第32話 母親の顔

文字数 1,210文字

明美は優和の調子からその言動が冗談とも本気とも受け取れることを恐れた。





「どうして急に話す気になったの?」





明美は優和の変化が知りたかった。
優和は、それが勇のためだと気づいたからだと答えた。
明美には、その発言が本当かどうか分からなかった。
でも迂闊にそれを確かめるための質問はしなかった。
優和に対する不安はあったが、明美が優和を必要としていたのは確かだった。
だからこれ以上、関わるのは危険だと思いつつも、明美は家族の未来のために、優和から正人の問題が知りたかったのである。



正人は、自身の問題について固く口を閉ざすだけだった。
そして、この問題について、執拗に正人に聞くことがどんなにリスクがあることかも知っていた。
それは、この問題とどう関わるかで、家族の今後の未来が決まると言ってもいいくらいだった。
明美は正人と二人でいた時以上に正人との明るい未来に必死だった。
この幸せを実現するには絶対に正人がいなければならなかった。
それだけではなく正人にちゃんとしてもらわなければならなかった。
それは自分一人が頑張ればできるものではなかった。
今までだったら、自分の問題ではないことを頑張ることに意味を感じなかったが、今はその理屈を言っている時間を努力に費やすべきだと思っていた。
それが明美にとって母親になるということだった。



明美はずっと優和が自分の幸せを望むことに消極的だと思っていたが、それがなぜだか分かった気がした。
多くを望まない。
それは、正しい母親が自己犠牲をしている姿だと思っていた。
しかし本当は望んでいることが違いすぎて、あの時の明美には理解できなかっただけだったのである。
そして明美の知らない次元であるそれを実現するためには、安定、安全が絶対条件だった。
明美はその自分以上のことを望むことが、こんなに大変なことだとも思わなかった。





「明美が欲しいものって何?」





次に優和が明美に聞いた質問は意外だった。
ある意味、直前まで話していた会話とは一貫性がないようにも思えた。
でもその質問は優和にとってはつながっていた。





「前までの私なら自由って答えていたかもしれない」





明美はしばらく考えていた。
でも今欲しいものが何か答えが出せなかった。





「母親になるってそういうことだよ。自分なんだけど自分じゃなくなるの」





優和は何でも知っているかのように話す。
まるで明美の考えていることは何でもお見通しのようだ。
明美はさっきまであんなに優和を警戒していたのに、なぜかもう大丈夫だと思えるようになっていた。
さっきまでの優和とは違い、至極穏やかな表情になっていたからだ。





「聞きたかったことってそういうことでしょ?」






その優和の言葉で、明美は自分も母親の顔をしていたのだと気づいた。
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