文字数 7,188文字

 この日、萩原は久しぶりに仕事絡みの用事のない土曜日を過ごしていた。
 銀行が週休二日制だと言っても、彼のような入行五、六年目の行員にとっては、連休は毎度約束されているものでもなかった。彼くらいの年齢になると、仕事は一通りそつなくこなせるし、会社組織にもある程度順応できている。しかも、彼は独身だった。休日出勤を断ってサービスしなければならない家族もなければ、少ない小遣いに苦しんでいるわけでもない。つまり、上司にとっては休みに駆り出すにはもっとも都合の良い部下だったのだ。
 そういうわけで彼は、土曜と言えば仕事絡みの用事で出かけているかゴルフに連れ出されているかのどちらかで、自宅でゆっくり本を読む暇もなかった。しかしそんなことがここ三週間ほど続き、さすがに上司の方が疲れたのだろう。彼は自分の職場が週休二日であることを忘れてしまわないうちに、どうやら連休を取ることが出来たのだった。
 彼は智子との離婚後、それまで暮らしていた大阪市内の賃貸マンションを引き払い、西宮市の実家へ戻ってきた。美雪の養育費と車のローンを含むクレジットの支払いで月に十万円以上は消えるため、家賃まで払って独り暮らしを続けることができなくなったからだ。実家は八十坪を越える広さの敷地に建つ一軒家で、三年前に兄が結婚して独立してからは両親だけになっており、彼が戻ってきても十分余裕があった。大手製紙会社の役員をしている父親は年中会議ばかりで出張も多く、時には母親を同伴して国際会議にも出席していた。だから彼はいたって自由な生活を送っており、時折彼の将来を心配した母親が再婚話を持ち掛けてくること以外、彼はここにいて何ら不愉快な思いはしていなかった。
 今日も両親は製紙業界の環境会議に出席するため、東京へ行って留守だった。父親の会社が会議のホスト役で、海外からも何人かの専門家を迎えているらしく、五十八歳という年齢にしてはめずらしく英語の分かる母親が会議以外の場面での夫の通訳として一緒について行ったのだった。
 だから彼は月曜までこの家で一人だった。今日は昼近くに起き、アメリカにいた頃に習得したフレンチ・トーストを作ってコーヒーを入れた。午後は暑い中を二時間掛かって車を洗い、それが済むと早めの風呂に入って外に食事に出掛けた。
 そして今、彼は自分の部屋のソファに寝そべり、借りてきた映画のDVDを観ながら缶ビールを飲んでいた。
 時計の針は八時前を指していたが、起きたのが遅かったので、まだそんな時間だとは思えなかった。
 テーブルの携帯電話が鳴った。覚えのない着信番号が表示されていたが、萩原は特別慌てもせず、ゆっくりと起き上がって電話に手を伸ばした。
「もしもし」
 彼は事務的とも言える無感情な声で応答に出た。
《萩原くん?》
──智子だった。
 一瞬、彼は言葉に詰まった。智子からは一昨日電話があったばかりなので、まさかまた掛かってくるとは思ってもいなかったのだ。
「……きみか」
 彼は溜め息混じりで言った。
《あっ、ごめんなさい》智子ははっとしたような声を出した。《お邪魔やったのね》
「いや、そうやないけど」
《……ごめんね、たびたび》
「ご主人は?」
《昨日同窓会から帰ってきて、また今日から仕事で出掛けてるの。明日の夕方帰ってくるわ》
「そうか」
 気が引けるようなほっとしたような、複雑な気分になった。缶ビールを口に含み、喉を潤してから気を取り直して言った。
「美雪は?」
《実家。幼稚園が休みやったんやけど、主人がいなくて私がずっと店に出て相手してやれへんから預かってもらったの。ちょうど店も忙しくって、バイトの子に無理言うて残業もしてもらったし、さっきまでその子に夕食をごちそうしてたの。それが済んで美雪を迎えに行こうと思ったら、母がたまには一人でのんびりしたらって言うてくれて。それで今、久しぶりに大阪に来てるの》
 智子はいつになく饒舌に話した。
「お義母さん、元気か?」
《ええ、相変わらずよ》と智子は笑った。《萩原くんのこと、お気に入りやったもんね》
「つき合いはじめたときから、お義母さんは俺の味方してくれてたからな」
《今でも萩原くんのことは悪く言わへんわ》
 彼は俯き、離婚の時のことを思い出した。智子の父親は彼の勝手な別れ話に激怒し、何度も二人のマンションに乗り込んできた。
 そんな夫を必死でなだめ、結局最後に諦めさせたのは彼女の母親だったのだ。母親はそのときも娘婿にに対してひとことの文句も言わなかった。娘と孫を不幸にした男に、自分だっていろいろと言いたいことがあったにはずなのに。
 彼は今でもそんな智子の母親に感謝し、またし訳ない気持ちで一杯だった。
「──智子」
《何?》
「お義母さんに、早く俺のことは忘れてくださいって言うといてくれ」
《萩原くん……母は別にあなたに未練があるってわけじゃ──》
「分かってるよ。でも、それでも忘れてもらいたいんや」
《どうして?》
「そうでないと、榊原さんやお義父さんが気分悪いやろう? それでなくても美雪が相変わらずの調子やのに」
 彼はソファに身体を預けた。「俺は、美雪が俺のことをまだ慕ってくれるだけでも十分やと思てるんや」
 智子は何も言わなかった。気を悪くしたのか困っているのか、今となっては彼には推し量ることもできなかった。
 昔なら、顔が見えなくても彼女が電話の向こうでどんな気持ちでいるのか、手に取るように分かったのに。
《──美雪が、羨ましいわ》
 ようやく智子がぽつりと言った。
「えっ?」
《あなたへの気持ちが素直に出せて》
「智子……」
《あたしかて、時にはあなたが懐かしく──ううん、恋しくなることもあるのよ》
「何言うてるんや」と萩原は乾いた笑い声を出した。
《現にこうして、主人や子供から解放されたら、真っ先に萩原くんの顔が浮かんで……それで電話を──》
「智子、やめろって」
 萩原は智子の言葉を遮った。明らかに困惑していた。
 それを無視するかのように、やがて智子は言った。
《──逢いたいわ、萩原くん》
 そう言われた瞬間、萩原は目を閉じて大きく溜め息をついた。今夜、電話が掛かってきた時点から、彼には何となくこうなる予感がしていたのだ。
「なあ、智子」
 彼は精一杯落ち着きを保って言った。「ご主人とうまいこと行ってへんのか? それで俺に──」
《そうやないの。主人とは何の関係もないわ》
「それやったら何で──」
《やっぱり、迷惑やったね》
「俺のことはどうでもええんや。問題なのはきみの方やろ? そうやって新しい家庭を築いたばっかりやていうのに、俺なんかに会うたって何の意味もないやないか」
《そう言うけど》と智子は反論した。《あたし、自分からあなたを嫌いになって別れたわけやないのよ》
「それは分かってるよ、俺の勝手やったって」
《だったら、どうして美雪が今でもあなたのことを慕ってるのが許されて、あたしには許されへんの?》
 彼は辛そうに顔をしかめて俯き、搾り出すように言った。
「……きみは再婚したやないか」
《──それでも、ときどき思い出すのよ》
 智子も哀しそうな声で言った。 《だって、あなたが完全にあたしの前からいなくなったんと違うもの》
 彼はここで自分がどうするべきなのか分かっていたし、反面、どうしたいと思っているのかも分かっていた。
 彼は必死で今の二人の立場を自分の胸に言い聞かせた。しかし、その一方で智子の気持ちが痛切に感じられ、そして自分の中の思いが抑えきれなくなりつつあるのを確認していた。
「──分かったよ」
 彼はようやく口を開いた。「今、どこから掛けてる?」
《マルビルのコーヒーラウンジ。二階の》
「一時間で行くよ」
 そう言って電話を切った。
 彼は自分のなすべき方ではなく、したい方を選んだのだった。



 一時間後、二人は加納美咲がピアノを弾く例のバーのテーブル席に座っていた。
 萩原がこのバーを選んだのは、五日前に自分が一夜を共にした女性の目の前で智子と会えば、彼女に対する未練がましい気持ちが冷めるだろうと考えたからだった。
 美咲と顔を合わせるのもあのとき以来初めてだったし、自分はきっと彼女のことも気になるに違いないと彼は思ったのだ。ただ一つ心配だったのは、美咲が何らかの手段を使って智子に自分との関係を喋ってしまうかも知れないということだった。そうなったら智子は俺のことをどう思うだろう。そういう関係のある女性の前に自分を連れてきた俺を軽蔑するかも知れない。でも待てよ。そうなったらそれでもええやないか。そうしたら、智子も二度と俺に会いたいなんて言い出すことはないやろう──。
 しかし、加納美咲はまったく意に介してないようだった。というよりむしろ、萩原が自分の前に女性を連れてきたことを歓迎しているようだった。時折ピアノ越しに彼と目が合うと、その視線を自分に背を向けて座っている智子に移してにっこりと微笑んだ。きっと彼が、あの夜彼女の言っていた「本当の愛」というものを見つけて、その相手を自分に披露しに来たとでも思っているのだろう。それが証拠に、彼と智子が店に入ってきて以来、美咲は恋人たちを祝福する内容のラヴ・ソングばかりを弾いていた。

「──素敵なお店ね」
 智子は囁くように言った。「あなたの好きそうなお店」
 彼女は自分の前に琥珀色のカクテルを置き、背筋を伸ばして静かに座っていた。V字型に広く襟の開いた真っ白のワンピースを着て、耳からはゴールドのイヤリングを下げている。短くカットされた栗色の髪がかえって女らしく、白い肌によく似合っていた。
「智子」
 萩原はぼんやりと智子を眺めながら言った。彼女は顔を上げ、優しい微笑みを浮かべて彼を見た。
「俺は変わったかな」
「変わったって?」
「そんな気がする」
「誰かにそう言われたの?」
「そうやないけど」
 萩原は顔を上げ、言葉を探しているような表情をした。 「何か……とてつもなく小さい人間になってしもたみたいな、そんな気がして」
「そうは思いたくないけど」と彼女はグラスに視線を落とした。
「自分でもときどきそう思うんや。こんな人当たりが良かったかなとか、いつの間にこんなに気配りが行き届くようになったんやろとか。それはそれでええことなんやろうけど、何か──個性がなくなってしもたというか……」
 萩原はグラスの氷を鳴らした。
「確かに、前の萩原くんはもっと研ぎ澄まされて、それでいて荒削りなところがあったように思うわ」智子は言った。「いい意味で、どこかとても危険やった。不用心で無神経な人間が触るとたちまち傷つけられてしまう、よく研がれた鋭い刃物みたいで」
「大人になったんかな」と萩原は笑った。
「だとしたら、成長なんてつまらへんもんやね」
 そう言って智子も微笑んだ。
 萩原はじっと智子を見つめていた。そして、今から自分が言おうとしている言葉を彼女がどういう意味に取ろうと構わないという決心がつくまで、何も言わずにいた。彼女は彼の気持ちを何とか読み取ろうとしているらしく、大きな瞳を一杯に開いて少し身を乗り出し、彼の顔を覗き込んだ。
 やがて彼は言った。
「戻りたいと思うよ、二年前に」
 智子は俯いた。細い指をカクテル・グラスの脚に絡ませ、褐色の液の底に静かに沈むチェリーの実をじっと見つめている。そして小さく息を漏らすと、ゆっくりと顔を上げて萩原を見た。
「あたしもよ」
 萩原は小さく頷いた。テーブルの端に置かれた細長いグラスに丸めて入っていた伝票を取ると、もう一度智子を見つめ、言った。
「行こう」
 二人は立ち上がり、店のドアへと向かった。キャッシュカウンターでチェックを済ませた萩原がちらりとグランドピアノに振り返ると、美咲がこちらを見て静かに笑っていた。
 彼は何も言わずに向き直り、智子の背中にそっと手を添えて出て行った。


 梅田の摩天楼を間近に見るホテルの部屋で、二人は黙って自分たちの足下を見つめていた。
 部屋の照明は暗く落とされ、その分窓ガラスを通して部屋一杯に広がった夜景を美しく浮かび上がらせていた。
 いつの間にかまた雨が降り、ビルのシルエットが揺れながら空を昇っていくようだった。
 萩原は窓際に設置されたエアコンに腰掛け、ジーンズの上からふくらはぎに当たる、穏やかだが冷たい風を感じていた。一方の智子は壁に取り付けられた品の良いドレッサーの前に座り、まだ膝の上に置いたままのバッグの紐を両手で握っていた。二人とも、病院の廊下で身内の容態を気遣う家族のように神妙な顔をしていた。
「──今なら、まだ間に合う」
 エアコンの上に灰皿を置き、左手に持った煙草から一筋の煙をくゆらせながら萩原はぽつりと言った。
「ええ、そうね」
 智子は鏡に映った萩原の姿を見て、頼りなく頷いた。
「一緒に酒を飲んだだけやから」
「同級生やもの、それくらいのことはあるもんね」
「そこでやめとくべきなんやろうな」
「それは分かりきってるわ」
 と智子は振り返った。そしてすがるような眼差しで 彼を見ると、小さく首を振って消え入りそうな声で言った。
「でも、今はどうしても気持ちを抑えることができひんの」
「俺もや」
 萩原は煙草を消し、彼女を見つめた。「ええんやな?」
 智子は肯定も否定もせず、ただ黙って彼の顔を見ていた。
 彼は立ち上がって彼女のそばへ行った。そして椅子に腰掛けて自分を見上げている彼女の手を取ると、その腕にもう一方の手を添えて彼女を立ち上がらせた。
 感極まった彼女の瞳は柔らかく輝き、黒目が涙の中で泳いでいた。
 彼はゆっくりと彼女を抱き寄せた。胸の中に彼女を包み込むと、その小さな肩に両腕を回し、それから背中へと下ろしていった。彼女も彼の背中に手を伸ばし、しっかりと抱え込んだ。
「──何で、今になって……」
 彼は辛そうに言った。「……なあ、何でや?」
「分からへんわ」と彼女は呟いた。「たぶん、こういう思いはずっとあったのよ。ただ、別れてすぐはあなたへの恨みや憎しみの方がずっと強くて、こんな気持ちは自分にも分からへんどこかに隠してたんやと思う」
 萩原が智子を自分の胸から離すと、二人は一瞬見つめ合い、その想いのすべてを溢れさせるように唇を重ねた。
 越えまいと思って必死でこらえていた一線を、二人はとうとう越えてしまったのだ。そこからはもう、一気に駆け下りて行くしかなかった。
「……自分でも、こんなに罪深いと思ったことはないよ」
 智子から顔を離した萩原は、諦めたように言った。
「結局、いつもあなたをこうして追い込んでるのはあたしなんやわ」
 二人はもう一度キスをした。やがて萩原は智子の背中に手を回してファスナーを下ろし、そこからゆっくりと指を滑り込ませた。彼女の白い肌が露わになると、ワンピースは衣擦れの音を立てて足下に落ちた。二人はそのままベッドに倒れ込んだ。
 お互い、知り尽くした相手だった。それなのに二人は初めてこうなったときのことを思い出していた。
 つき合いはじめて三ヶ月が過ぎた一回生の十二月、二人は別の友達四人と信州へスキーに行った。雪やけの顔が少し恥ずかしくなり始めた三日目の夜、二人は初めて同じベッドで寝たのだった。
 それから離婚までのあいだ、二人は何度となく肌を合わせた。しかし今夜ほど、初めてのあのときと同じくらいの気持ちの昂ぶりを覚えたことはなかった。それほど今夜の二人は、相手への溢れんばかりの想いと、禁じられた行為へのずっしりと重い不安が、極限のところまで達していたのだった。
「豊……」
 いつの間にか、智子は彼を昔の呼び方で呼んでいた。


 ホテルを出ると、萩原は智子をタクシーに乗せて神戸へと向かった。
 途中、二人は何も話さなかった。何か言うと今夜のことがすべて淫らで薄汚れたものになってしまいそうで、二人にはそれが恐ろしく嫌だったからだ。人に言わせれば悪質で不道徳極まりない不倫ではあっても、せめて二人の間ではそう思わずにいたいと思った。勝手な言い方だが、純粋で自然な成り行きだと思いたかったのだ。 
 ただしそう考えるには、こんなことは今夜限りにしなければならないということも、二人には十分すぎるほど分かっていた。
 タクシーが智子の新しい家庭のあるマンションの近くまで来た。
 萩原は運転手にしばらく待つように頼み、智子と一緒に車を降りた。
 萩原は戸惑いがちに言った。
「じゃあ──」
「ありがとう」智子は静かに答えた。
「ご主人から連絡が入ってるようなことは……?」
「ないと思うわ。あの人、花の買い付けに行くと、そっちに気を取られて電話どころやなくなるの」
「花の買い付け?」
 萩原の心臓が大きく脈打った。「──それで、どこへ……?」
「富山よ。昔、長野で仕事をしてた時から懇意にしてもらってる取引先があるの」
 後ろから思い切り頭を殴られたようなショックだった。よりによって榊原が、前の家族を亡くしたときと同じ富山へ行っていたとは。しかも、同じ用件で。
「……これっきりにしような」
 彼にはそう言うのがやっとだった。
 ゆっくりと歩き出した智子は、すぐに萩原に振り返って言った。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 ぼんやりと前を見たまま、萩原はうわの空で答えた。
 両手で顔を拭うと、彼はそのまま項垂れた。
 やっぱり、悪質で不道徳な不倫をしたのだった。
「……なんてヤツや」
 彼は吐き捨てた。

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