第1話 七十年前のふるさと

文字数 1,497文字

昭和二十五年四月に小学校一年で、私は七歳だった。借家は、遠賀川の堤防の近くの、大小の家が並ぶ場所にあった。戦争は人殺しで、住処を破壊し、占領軍が日本を支配する。農地解放で、昔の農地はただのような値段で国に買い取られる。貨幣価値が変わり、今までの紙幣は紙屑のように価値が低下する。食べる物はない飢餓状態。悲惨な状態の中でも、人間は何とか生きていける。
遠賀川は英彦山が源流で、筑豊地方をくねくねと水を運びながら、直方・中間・芦屋港まで流れ、玄界灘に注いでいる。米作の農業地域で弥生時代から人々が住んでいる。
川は南北に流れ、私たちは川西と呼ばれる地域に住んでいた。歩いて五分の所に筑豊線の筑前垣生駅がある。歩いて十分の場所に、農家をやっている母の実家がある。やや広い田圃を所有しており、二階家の前に庭があり、秋には筵を敷いて、収穫した稲を脱穀していた。向いに納屋があり、農耕用の馬と牛を一頭ずつ飼っていた。外用便所もあり、作業中に土足で利用できるものだった。祖父に時代には、田畑は十町歩という広い面積を所有していたが、ほとんど国に取られてしまったと、跡取りの叔父は嘆いていた。叔父はいつの日か、昔所有していた田畑を自分の力で取り返してやると、言っていた。 
 春はレンゲソウの赤い花が、田圃を花園に染める。その後、肥料となるレンゲソウと共に、牛に鍬を引かせ、田の土を耕す。用水から水を田に流し込み、牛と鍬で代掻き耕す。田植えをする時や、秋の稲刈りの時など、五島列島から出稼ぎの大人が、泊り込みで、五人位来て手伝う。母も農繁期に手伝いに行く。父は役場勤めで、農家の作業は苦手のようで手伝わなかった。
 戦後、米は配給制度だったが、母が農業を手伝い、米を分けてもらい、飢えを凌いだ。当時の移動手段は、歩くことが基本だった。母がリヤカーを引き、ボタ山で石炭屑を拾いに行くのを、ついて歩いた。またリヤカーに荷物を積み、四キロ先にある親戚の家まで、何かを運んで行ったこともある。帰りは夕暮れ時となり、早く帰りたいと寂しなり、母の引くリヤカーに付いて歩いた。
 盆と正月には、直方にある父の実家に行って、ご馳走になる。垣生駅から蒸気機関車で、直方駅までいき、アーケード街を通り、祖母の家に家族で行く。一年のなかで一番の楽しみだった。
炭鉱が川東に数か所あり、ボタ山という石炭の屑石が三角形の山に積上げられ、方々にそびえ立っていた。炭鉱で働く人の長屋もあり、人口は川東に多く。遠賀橋を渡った先の方に、昭和町商店街があった。両側に店は建ち並び、肉・魚・八百屋、電器屋、郵便局、洋品・文具・葬儀・蒲鉾・茶・映画館・病院と、なんでも揃っている商店街だ。どんな所か行って見たいが、子供の足だと二十分はかかるので、ほとんど行ったことがなかった。
 家の近くに、小さな雑貨屋があり、野菜や乾物を売っていた。我家の庭で鶏を二十羽飼っていて、産まれた卵を店に置かせてもらっていた。堤防沿いに魚屋、酒屋、鍛冶屋・馬の獣医もいた。火の櫓や神社もあり小さな村を形成していた。現在は中間市となり、炭鉱も閉山され、炭鉱住宅もなくなり、昭和町商店街も廃れてしまい、商店が無くなり、住宅街となっている。昔、大きなため池があり雑木林が広がっていた地域が開発され、中間市の蓮花寺・通谷地域が市の中心市街地となった。銀行にスーパーに公共施設や団地も建設され、「田舎の小都会」の雰囲気の町に変化した。
 時代は流れ変化していくのは、必定である。現代生活は豊かで快適である。しかし昔のような貧乏ではあるが、心豊かな社会ではないような気がする。昔懐かしき思いがつのる。
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