第8話

文字数 3,835文字

 今回限りですからね、とスクーターは縄抜けならぬワイヤーロック抜けを果たして、孝之をシートに乗せてくれた。キーを挿してもいないのにエンジンがかかる。
「こうやってたまに、ご主人に内緒で散歩に行くんです」

「行き先の見当はついてんのかよ?」
 後部シートに蜘蛛が這い上がるのを確認するや、アクセルを捻った。シートの上でつるりと滑った蜘蛛が、慌てて孝之の背によじ登る。
「気をつけろい! 巣つくってねぇんだ、巣!」

 スクーターのエンジン音が夜に響く。交差点に行き当たり、孝之はヘルメットのバイザーを上げて首を捻る。

「バイクが自殺しようとしたら、おまえ、どうすると思う?」
「人間の場合はどうなんだ? どうやって自殺する」
「首吊りとか、身投げとか」
「バイクには首がない。身投げはありうる」
「じゃあ海の方か。いや、保険金のことを考えたなら、失踪じゃ駄目なんだ。盗難保障がないんだから、失踪じゃ保険金が降りない。あいつもそれはわかってるはずだ。壊れて発見されないといけない」
「だな。とすると、ガードレールに飛び込むとか、崖から飛び降りるとか……あとは電車と根性勝負とかな」

 孝之はちょっと考えてから、首を振った。

「いや、それはないと思う。あいつ、人に迷惑かけることに凄く過敏なんだ。針路変更にすら気を遣ってるのに、大勢の人が乗ってる電車を止めるとか、そんなことはできない」
「なるべく迷惑かけない死に方を選ぶ、か。そうすっとガードレールを凹ませることすら避けるかもしんねぇな。崖から飛び降りても業者が車体回収に苦労するとか? するってぇと」
「廃車買取業者」
「ああ?」
「事故でスクラップになったバイクを買い取って、部品をリサイクルして儲ける専門業者がある。そこの前で事故れば迷惑にならない。むしろ喜ばれる」
「そこまで気ぃ遣うかよ!」

 スクーターのハンドルを、郊外に通じる道の方へ切った。業者が所有しているスクラップ保管の空き地があるのだ。バイクと一緒に一度だけ前を通ったことがある。
 アクセルを回しこみ車体を加速させ、冷たい夜の中を走った。

「どうしてだろう」
 やりきれなくて、呟いた。
「どうしてこんな馬鹿なことするんだろうあいつ」
「おまえの役に立ちてぇんだよ」

 風の唸りに全身を包まれる。
 ぱたぱたとなびくシャツの裏から蜘蛛の声がした。

「おまえに必要としてもらいてぇんだ。他にどう生きていいかわからねぇのさ。おまえに認めてもらいたいって、それだけを自分の存在価値にしちまったんだ」
「なんでそこまでオレを?」
「親みたいなものだからさ」
「そんなの間違ってるだろ」
「そうさ。間違ってるさいろいろ。でもつい、認められたいって思っちまうんだ。子供なんだよあいつ。子供だからおまえに認められることでしか、自分を確認できてねぇのさ」

 連なった車のライトの光が、次々に視界に飛び込んだ。立ち並んだ信号が一斉に赤を示し始める。
 国道を逸れ、脇に入った。すぐに他に走っている車がなくなる。夜が濃くなった。

 ふと思った。大学を受ける前に、自分は何故、母に逆らって専門学校を受けようとしなかったのだろう。言葉にすれば良かったのに。不満を抑えて、物分り良く分別のある生き方をしてきたのはどうしてだ。もう大人だと認められたかったのか。自信がなかったのか。

「なめてるんだよ」

 自分の頭の中で、どんな筋道を通ってそんな言葉が出てきたのかわからない。
 今度は蜘蛛は言葉を返さなかった。
 構わず、言葉が勝手に盛り上がって溢れた。

「なんのために買ったか? 確かに、自分のために買ったさ。あいつのためじゃない」

 孝之は思う。不満なのはなんなのだろうと。
 何がこんなにやるせないのか。苛立たしくて仕方ないのか。

「でもそれだけじゃないか。それだけのことだろ。自分よりいいバイクが手に入ったら、オレが嬉しいかだって? ふざけんなよ。そうやって顔色窺って遠慮してれば褒められるとでも思ってんのかよ。なめてんだよ。結局あいつ、オレの気持ちをなめてんじゃねぇか」

 視界が滲む。スピードメーターは上がっていく。道は一直線で信号もない。こんな道ならあいつも走れるだろう。

 風が逆走してくる道を切り裂いて孝之は走る。暖かい空気と冷たい空気の層を交互にくぐりぬける。夜の中に自分が一人。自分も風になったように思う。

 道の脇には田圃が広がっている。視界に次々と現れては、すぐに後ろに置き去りになる。
 遠くに一筋の光が見えた。
 バイクのライトだ。
 道路を右から左に横断するように、脇の空き地に向けられている。

 思わず孝之はアクセルを握っていた手を緩めた。伸びたライトの線の元、街灯に照らされてブルーの車体が微かに浮かんで見えた。ライトはためらうように、ちょっとだけ前へ進み、止まった。戻る。進んでは止まって、また戻る。きっと、いつも進んだり戻ったりしてばかりなのだ。いいよ、それで、と孝之は思うのだ。

 ライトの射す道筋の脇、空き地の中には、夜より濃い暗い影が重なっている。横たわったバイクの山。バイクの墓場だ。事故か、古くなって廃車になったのか、無数のバイクがうず高く積み上げられている。巨大なクレーンが闇の中に釣り下がっている。

 ライトの光は、その空き地の奥のブロック塀に、一直線に向けられている。
 のっぺらぼうの石塀の上に、一体何を見ているのだろうか。

 と、バイクが後退した。勢い良く。
 道路の端ぎりぎりまで。
 助走の距離をとったのだ。

 追突して、大破するために。

「おい!」
 孝之は叫んだ。まだ遠い。エンジンの音も聞こえていないのだ。声が聞こえるわけもない。
「やめろ!」

 バイクは気付かない。自分の中の最後のアクセルを開く瞬間に備えて、じっと止まったままでいる。やめろ、そんなアクセルワーク間違いだばかやろう。孝之は精一杯アクセルを捻る。応えてスクーターが加速する。叫びながら、孝之はホーンスイッチに手を伸ばした。気付くか。無理か。頼むよ。気付け――

 ロケットの爆音のような大音量に、危うく孝之が転倒しかけた。

「すみません。実は私、改造車なんです」
「くそ、違法だけどよくやった!」

 道路の上を竜のように伝わった音が、空気を振動させるのが見える。
 気付いてライトが、ぴくっと揺れた。
 おそるおそると、こちらを振り向く。
 上向いたライトと目があって眩しい。

「おーい!」

 孝之は走りながら叫んだ。
 バイクはその場から動かなかった。孝之に気付くと、微かに首を左右に振った。ライトがすうっと地面に落ちた。光が弱々しくなって、暗くなる。

 孝之は口を開きかけたが、言葉を準備していなかった。エンジンの音。風の音。叫ばなければ聞こえない。
 何を叫べばいいのだろうか。孝之は叫んだことなどないのに。
 一瞬考え、また口を開いた。

「走るの、結構、楽しいぜ!」

 俯いていたバイクが、またライトを上げた。


「よう」
 バイクの近くでスクーターを止めると、なんとも間の抜けた挨拶をした。うん、とバイクも間抜けの二乗。

 走りすぎて加熱したスクーターのエンジンを切る。頼りなさげなバイクの車体が、静かにエンジンを回している音が聞こえた。引き篭もりとはいえ、これだけエンジンを回せるのだから心配ない。走れるはずさ。時速200キロくらいで。

「なあ」
「うん」
「ここらへん走ったことなかったけどさ」
「うん」
「他に車いなくて気持ちいいな」
「そう?」
「ああ。こういう道なら、きっと楽しいぜ。スピード出したりしてさ」

 黙っているのがなんとなく嫌で、喋り続ける孝之に、バイクはときどき言葉を挟もうとする。ごめんとか、迷惑をかけてとか、ちゃんと売られるからとか、なんとか。

 孝之はスクーターのホーンスイッチに手をかけた。
 至近距離で思い切り鳴らしてやると、バイクはほとんど仰け反った。

「……タカユキ、それ、まずいよお。警察とか来るよお」
「うん。ほんとまずいなこれは。なんなんだこれ」
「ご主人の嗜好は私にもわかりません。見た目わからない改造するのが好きらしい」
「やっぱオレ、バイク狂いの気持ちってよくわかんないや。走るのは気持ち良かったけどな。こんなホーンのついたバイクにゃ乗れないぜ。ただでさえホーンの音って耳障りだしさ。控えめなくらいでちょうどいい」

 な、と言ってバイクを見やると、バイクはおそるおそるホーンを鳴らしてみせた。気の抜けたプオンという音が響いた。あのうすみません、という感じの、対人恐怖症仕様の特別ホーンだ。

 思わず笑った。素敵な音だと。

 バイクも笑った。エンジンの音がぐるんぐるん高くなった。ウィンカーがかちかち好き勝手明滅した。

「タカユキ」
「今夜はどっか、走りにでも行こうぜ。家飛び出してきて決まり悪いしさ」
「うん!」

 バイクは激しくライトを上下させた。何やら感極まった様子で、ごめんとありがとうと最早よく聞き取れない言葉を繰り返した。

 ぽたぽたと液漏れさせるバイクを見ながら、これはあとで点検に出さないといかんなと思った。
 バイクの涙の成分はよくわからないが、ブレーキオイルだったら大変だ。
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