第4話 賑わいを彩るもの

文字数 1,307文字

 六区の賑わいの呼び水となるのが、1890(明治23)年に六区に隣接して建てられ、その後の浅草のシンボルになっていく凌雲閣、通称「十二階」である。
 高さ約67メートルの八角形の塔で、コンクリートを土台にした堅固な煉瓦造りは「外国人ニモ恥ヂザル」建物だ。2階から8階までが世界各国の品物を売る店で、9階は美術品が陳列された上等休憩室、10階の躯体に木造2階建ての頂上部を設け、眺望室とした。10階には30倍の望遠鏡も備えてあった。
 1階から8階までは日本初の釣瓶式エレベーターを備えていた。当時、東京では最も背の高い展望塔で人気があったが、関東大震災で建物の8階部分より上が倒壊し、経営難で復旧も困難だったため、結局、解体された。
 明治末期になると、六区界隈にはハイカラな洋風の前飾りをつけた活動写真館(映画館)が建ちはじめ、それに伴って、見世物小屋が徐々に姿を消していった。また、浅草オペラや和製ジャズの異名も取った木馬館の安来節など、新しい興行物も人気を獲得していった。
 他方、「十二階下」と呼ばれる地域(十二階裏手から千束町一帯あたりまで)に広がっていた私娼窟もあり、大正6、7年頃の最盛期には吉原をも圧倒する数だったという。
 関東大震災後の六区には、大正オペラ、昭和に入ってトーキーにレヴュー(大衆娯楽演芸)、軽演劇、軽喜劇などの劇場が加わっていく。特に、榎本健一(通称エノケン)が最初に在籍した劇団カジノ・フォーリーが有名だ。
 その後、松竹の進出が本格的となり、エノケンも松竹座に出演するようになって人気を博する。戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争ったという。
 戦後は、松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。
 千束地域には朝鮮マーケットが開かれ、浅草寺周辺をはじめ、田原町、蔵前、合羽橋周辺の旧浅草区の道路インフラ整備が進み、浅草と一体となって賑わいを創出するようになる。

 現在の浅草は国内有数の観光スポットだ。
 2010(平成22)年当時の台東区への年間観光客数は約4,084万人、浅草地区への観光客数は約1,975万人だった。外国人観光客は台東区全体で約413万人と推計されている。この数値は2年前より約222万人多いという。
 東日本大震災後は急激に落ち込み、震災前は多かった中国人観光客の観光バスが駐車場に一台もないときもあったようだが、その年の5月末にはかなり戻ってきた。
 2018(平成30)年の台東区への年間観光客数は5,583万人。外国人への人気はさらに高まり、953万人の訪日客があったという。台東区のなかで一番の人気スポットが浅草だ。
 その風景が一変するのは、2020(令和2)年に発生した新型コロナウィルスの感染拡大だ。2021(令和3)年に入っても治まらず、6月現在も依然として感染拡大防止対策が取られている。
 ただ、6月になって、江戸情緒漂う「ユニクロ浅草」がオープンするなど、新型コロナ後を見越しての動きも見せ始めているという。
 古い文化を大切にしながら進化を続ける浅草の新たな魅力のひとつになるのだろうか。
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