第6話 good boy,bad girl 6

文字数 1,680文字

 診療所に帰り着いたときには正午を過ぎていた。ほんとうは自由市場の農園の出店を見たかったが、塩地が頑固に反対した。
「いいかげんお疲れのはずですよ。午後は診察があるのですから、今日は帰りましょう」
 そういってわたしをサイドカーに座らせると、どこへもよらずに帰宅した。帰り着いて、サイドカーから立ち上がろうとしたら頭が重くて足がふらついた。塩地がすぐに支えてくれたので転ばずに済んだ。
「バイクをしまってきます。マスターは中でお休みになられては」
 大丈夫よ、なんて言ってはみたものの診療所の扉を開けて待合室に入ったら、なんだか急に眠くなって来た。そういえば朝が早かったし、サイドカーで長い間体がゆすられて、今も何だかくらくらする。
 診察室へ行くと、窓をあけて外の風を入れた。湿っているけれど、淀んだ空気が流されて室内がすっきりする。嗅ぎなれた消毒薬の匂いに、どこかほっとして自分の椅子に腰かけたら瞼が重くなってきた。
 昨日の女性、二十代だったんだ。つぐみさん……とにかく一度会わなきゃ。ぼうっとしてたら、あっという間に産み月になってしまう。
 抗いがたい睡魔に負けそうになる。
「マスター」
 塩地の声がするが、もう返事をするのも億劫だ。塩地はわたしを抱き上げて、私室のベッドへと運んだ。
「午後も臨時休診にしましょう。今日は予約は入っていませんし」
 うん、とうなずくのがやっとだった。
 夏用のタオルケットをふわりと塩地がかけてくれる。眠りに落ちる少し手前だ。
 土井は、感謝しているって言ってくれたけど、わたしは赤ん坊をとりあげるよりも、中絶の仕事の方がはるかに多かった。
 母親にならないことを選んだ女たちの涙や慟哭を何度も何度も見てきた。病床がそんな女たちだけで埋まっていた時もあった。
 やるせなさで胃が痛くなった。煙草の量ばかりが増えていった。父も母もまだ生きていたころだ。二人は中絶ばかりに半ば絶望してストレスをためた。結局それで長生きできなかったと思う。
 医師になる手前で、これからの医師の仕事は看取りですといわれた学生はどうすればいいか、選択を迫られた。
 それでも医師になるか、それとも別の道に進むか。
 ――やあ、今日も減りましたね。
 大学の講義室に徐々に隙間が広がる。教授は、その様子に淋しげに笑っていた。
 ああ、足首が痛い、膝が痛い、腰が痛い、背中が痛い。肩も肘も手首も指も。
 長く使っている体が、もうあちこち悲鳴をあげている。
 若い時には何気にできた走るとか、重たいものを持ち上げるとか、一晩中本を読むとか、そんなことはとっくにできなくなっている。
 地球と一緒に閉じかけの自分の命。とっくに両親の歳も、尊敬していた教授の歳も越してしまった。
 つぐみさんは、命を生むことを望むだろうか。
 そういえば、役所で見せられた農園の構成員の年齢分布一覧、若い年齢層に驚いて見落としそうになったけど。
 男女比が極端だった。
 ……男性が圧倒的に少なかった。
 重かった瞼が急に開いた。
 おかしい、どう考えても不自然だ。わたしはタオルケットを跳ねのけて起き上がった。
「塩地、もう一回バイクを出して。区役所に行くから。確かめたいことがある」
 きしむ体で扉のところまで行くと、塩地が待合室からやって来た。
「バイクは充電しないと、走れません。今日は無理です」
「えーっ……じゃあ、電話……」
 出鼻をくじかれて思わず座り込みそうになる。
「マスター、郵便物というか手紙がポストに」
 塩地が色気のない茶封筒を目の前に差し出した。
「役所からの手紙じゃないの」
 表書きには、小鷹産婦人科医院と一行。裏は、表に比べて字が小さい。腕を伸ばして目をすがめるとようやく見えた。左下に【火村】の文字が。
「塩地、火村って農園でエプロンしていた女史だよね」
「でしょうね」
 二人してうなずく。いつの間に来たのか。わたしたちが区役所にいっている間だろうか。
 封を切ると中には便せんが一枚だけ入っていた。三つ折りを広げると、流れるよう文字が綴られていた。

 ――明日、自由市場に来てください。つぐみに会って欲しいです。
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