第1話 春の訪れ

文字数 1,883文字

 丘の上の洋館。
『華族様の別邸があるんだよ』と街の人々から(ささや)かれていた。
 大正時代には、まだそんな身分制度があったね。その華族様も末端は落ちぶれてしまっていたけれど……。

 そんな場所が、僕の産まれたところ。
 生まれつき病弱で、一族からも……母親からさえ見捨てられた存在だった。
 もしかしたら、母親の方には愛情があったのかも知れないけれど、周囲が許してくれなかったのだろう。
 こんな出来損ないの末端華族の僕にも、利用価値はあったようで生まれた時から皇室の婿候補リストに名前が記載されていた。

 テラスを開け、庭に出ると一面の花畑。
 僕は、物心付いたときからこの庭の花咲乱れる光景が好きだった。

 一度だけ、僕はこの洋館を離れたことがある。
 全寮制の高等学校に入ったときだ。よくもまぁ、あの文武両道を旨とする旧制第一高等学校の寮でやっていけたもんだと思う。これも一重にバンカラで気の良い寮生たちのおかげだ。
 さもなくば、僕は一年と保たず退学していたであろう。

 そうして大学に上がり、花咲乱れる庭に戻ることが出来た。
 昔はもっと手入れが行き届いていたような気もするが、それでも乱雑なこの庭が好きだった。

 戻って来て、二年……いや三年目の春だったろうか。
 僕が何気に、庭に出てみると、そこには花に同化したように少女が立って居た。
 後ろ姿しか見えないが、矢がすりの着物に紺の袴。長い黒髪に赤い大きなリボンを上につけて、ハイカラさんと言われる女学生の恰好をしている。
 僕が、呆然と見ているとその少女が振り返り
「綺麗ね」
 そう言って微笑んだ。


「君は、どこから来たんだい?」
 内心の胸の高鳴りを押さえ、冷静なふりをして彼女に問いかけた。
「ごめんなさい。あなたのお庭だったのね。あんまり綺麗だったから、つい()かれて入って来てしまったわ」
 彼女は軽やかに僕の側に寄ってきた。
「まるで蝶のようだね。()かれてなんて」
 冷静に対処できているかな、僕は。胸の鼓動が彼女に聞えてやしないかと冷や冷やするよ。

「まぁ、華やかなものに例えてくれて、どうもありがとう」
 彼女はコロコロと笑う。
「これも何かの縁だ。良かったらお茶でも飲んでいかないかい?」
 僕は出来るだけ穏やかに笑顔で言ったつもりだった。
 だけど、彼女はピクッと反応する。少し警戒した? 慌てて僕は付け足す。
「ああ。お茶は、家政婦さんが入れてくれるから、味は保証するよ」
 男一人の屋敷に誘っているわけじゃないからねというアピールをする。

 彼女から少しホッとした気配を感じた。
「ありがとう。せっかくだから頂くわ」
 僕らは連れだって洋館に向かう。
「僕は、桜井伸也と言うのだけど、名前を訊いても良いかい?」
「伸也さんね。私は、松平千代って言うの。千代でいいわ。よろしく」
 千代さんは、僕に手を出してきた。握手? って言うのもなんだから、僕はその手を取って甲に軽くキスを落とした。
 千代さんが慌てて手を引く。顔が少し赤い。
「こ……これが、西洋式の挨拶?」
「まあね。でも、誰とでもって訳でもないんだよ」
 僕ばかりドキドキするのもシャクだから、少しは意識して欲しくてしたのだけど。
「さぁ、どうぞ。たいしたもてなしも出来ないけど」


 僕は、通いで来てくれている家政婦さんに頼んで、お茶とお茶菓子を用意して貰った。
「美味しい。うちじゃ、紅茶なんて出ないから嬉しいわ。
 これは何?」
「ああ。シフォンケーキ?」
「しふぉ? えっと」
「シフォンケーキって言うんだ。名前はともかく食べてみて、このクリームを付けて食べると美味しいよ」
 千代さんは素直に、フォークでクリームをすくってケーキに乗せて食べている。ファッとビックリした顔から笑顔になった。
「美味しい。何これ? すごい。甘さも餡子みたいじゃなくてふぁっと甘いの」
 僕は、和菓子も好きなのだけど、洋菓子は普通家庭ではなじみがないと思い出してみたが……。
 こんなに喜んで貰えるのなら出して良かった。

 スッと僕の分も千代さんの前に差し出した。
「え?」
「まだ、口を付けてないから僕のも食べて。気に入って貰えて何よりだ」
 僕は、ニッコリ笑ってそう言った。
「でも、お行儀が悪いわ」
「大丈夫。今日は、だれも気にしないから。
 それより、美味しそうに食べてくれる方が有り難い」
「ありがとう」
 千代さんは、嬉しそうに微笑む。
 その笑顔を見て僕も嬉しくなった。
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