錯覚

文字数 1,968文字

 汐里(しおり)が、友人を連れて帰宅した。

「お邪魔しまぁす」

 多華島(たかしま)香菜(かな)だ。大学に入ってから知り合った二人は、同じテニスサークルで一番仲が良い。多華島がこの部屋に来るのは初めてのはずだ。

「適当に座ってて」

 間取りは1K。南向き。八畳ほどのフローリングに、家具らしい家具はベッドとテーブルと、テレビを載せているラックくらいだ。物が少なく、すっきりとした部屋が、いかにも汐里らしい。ただ、今は扉が閉じているクローゼットは、その中にタンスも格納されていて、衣類や荷物でほぼいっぱいの状態だった。

 多華島はぐるりと見回してから、クローゼットに背を向けて、ぺたんと床に座った。

「いい部屋じゃん」
 
「普通だよ」

 キッチンの方で飲み物を用意していたらしい汐里は、オレンジ色の液体が入ったグラスを両手に持ってきた。

「本当はオートロックが良かったんだけど、家賃が高くて諦めたんだ。はい、これ。実家から送ってきたオレンジジュース」
 
 汐里はグラスをテーブルに置き、多華島の向かい側に腰を下ろした。

「ありがと。いただきまぁす」

 喉が渇いていたのか、多華島はさっそくグラスを取って口をつけた。

「美味しい」

「でしょ」

 汐里は少し誇らしそうに笑い、自分も両手でグラスを持って可愛らしく口をつけた。

「そういえば汐里の実家って、みかんの産地だもんね」

「うちは普通のサラリーマンだけどね」

「やっぱ、一人暮らし、いいなぁ」

「実家の方が楽だって」

「そうだけどさ、親が色々うるさいんだもん」

「じゃあ一人暮らし始めてみれば? 反対されてるの?」

「そういうわけでもないんだけどさ、いざとなると面倒なんだよね」

「何それ。やっぱり実家が楽なんじゃん」

 二人はひとしきり笑ったあと、同時にグラスに口をつけて会話が途切れた。
 ほんの少しの沈黙のあと、多華島が切り出した。

「で、相談って何?」

「あ、うん、実はさ……」

 汐里はそこで言い淀み、(うつむ)いた。そんな仕草も愛らしい。

「何かあった?」

「もしかしたら気のせいかもしれなくて、もしそうだったら自意識過剰みたいで恥ずかしいんだけど……」

「言ってみ。誰にも言わないから」

「実はさ、最近、ずっと誰かに見られてるような、そんな気がするんだよね」

「ずっと? 今も?」

「今は大丈夫。香菜もいるし、家の中だし、何も感じないけど」

 言いながら、汐里は部屋の中を見回した。

「大学でってことなら、汐里、可愛いからさ、男子たちがみんなちらちら見てるんだと思うよ」

「そんなことないよ。そういうんじゃなくて、大学だと、特に大きな教室で講義を受けているときとか、学食でご飯食べてるときとか。あと、スーパーで買い物しているときとかも、棚の隙間から見られているような気がするの」

「へえ。そりゃちょっとヘビーというか、何というか」

「ヘビー? やっぱりわたし変なのかな? 考えすぎってこと? 今日も大講義室でずっと視線を感じてたんだよ。で、視線を感じる方を何度も確認してみたんだけど、全然それらしい人はいなくって。でも、しばらくすると、また感じるんだよね、誰かに見られてるって」

「心当たりはないの?」

「ないよ、そんなの。あ、でも、少し前に大学で声かけられて、つき合ってくださいって言われたことがあって。でも、全然知らない男の人だったから、何だか気持ち悪くって、すぐに断って逃げちゃったってことはあった」

「そいつがストーカーになったのかな」

「わかんない。そのあとは全然会ってないし」

「名前とかわからないの?」

谷牟田(たにむた)さんがね、たまたま見てたらしくて、彼女と同じ学部のフジモリって人だって教えてくれた」

「谷牟田さんて教育学部だったよね。行って確かめてみようよ」

「ええっ、確かめるって、どうするのよ?」

「わかんないよ。でも、もしそいつが犯人だってことがわかったら、やめろって言えばいいじゃない」

「相手が怒って、余計に怖いことにならない?」

「でも、放っておいたらずっとこのままだよ。それじゃ困るでしょ」

「それはそうだけど……」

「よし、じゃあ、善は急げだ。今からもう一度、大学に行こう」

「え、今から⁈」

「こういうことは早い方がいいんだよ。まずは行動を起こす! さ、行くよ」

 汐里は多華島に急かされるまま、部屋を出て行った。
 遠くで鍵をかける音が小さく響いたのを最後に、部屋は再び静寂に包まれた。

 頃合(ころあい)をみて、僕はそっとクローゼットの扉を開き、外へ出た。
 両腕を高く上げて背伸びをする。長時間、無理な体勢をとっていたせいで身体が痛い。

 テーブルの上にはオレンジジュースの残ったグラスが二つ、置きっ放しになっていた。
 僕は汐里のグラスを手に取り、残っていたジュースを飲み干した。

 さて、どうしようか?

 とりあえず、汐里の歯ブラシで歯でも磨きながら、フジモリとかいう男をどう処理するか、考えるとしよう。



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