第3話

文字数 3,326文字

 老緑の夏はまだ終わらなかった。
 深東京医専夏休みの決められた課題は佳境に入ったところ。日々図書館通いをしていた晴翔も図書館で同級生に会うことが多くなった。皆、それなりに勉強している。深東京医専は医療系の学校としてはこの国、一、二を争うエリート校であるのは間違いなかった。
 晴翔が勉強に出かけて、都も少し出かけることにした。今日は一番上等なシャツを着て、デニムは辞めた。運命が変わる日になる、なんて言ったら大袈裟になるが、都にも秘めた思いはあったのだ。一歩踏み出す覚悟は決めた。
 早朝の商店街は少しずつ開店している。その中の一つの店、老緑雑貨店。数年前までは高齢の店主がいたのだが、若い店主に変わって以来すっかり変わってしまったと言う。輸入雑貨を扱う気難しいその新しい店主に都は用があった。

「すみませーん」
「なんだ」
「わっ……!」

 声をかけた瞬間に背中から話しかけられたから驚いてしまった。気配の見せない無愛想な男は都をじろじろと睨みつける。

「な、な……」
「なんだと思っているのはこちらの方だが、私がこの店の店主だ。一体何の用だい?」
「あっ、あの、表の貼り紙を見まして……」
「午前中限定ののアルバイトの募集か、それに君が?」
「いけませんか」
「雑貨店とは言え扱うものは大きいものもあるし、実質力仕事だからな。中には君の細い腕が折れそうなものもある」
「空いている時間が午前中しかなくて……他のお店では時間が合わないんです」
「何故だ、生活が苦しいのか?」

 店主は都を強い目で睨みつける。そんな目をされては都の心は戸惑いと恐怖しかなかった。しかし、バイトが出来ないのは困る。良い加減、晴翔と櫻葉家に養われているのもどうかと思ったのだ。たまに話の来る内職よりも効率よく少しでも自立したい、せめて自分の生活費くらいは。

「ほんの少しでも、働かせていただけませんか? 困っているんです、一生懸命働きますから」
「ふうん……でも私はどんな事情があろうとも君を特別扱いするつもりはないがね。それにこの店は大体アルバイトに来ても皆、一ヶ月も経たないうちに辞めて行く」

 そう言って店主は店内に入って行った、都を置き去りに……が、すぐに彼はじろりと振り返った。

「どうした、ついて来ないのか? 仕事はすぐに覚えてもらうよ」

 ***

 図書館で調べ物をしていたらすっかり遅くなってしまった。
 晴翔は照りつけるアスファルトの中、自宅に向かって歩いていた。暑い日、図書館はエアコンが効いていたが家には扇風機しかない。都は大丈夫だろうか、出かけるときに水分は気をつけてこまめにとるように、とは言って来たけれど。

「ただいま」
「あ、おかえりなさい。暑かったでしょう、晴翔さん。冷蔵庫で麦茶が冷えていますよ」

 都はそう言って微笑んだ。よく動いて家事をしている都だったが、しかしその横顔はどこか疲れている。

「大丈夫か、都。何か無理しているんじゃないのか?」
「そうですねえ、今日は本当に暑い。僕は少し遠くに買い物に行ってばててしまっただけですよ、大丈夫です」

 冷蔵庫の中から都は麦茶を出してコップに注いだ。その手にはいくつかの傷がある。力仕事でもしたみたいに擦り切れかすかに血が滲んでいた。

「無理はするなよ」
「はい」

 ***

 アルバイトは平日の週に四回、輸入雑貨店での仕事。木曜日は定休日。都は今日も晴翔を見送って、家事を一通り終えた後早々に出かける準備をする。とは言っても午前中だけだから、帰って来たらまた再び家のことをするのだけれど。

「君、次は倉庫から未開封のダンボールを持って来てくれ。中身はガラスのグラスだから割らないように」
「あ、はい! わかりました」

 店主、東雲暁月(しののめぎょうげつ)の一人で経営している店。倉庫とは言っても四畳半ほどの小さな部屋だった。空箱や袋に入った布製品の類、その隅に割れ物と書かれたダンボールがある。おそらくこの箱のことだろう。持ってみるとずいぶんと重い。ひどく痩せ型で力のない都には少し辛くもあったが、これが仕事で給金も発生していることを考えたらためらうことはできなかった。必死でダンボールを落とさないように抱えて店主のところへ。

「遅い!」
「すっすみません、あ、あのどこにおけば良いですか?」
「とりあえず会計レジの横のあたりに置いておいてくれ、落とすなよ」

 なんとか無事に仕事をこなせて都は大きくため息をついた。今日はひたすら在庫管理で荷物運びの繰り返しで。もう時刻は気がつけば正午をまわる、店主は都に離れたところから声をかけた。

「今日はその辺で構わない、君の今日の仕事は終わりだ。助かったよ、また明日来てくれ」
「あ、どうもお疲れさまでした……!」

 荷物運びばかりで都の手のひらは真っ赤に腫れた。しかし午前中の数時間だけの仕事だ、女郎花村の櫻葉の家にいた時は一日中それこそ朝から晩まで働いていたからこの程度のことはそれほど苦にはならない。短時間とは言えすぐに疲れて音を上げるだろうと思っていた感のある店主は、都を見直し始めていた。

 ***

 昼も過ぎた頃呼び鈴を鳴らして晴翔を玄関で迎えた都には、今日もどこか違和感があった。理由はわからないけれどそれでも疲れた顔をして。

「だからなんでもありませんって、大丈夫ですよ。老緑町が暑いせいです、晴翔さんも学校まで暑かったでしょう? 今から思えば女郎花村は意外と涼しかったんですね」
「ああ、これは残暑だな。今まで夏がこんなに長いと感じたことなんかなかった、都会はアスファルトで出来ているからな。せめて道路が樹々で囲われていたら少しは涼しいのだろうが」
「そんな町並み、ありましたよね。故郷が懐かしいですか?」
「いや……」

 そっと晴翔は都に触れた。赤い腫れはまだ残っていて、晴翔黙ってその手のひらに触れる。

「は、晴翔さん、離してください」
「一体お前は何をしているんだ、理由くらい教えてくれても構わないだろう?」

 ***

「アルバイトだと……?」
「すみません、隠れてこそこそしてしまって。でも内職の話も最近はありませんし……」
「何故だ、日々節約もしているから仕送りでも十分だし、無理して働く必要はないだろう」
「無理じゃないですよ、空き時間ですから。家事には手を抜きません」
「そんな疲れた顔して? お前の体力がないのは昔から知ってるぞ」
「夏も過ぎれば平気ですから……」

 晴翔は納得のいかない様子だった。日々が都の体力を削って行く、朝だって日の出前から起きて何かしらの用事をしているのに。

「顔色が悪い、少し横になれ」
「晴翔さん……」

 押入れの布団を出して来た、都の言葉も聞かずに晴翔は辺りを片付け始めて都の布団を敷いて睨むほどに真面目な顔を向ける。言い訳のしようがない都は黙って布団に横になた。

「別に僕は晴翔さんから離れようとしたわけじゃないんですよ。晴翔さんも櫻葉のお家もここまで面倒を見ていただいて感謝しているんです」
「……」
「それに晴翔さんは今後のためにお忙しいじゃないですか、後々は櫻葉製薬の立派な後継の一人として……」
「うるさい!」

 都に向かって初めて晴翔が声を荒げた。いままで小さないさかいはあれどもそんな顔をしたこともなかったのに。
 都の言葉が彼の弱いところを突いたのだ。櫻葉製薬、晴翔は別にその家の次男であることをいまだって望んでいるわけではない。未来すらも決められた運命の呪いが、晴翔を縛り付けて故郷からこの深東京都市老緑まで導いただけで。

「あ、あのごめんなさい、僕」
「……出かけてくる、そのまま横になっていろよ」

 乱暴にドアを開けて晴翔は家を飛び出した。彼を追いかけようと思ったところに、再び都は胸に疼痛を覚える。

「う、く……っ、あ……」

 原因が思い当たらない、近頃少し疲れていたからだろうか。都も体力より日々のストレスを自覚していた、慣れないアルバイトでは叱られることも多い。それでも幼い頃に比べたら大したものではないはず、厳しい場所でひどい言葉を投げられて日々くたくたになるまで働かされていた頃と比べたら。
 少し眠ろう。晴翔もきっと気が済んだら帰ってくるだろうし、そうしたら彼にそこで再びきちんと謝ろう、と。
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