第5話

文字数 1,069文字

「誰かが来たの?」

 学校から帰ってきたハルは家に着くなりそう言った。

「別れた妻が忘れ物を取りに来たんだ」と僕は平然を心がけて言った。

「ふうん」と彼女は返事をした。「じゃあ、あなたたちは性行為をしたってこと?」

 僕はその時夕食の支度で玉葱を切っていたので、危うく自分の指を切り落としてしまうところだった。僕は自分の両手に指がしっかり十本ついているか確認してから言った。

「してないよ。急にどうしたっていうのさ」

「でも、別れた奥さんはあなたと性行為をしに来たんでしょ?」

「どうしてそうなるの?」

 僕がそう言うと、彼女は心底不思議そうな顔をした。

「だってさ、別れた男女が会う理由なんてそれ以外何があるっていうの」

 僕はそれについてしばらく考えてみたが、やっぱり彼女の言うことが正論だった。彼女がこんな知識をどこから仕入れてきているのか不思議でならなかったが、それを聞きたいとは思わなかった。

「それはいろいろあるさ。昼下がりの喫茶店でパンケーキを食べたり、暖かな午後の風に吹かれながら四つ葉のクローバーを探したりね」

「馬鹿みたい」と彼女は呟いた。「あなたってときどきそういうくだらないことを言うよね。だから奥さんが逃げちゃったんじゃないの」

 僕は少なからず傷つきながら「そうかもしれない」と言った。

「なんで性行為をしなかったの?」

「なんでだろうな。気分じゃなかったんだ」

「もう魅力的だとは感じなくなくなってたとか?」

「そういう訳でもないと思う」

「じゃあ、わたしのことはどう思う?」

「どう思うって?」

「つまり魅力的な女だと思う?」と彼女は至って真面目な顔で言った。

「君のことはまだほとんど何も知らない」

 僕は夕飯の支度を再開させながらそう言った。しかし彼女からの視線は一向に離れる気配はなかった。その視線はそのうち穴でも開きそうなくらい鋭いものだった。僕は観念して小さく息を吐き出した。

「確かに君は綺麗だと思うよ。本の趣味も合うし、話していてとても楽しい。僕が君と同じくらいの年齢だったらきっと君に夢中になっていたに違いない。でも実際僕は三十一歳で君は十四歳だ。だから僕は君がいくら魅力的な女性でもちょっかいをかけるようなことはしない。そんな刺激的な生活は僕には向いていないんだ。……こういう答えでいいだろうか?」

「ふうん」と彼女は言った。今まで聞いたなかで一番抑揚の抑えられた返事のような気がした。

「それで今日のご飯はなに?」

「肉じゃが」

「家庭的ね」

 彼女はにっこり笑ってそう言うと、鞄を置きに自分の部屋に向かって言った。
 やれやれ、と僕は思った。
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