店長か。現在のところ、あまり頼りにはなってない。弟子で店員の古城ありすの方が、よっぽど活躍している。
「コンビニも、草創期からやってた訳か」
「最初に、コンビニにおにぎりが並んだ時は衝撃が走ったわ。おにぎりって自分で結ぶもんだと思ってたから。------次に衝撃が走ったのはお茶のペットボトル。こんなものにお金出して売れるなんて。その次は……お水のペットボトル。そして、水に香りをつけただけの『高原の岩清水&レモン』。もう何でもアリよね」
「で、サリーは? 前に君は、女王サリーが、防空壕を開拓してったら蜂の国と出会ったって言っていた気がするけど」
「あたしもずっとそう思ってたけど、違うみたい。サリーの事情はもっと複雑のようね。もっとも、サリーのことはまだ思い出せてないんだけど」
「ありす、俺、気づいたことがある。聞いてくれないか」
 時夫は、紅茶をひと飲みして言った。
「何よ?」
「君の店の名称だ。『半町半街』って、変な店名だよな。ずっとその意味を考えてたんだ。もしかして『町(ちょう)』って蝶の意味で、『街(がい)』は蛾……。店の名前は、実は『半蝶半蛾』っていう意味なんじゃないか?」
「どーいうことよ?」
「つまり君はまだ、半分蝶で半分が蛾ってこと。それに店長は気づいていて、お店の名前に君の秘密を隠していた」
「そうか。あたしのことか? つまり今はグレーゾーンの科術師……。前世は黒、今世は灰色。来世は白となるために。半白半黒。なるほどね。あたしは、いわば半人半妖って訳か」
 ありすは視線を落とし、前髪で隠れた顔に薄ら笑いを浮かべている。
「わたし……業が深いの。もっと古い前世には迷宮の意味論で、地球全体を迷宮にしてしまったこともあったみたい」
「地球全体……」
 ご近所どころの騒ぎじゃないぞ!
 てことはこの恋文町の迷宮化ももありすの仕業か。まさかね。
「俺が、当時の関係者かどうかはまだ分からない。もしかすると幕府側の侍だったりしてな。名前も時夫、トキオ=東京、江戸だし。でも、俺も歴史的な、大事な瞬間に立ち会ってるような気がしてるんだ。その意味じゃ、俺たち全員、関係者なのかもしれないな」
 時夫はウーを見た。
「へ? あたしも?」
 ウーが自分の顔を指差した。
「きっとそうかもしれません、ウー。僕もです。僕も幕末の頃の時代を考えると、なぜかいつも、胸が締め付けられる想いがよぎるんです」
 マズルも賛同した。
「誰一人として、心に傷を持たない者はいない。この不思議の国のドラマでは、あの時人を苦しめた者も、地下に落ちた者も、苦しめられた側も、皆一同に介して、魂の救済が行われようとしている。皆、この中空界へ来たことによって」
 マズルは謎めいた視線を皆に送った。
「……中空界?」
「はい。あの世とこの世の中間地点です。宇宙を構成する73%のダークエネルギーの一部です。それは様々な世界が、レイヤーとして折り重なっていることを意味します。皆さんが幻想寺で見た立方体の『半町半街』店長も、少し上のレイヤーから投影された像でした。この中空界において、魂の決算をするんです。女王は未だ地下に囚われていますが、ありすさんも地下の古城に居た蛾の女王でした。本来は美しい蝶だったのに違いありません。サリーも最初は人間だったのでしょうが、きっといつの頃からか蜂の精に取り込まれた。サリーが操っている蜂人は、実はサリーを操っているのです。しかし全ては救われる。それが、今のダークネス・ウィンドウズ10アップグレードの時期と、重なっているんです」
「ホントかよ?」
 マズルの説明は出来すぎじゃないか?
「そうですとも。綺羅宮神太郎も、あの時誰も救えなかった。その魂の傷があるんです」
「じゃあ、ありすだけじゃなく、サリー女王も、雪絵もなのか? そもそも、この町の人々全員が……」
 全ては、あの幕末の時代の百姓一揆に関わった人々なのだろうか。
「その通りです。みんな前世の苦しみや、恨みを超えなくてはいけないんです」
 きれいにまとめようとするよな、佐藤マズルは。
 綺羅宮神太郎は、将来、全員の魂を救おうと決意したのだという。
「で、サリー女王は、いつから地下に居たんだ? 一体いつ君と入れ替わったんだ」
「……それが、まだよくわからない。覚えてない。あいつは……あたしにとって一体何なのか」
「おそらく、あの『火水鏡』という本は、未完成なのです。しかしこれから、ついにありすさんは、未完成交響曲を完成させることでしょう!」
 マズルは立ち上がって両手を広げ、しかめ面で天井を見上げた。
「だからきれいにまとめようとするなって!」
 綺羅宮神太郎没後、この恋文町で幻想寺は細々と続いた。結界を作り出した綺羅宮の植えた箱柳の迷宮にかかって、幼少の頃よりありすとウーは幻想寺界隈に近づけなかったのだ。
 しかしダークネス・ウィンドウズ10のアップグレード・シークエンスによる、プレアップグレード現象によって、幻想寺は当時の真新しい姿に再建され、さらに、周囲の時空を巻き込んで、非現実的な増設を始めたのである。
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