第4話 地下牢のバッジョ 西暦525年
文字数 2,181文字
グレートブリテン島 Great Britain Island
スパイサー城地下牢 Spicer Castle dungeon
暗く湿った石造りの地下牢 で、バッジョは辛い嘔気 を堪 えていた。胃が裏返るばかりに激しい嘔吐 を繰り返し、既にこれ以上は吐く物もなく、胃液、胆汁までもを出し尽くした。そのような状態であった。
唇の感覚さえわからない口元とは裏腹に、胃の辺りでは焼けるような熱く重苦しい感触があり、それが時折胃を強く押し上げ、激しい嘔気を繰り返させるのである。
麻痺したバッジョの口からは唾液が垂れ出ていた。
ひんやりとした石畳の床で… バッジョは何故、自分がこのような状況に置かれているのかを思い出そうとしていた。
あの時、西の山にある獣場に向かう国王専用の馬車を追い、急ぎ馬を走らせていた。日が暮れた森を駆け続けた先に、立ち止まる馬車の姿を捉えた。護衛の兵士に守られ進む王専用の馬車が、山裾の谷間に差し掛かった地点で、車輪が壊れ立ち往生をしていたのである。
それを見たバッジョは、瞬時に道を外れ、馬を樹林の中に踏 み入 らせる。草木の陰を進み、国専用馬車との距離を測 り馬を降りた。
鞍 に付けた油壺の栓を抜き、火矢 を取り出す。矢に巻き付けた麻 に油を浸すと、火をつけた。
しかし、その先が思い出せない。
弓を引き絞り、火矢を打ち放つ瞬間から先の記憶が抜け落ちている。
弓を引き絞った途端 、後頭部に激しい痛みを感じた。
その後、何がどうなったのか?
次に気付いた時には、苦い液体を咽 に流し込まれ、カビの臭いが立ち込める石牢に閉じ込められていた。
「カツン。カツン。カツン。カツン」
革 のブーツを履く規則正しい足音が、石造りの牢屋に響き渡る。そしてあとに続く兵士達の足音。
次いで黒さびに覆われた大きな鍵が鍵穴に差し込まれ、重い扉が外から開かれる。
「はっは。好いざまだな!」
石畳の上に横たわるバッジョの前に立ち、薄ら笑いを浮かべるセラヌが声を上げる。
「銀騎士。私の事が分かるか?」
バッジョは反応を示さない。
「お前は耳まで聞こえなくなったのか?」
牢屋に入り込んだ兵士が両脇を抱えバッジョを抱き起こす。
「私の顔を見よ!」
話し掛けても、顔を上げようともしないバッジョの態度に苛立 ったセラヌは、激高 し、乗馬用の鞭でバッジョの左頬を激しく打ち付けた。
「しっかりとしてもらわねば、困る!」
セラヌは鞭を使いバッジョの顔を上げさせる。
バッジョが、ゆっくりとセラヌを見詰めた。
「ああ。この男は知っている。スパイサーの腰巾着 、素性 も怪しいセラヌだ。しかし然程 、気にも留 めずにいた。だがどうであろう? この男の事を、もっと気に掛ける必要があったのではないのか!?」
いまだしっかりとしない意識の中で、バッジョは考えを巡らせる。
「分かるであろう。何度も顔を合わせている。それとも何か? お前のような猪突猛進 の男は、私など目にも入らぬと言うのか? ふふっ。単純な男だ。十年前、城に居たお前はゼルティ王の懐刀 と呼ばれ、城内では実質№2の地位にいた。銀騎士、正義の騎士と呼ばれ、浮かれていたのであろう!? それが今やどうだ。この境遇 はどうしたというのだ? 正義の名のもとに傲慢 で尊大 だったのだよ、お前は!」
セラヌの持つ鞭がしなり、再びバッジョの左頬を打ち付ける。
「だから直ぐに罠にはまる…」
虚 ろではある… それでもバッジョの瞳は、セラヌを捉 えている。
「バッジョ。お前は考えたことがあるのか? 鳥に食われるのを恐れ、草木の陰に身を隠す虫どものことを。彼らの臆病な姿勢が、擬態 を作り出すのだ。姑息 や謙虚 である者の方が、利口に生きて行ける…… いやいや。お前のような奴に、昆虫や植物、自然の有り様を語るのはもったいないと言うもの。忠義と正義に勤 しむのが、お前の生きざまだからな。そんなお前が戦の指揮を執 り、この私に挑んでくる。それが、そもそもの過ちとだとは思わないのか? なあ、そうであろう。神や正義を信じた所で、成功などが訪れる事はない。この世界を見よ!! 神や正義を信じて成功した者が手にした栄光など、ほんの一瞬の煌めきにしか過ぎぬ。決して長くは続かぬもの… それどころか、つかの間の成功者などは皆、愚かにも転落の道を歩いているではないか!? そしてお前はどうなのだ? 王国の№2と言われた後に、何を失った? 王も王妃も王子も、お前が忠誠を誓ったすべてのものは皆、既にこの世にはおるまい。そして親友… 律儀 なお前の臣下 も皆、死に絶えたな。お前の居城はどうした? ふふっ。己自身、今や食い物さえも自由にはなるまい。更にお前の愛馬は、どうなったと思う? ふっ、愚かに何を気遣う? 馬の心配をしている場合か!? お前自身はどうなのだ? 既に最後の希望すら残ってはいまい…」
セラヌは腹を抱えて大笑いをする。
「絶望!! これこそが絶望!! もっとじたばたとせよ! さらなる恐怖に震えよ! 人間が絶望する姿を見るのは、何と心地のよいものか。バッジョ。何か言う事は無いのか? いやいや、これは失礼。お前は、既に口もきけない有り様であった」
セラヌの言う通り、毒で焼かれたバッジョの咽喉 が声を発することはなかった。
「兵士。バッジョを中庭にまで連れて行け!!」
命令するセラヌの声が地下牢に響き渡った。
スパイサー城地下牢 Spicer Castle dungeon
暗く湿った石造りの
唇の感覚さえわからない口元とは裏腹に、胃の辺りでは焼けるような熱く重苦しい感触があり、それが時折胃を強く押し上げ、激しい嘔気を繰り返させるのである。
麻痺したバッジョの口からは唾液が垂れ出ていた。
ひんやりとした石畳の床で… バッジョは何故、自分がこのような状況に置かれているのかを思い出そうとしていた。
あの時、西の山にある獣場に向かう国王専用の馬車を追い、急ぎ馬を走らせていた。日が暮れた森を駆け続けた先に、立ち止まる馬車の姿を捉えた。護衛の兵士に守られ進む王専用の馬車が、山裾の谷間に差し掛かった地点で、車輪が壊れ立ち往生をしていたのである。
それを見たバッジョは、瞬時に道を外れ、馬を樹林の中に
しかし、その先が思い出せない。
弓を引き絞り、火矢を打ち放つ瞬間から先の記憶が抜け落ちている。
弓を引き絞った
その後、何がどうなったのか?
次に気付いた時には、苦い液体を
「カツン。カツン。カツン。カツン」
次いで黒さびに覆われた大きな鍵が鍵穴に差し込まれ、重い扉が外から開かれる。
「はっは。好いざまだな!」
石畳の上に横たわるバッジョの前に立ち、薄ら笑いを浮かべるセラヌが声を上げる。
「銀騎士。私の事が分かるか?」
バッジョは反応を示さない。
「お前は耳まで聞こえなくなったのか?」
牢屋に入り込んだ兵士が両脇を抱えバッジョを抱き起こす。
「私の顔を見よ!」
話し掛けても、顔を上げようともしないバッジョの態度に
「しっかりとしてもらわねば、困る!」
セラヌは鞭を使いバッジョの顔を上げさせる。
バッジョが、ゆっくりとセラヌを見詰めた。
「ああ。この男は知っている。スパイサーの
いまだしっかりとしない意識の中で、バッジョは考えを巡らせる。
「分かるであろう。何度も顔を合わせている。それとも何か? お前のような
セラヌの持つ鞭がしなり、再びバッジョの左頬を打ち付ける。
「だから直ぐに罠にはまる…」
「バッジョ。お前は考えたことがあるのか? 鳥に食われるのを恐れ、草木の陰に身を隠す虫どものことを。彼らの臆病な姿勢が、
セラヌは腹を抱えて大笑いをする。
「絶望!! これこそが絶望!! もっとじたばたとせよ! さらなる恐怖に震えよ! 人間が絶望する姿を見るのは、何と心地のよいものか。バッジョ。何か言う事は無いのか? いやいや、これは失礼。お前は、既に口もきけない有り様であった」
セラヌの言う通り、毒で焼かれたバッジョの
「兵士。バッジョを中庭にまで連れて行け!!」
命令するセラヌの声が地下牢に響き渡った。