第4話

文字数 3,753文字

   聖也④

 真由の祖父の死は、急なことだった。
 聖也が中三の十月。昼前に携帯端末に真由からのメッセージが入り、祖父が倒れたことを知った。真由は、こう記していた。「すぐに来て。あの人たちより早く」。
 聖也が十歳だった物置部屋での件以来、真由は失神するようなこともなく、祖父が望んだように、「怖かった記憶」は着実に薄れていっているようにみえた。そのせいか、祖父は、再び真由の過去に触れるようなことはなかった。それどころか、祖父が聖也と二人で言葉を交わすような機会もほとんどなくなっていた。
 だからこそ、真由からの一報が、祖父の命への心配ではなく、「あの人たち」への不安であったことに聖也は虚を突かれた。次に、自分が十五歳に、大人になろうとしているのに、祖父に真由の過去について改めて問いただすことなくここまで時を過ごしてしまったその迂闊さを呪った。
 聖也は昼休みに学校を抜け出すと、使えるクレジット残高を確認して、そのまま真由の祖父が運び込まれた伊豆半島にある救急病院へと急いだ。真由もまた、そこにいるはずだった。
 東京からは特急を乗り継ぎ、最短コースを辿ったが、それでも連絡を受けてから三時間近くが経っていた。病室に横たわる老人と、そこに寄り添う真由がひっそりと佇む姿を想像して、聖也は病院へと走った。
 救急指定とはいえ、別荘地が拡がる海沿いの町の病院は思っていたよりもずっと小さかった。十台もとめれば満車となりそうな狭い駐車場には、確実に十台を超える台数の、主に黒塗りの社用車やハイヤーが奇跡的なテクニックをもって収容されていた。病院の古びたエントランス、そしてロビーには、地元の高齢者たちに交じって、東京のオフィス街から瞬間移動してきたような、きっちりとしたスーツ姿の男たちがいた。彼らは、携帯端末を操作したり、通話したり、あるいは所在なさげに病院の奥をうかがっていた。
 この人たちは祖父の関係者。おそらくは、祖父がかつて支配した大企業の。
 真由が恐れたのは、この人たちだろうか?
 そうは思えなかった。真由を害するには、彼らはあまりに無機質で無関心にみえた。
 中学の制服姿の聖也は東京から来たとはいえ「彼ら」の側ではなく、明らかに地元住民の側であった。聖也は、地元の高齢者たちに紛れるようにして、病棟を奥へと進んだ。真由が携帯へのメッセージで、祖父の、そして真由のいる病室の場所を聖也に伝えていた。
 だが、病室近くまで行くと、閉じられたスライド式ドアの前には、やはりスーツ姿の男が二人、所在なさげに待機していた。黙って入るわけにもいかず、聖也は男の一人に自分の名前を告げ、真由の友だちだと言った。男は事務的にきれいに微笑んでここで待つように言い置き、病室の中に入った。
 数十秒後、男と一緒に廊下に出てきたのは真由ではなかった。だが、真由にも、そして今死にかけている真由の祖父にも似た、五十代くらいの、仕立ての良さそうなスーツを来た男だった。
「君が、聖也くんか?」
 聖也は頷き、
「真由さんは?」
 と尋ねた。だが、男はつれなく、
「ここにはいない」
 と逸る聖也をいなすと、
「――ちょっと、いいか?」
 聖也を促して廊下を歩きだした。男には、十五歳の世間知らずの子供に否応を言わせぬだけの力があった。

 病院の裏手にはちょっとしたテラスがあり、そこからは海が見えた。ただし、聖也や真由が好きな展望台とは違い、海は遠く、いくつものコンクリート製の建物に切り取られ、まるで蜃気楼のようだった。
「分かると思うが、私は真由の父親であり、真由が一緒に住んでいる真由の祖父、城島健介の息子だ」
 もちろん、一目見た時から分かっていた。
「子どもの頃から、真由にはちょっとメンタルな弱さがあった。それで、ずっと父のところへ預けていた。だが、父はもう再起不能、というか、おそらく今晩には息を引き取るだろう。真由はまた東京に戻す」
「真由さんに会いたいのですが」
「真由はもう、ここにはいない」
「でも、携帯に連絡を受けました、おじいちゃんが倒れたのですぐに来てほしいと。だから、急いで全速力でここへ来たんです」
「君がこれまで、年上の友だちとして真由と遊んでくれたことには感謝する。だが、もうそれはおしまいだ。伊豆の別荘は処分し、真由は東京に帰り、もうここには戻らない。君と会うこともないだろう」
「なぜ、会うことはないと? なぜ、会ってはいけないんですか?」
「そんな必要がないからだ」
「なぜ、それをあなたが決めるんです? それを決めるのは真由さん自身でしょう」
「真由ももう、君には会わないと言っている」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
 真由に会えなくなる、――追い詰められて聖也は、思わず切り込んだ。
「――さっきあなたは、真由さんがメンタルな弱さからここへ来たと言った。でも、真由さんのメンタルを追い込んだのは、それは、あなたなんじゃないですか?」
 男はそこで初めて幾分の警戒心をみせて、聖也を見た。
「君の存在は、父からも真由からも聞いている。父が君に何を喋ったのかは知らないし、何か証拠だとするようなものでも、父は君に渡したのかもしれない、それも知ったことではない。私は城島家の人間として、真由の父親として、不適切なことなど何もしていない。それに、いいか? もう、城島健介は死ぬ。父の持っていた力は、すべて私が引き継ぐ。君には何もできない。何も。抗えば、君に傷がつくことになるだろう。君だけじゃない、その気になれば、君の父親や伯父、事業をやっている伯父さんの別荘があるんだろう、ここには。君が騒げば、みな、不幸になる。君も、君の親族も、私も、真由もだ。無駄なことはするな」
 
 その後も結局病室には入れず、真由の端末に何度も連絡を入れたが、もはや返信が来ることはなかった。真由の、真由と祖父の家にも行ってみたが、やはり、車寄せには社用車が何台も止まっており、ダメ元で、真由に会いたい旨頼んでみたが、ここにはいないと素っ気なく返された。
 それでも聖也は東京に戻る気にはなれず、伯父の別荘に向かった。玄関ロック解除の顔認識で伯父に勝手に別荘を使ったと知れるが、そんなことはどうでもよかった。
 リビングに入ると、もう日が落ちかけていた。全面の窓から昏い残照が差し込む中、聖也は灯りをつけることもなく、ソファに沈み込んだ。
 真由の父は、何かに怯えて露骨な脅しをかけてきた。真由をめぐって、祖父と父親が対立していたということなのだろう。証拠? 虐待の証拠でもあったというのか? でも、実際のところ、祖父は聖也に何も渡してなどいないし、具体的なことを話してすらいない。そして、もう真由と連絡もつかない。何もやりようがないではないか。
 城島家の家政婦・翠川から電話が入ったのは、すっかり日が暮れた後のことだった。
「真由お嬢さまは、明日朝、ここを発つと決まりました。今晩まではお屋敷のご自分の部屋にいらっしゃいます」
「翠川さん、今、どこから?」
「大丈夫、外です。わたくしも、明日で解雇となります。急な話でかなりの額の退職金はいただきましたが」
「真由の携帯端末にいくら連絡しても返信が来ないんだけど、どうなってるのかな」
「携帯は、お父様が取り上げてしまいました」
「――あの父親、真由が小さい頃に虐待していた?」
「そこはわたくしも存じ上げないのです、ご主人さまは、城島健介様は、そこのところを仰ることはありませんでした。わたくしの知っているのは、せいぜいが、聖也さんと同じです」
「それで、翠川さんは僕にどうしろと?」
「今何か、簡単なメッセージであれば、お伝えできると思います」
 聖也はそれで、翠川をずいぶんの間、そのまま待たせた。だが結局、今の自分に出来ることなど、何もないと悟った。いくら考えてみても、何も出て来ないのだった。
「じゃあ、こう伝えて。東京に行っても、必ず会えるようにするからって。約束するからって」
 その夜、聖也は着替えもせず、明かりもつけずに、ずっとソファにいた。微睡んだのか記憶が少し飛んでいるような気もするが、一晩中、ほとんど全く眠れなかった。そんなことは、生まれて初めてのことだった。
 だが、だからといって、何をしたわけでもしなかった。出来なかった。伯父のゴルフクラブを持って、あるいは、別荘の消火器を持って、真由の家に乗り込んでいき、真由を助け出すことを繰り返しシミュレーションしてみたが、どうやったところで成功の可能性ゼロの妄想に過ぎなかった。むしろ、その妄想の先にある真由の父親の報復、あるいは、警察に不法侵入や傷害罪で追われる自分を想像し、萎縮した。
 夜が明けていく、窓の外が明るくなっていく様子を、聖也は絶望の中で見ていた。そして聖也は、手の甲にある、真由が「勇者の証」と呼んだ傷痕を見つめる。
 全然、勇者なんかではない――。
 
 結局聖也は、勇者には、ヒーローにはなれなかった。聖也は、それ以降、二度と、真由と会うことはなかった。それどころか、真由の消息を探ることさえ、出来なかった。真由の父親は、依然として企業連合体の総帥としての地位を維持していたが、その娘の情報はいくら探してもまるで無かった。真由の存在は、忽然と消えてしまったのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み