第6話 音楽ユニット「ごまハチ」
文字数 1,940文字
それは夫と組んでいる音楽ユニット「ごまハチ」の活動が、本格化?してきたことだ。
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音楽活動を始めたきっかけは、かなり昔だが1999年に遡る。
当時、東京の渋谷でフリーのマーケティング・プランナーをしていた私は、夫と共に、彼の故郷である島根県石見地方の桜江町という人口3000人ほどの小さな町に移住してきた。私41歳、夫38歳の時だ。
ちょうど、インターネットが普及し始めた頃で、島根でも東京の仕事が続けられる環境ができつつあったこと、夫が本家の後継であったこと、また昔から田舎暮らしに興味があったことも移住の理由だった。
そして、いざ夫の故郷に来てみると、そこは、予想を遥かに超えるようなワクワクする素晴らしいところだった。
地元の人は「なーんも無い田舎」というけれど、私にすれば宝の山。夢と可能性が、いっぱいで、楽しくて、うれしくて、面白くて、もう笑いが止まらなかった!
地域に眠る資源を活かしたツアーやイベント。さまざまなプランやアイデアが、次々に湧いてくる。もちろん、具現化するには、それなりの資金が必要だが、それは民間や公共の助成金を活用した。
そのための申請手続きは、プランナーの私には、困難ではなかった。おかげで狙った事業は、ほぼ100%ゲット。共感し、応援してくれる人たちや仲間も増えてきた。
そうして「空き家活用」や「体験ツアー」など数々の事業に取り組むこととなったのだが、それらは先進事例として全国的にも注目されるようになっていった。
そのためマスコミでも紹介され、視察や講演依頼が相次ぎ、各方面から委員やアドバイザーとしてのお声もかかるようになった。
好奇心から始めたことだが、気がつけば、おかたいNPO法人の理事長として地域活動に取り組んでいた。
講演は、これまでに全国各地で300回以上。最初は、それも面白くて、名物料理や地酒などを楽しみに出かけたものだが、いかんせん飽きっぽい性格のため、同じような話をするのが、だんだんとつまらなくなってきた。
そんなある日「もう年もとったし、『講演』で言いたいことを『歌』にしたらどうだろう。むしろ、その方が伝わるのでは?」と思いたち、1時間半のトークをキュッと3分くらいにまとめ、曲にしてみた。
例えば、「空き家対策」は、『空き家の歌』や『空き家のロッケンロール』という曲に。「人口減少問題」などは『このままで演歌!』などなど。
そのうちに調子に乗ってきて、「河部」という名前だし「川辺」に住んでいるから「kawavex(カワベックス)にしたら面白いやん。avex(エイベックス)みたいで」と、レーベルっぽいものをつけてみた。
また音楽ユニット名は、互いのニックネーム、私は「ごま」、夫は「ハチ」で、「ごまハチ」とした。
そして講演依頼があるたびに「ぜひ夫も一緒に、もちろん夫の交通費や謝礼などいりませんので」と二人で押しかけた。さらに「関連する歌がございますんで、一曲いかがでしょうか」と、歌の押し売りまでするようになった。
そんな調子なので、講演後の感想でも「『お話』は良かったけれど、『歌』はね…」など、お叱りをいただくことばかり。
しかし、懲りずに続けていた所、とうとう、この年初めて、念願の「ごまハチ」として『歌のみ』の出演依頼を島根県の「ふるさと島根定住財団」からいただくことができたのだった。
バンザーイ!
それを機に、イベントなどへの出演依頼もあり、ますます調子に乗った私たちは、思いきって単独ライブを開催することに。
そんなこんなで、地元の新聞やテレビなどにも音楽ユニット「ごまハチ」として取材してもらえるようになったのである。まさに継続は力なりだ。
ちなみに楽曲は、私が作詞をして、夫ハチが作・編曲を担当。できた曲をユーチューブにアップしようと、夫は慣れないMacで音源を打ち込む。流行りのDTM(デスクトップミュージック)とかいうやつだ。私も思いきって、かなりハイスペック仕様のMacを買って、動画編集にチャレンジ。
互いに、老眼が進み、髪は真っ白になり、還暦も近い中高年だが、なんとか自力&独学で、これまでユーチューブに20曲以上の地域振興ソングをアップしてきた。
NPOから解放され、PONから旅立たれた私の時間は、このように費やした。おかげで、昼間は、ポンのことも少しずつ忘れるようになってきたが、相変わらず夜は、号泣の日々。
そして、その年の十月、山陰柴犬育成会の松本守人さんから「山陰柴犬の子犬が生まれましたよ。河部さんの番になりましたよ」との連絡をいただいた。
第7話に続きます。