第1話

文字数 4,997文字

 田漠(たばく)氏。
あの男だけは許せない。あんな男にひっかかってしまった私。本当に、どうかしていた。
 田漠氏は、相変わらず甘い言葉で女性たちをたぶらかしているようだ。忠告したくなるけれど、長い間田漠氏に身も心も操られてしまった私が言ったところで、説得力もないし、負けおしみと思われるだけだろう。
「何えらそうなこと言ってんの?」
 せせら笑われるかもしれない。でも、もう全て遠い過去のこと。

 最初に田漠氏が言い寄ってきたのは、二十歳を少し過ぎた頃。
「成人式も済んだのだから、もうこそこそ隠れなくたっていいだろう」
 田漠氏は、琥珀色の瞳で、私をじっと見る。それまでにも何度か、彼の魅力に逆らえずこっそり会ったことはあった。
「これからは、大人のつきあいをしよう」
 大人として扱われた私は嬉しくなって、田漠氏の口車に乗せられるようにして、つきあい始めてしまった。今思うと、この時点ではっきりと断っておけば良かったのだ。不埒な田漠氏は、私の友達にも同じような誘いをかけたと言う。田漠氏のことを魅力的だと思わなかった友達は、きっぱりとつきあいを拒絶した。むしろ、そういう人の方が多かったかもしれない。
 田漠氏には、大人の香りが満ちあふれていた。胸に顔をうずめると、そのなんとも言えないフレグランスを、深呼吸するほどに味わいたくなったものだ。その肺にめいっぱい香りを充満させると、心から落ちつく。髪の毛から指の先まで、田漠氏の香りに包まれ、私は本当に幸せだったのだけれど、時々友達に、
「あ、田漠氏と会って来たでしょう?」
 と言い当てられてしまった。
「ううん、会ってない」
 後ろめたい気持ちが嘘を生み、思い切り首を横に振って否定するのだけど、誰も信じてはくれない。私が隠れてコソコソ会っていることを、
「隠しても無駄」
 とでも言うように、冷たい視線を投げてくる。
 私だって、何度別れようとしたことか。それなのに三日が限度で、四日目には無理をしてでも会いに行ってしまう。
 会ったとたんに田漠氏は、手を広げやさしく受け入れてくれるのだった。別れると言った時も、
「あなたが、そう言うのなら」
 と少し寂しげな表情を浮かべつつも納得してくれる。それは、こんなふうにすぐに戻ってくることをお見通しだったのかもしれない。そんな余裕が、ますます大人の男を感じさせ、余計に虜になってしまうのだった。そうして釈然としない思いを抱きつつ、またもや田漠氏の腕の中に堕ちていく。
 そんな時、田漠氏の匂いは、いつにも増して切ないほどにほろ苦く、百年ぶりの再会とでも言うように感じて、一人酔いしれてしまうのだった。
 田漠氏は、博愛主義者。男も女も同じように愛してくれる。田漠氏のモテぶりは、尋常ではないから、一人占めしようなどと思うこと自体おこがましかった。もちろん、結婚を考えるなんて、そんなそんな・・・・。それでもずっと会っていたい気持ちは募るばかり。私にも何人もの恋人ができたが、人によって田漠氏の捉え方は、様々。
「たまに会うくらいなら、いいんじゃないの?」
 という寛容なタイプから、
「そんなのとつきあってると、身も心もぼろぼろにされちゃうから、絶対ダメ!」
 と激怒する男まで色々。
「田漠と俺とどっち取る?」
 と迫ってきた彼氏もいた。
 ひた隠しにしているのに、田漠氏の香水の移り香から、ばれてしまったこともある。
 無理もない。大多数の男は、自分以外の、それも相当に大人の男と付き合っている女と、穏やかに逢瀬を重ねられる力量など、持ち合わせてなんかいない。
 私も二十代の後半になり、年齢的にも結婚を考えるようになってきた。もちろん、これを良い機会として、田漠氏と別れることも何度も考えた。今までも、誕生日だの正月だの年月の区切りの時には、よく別れようとしたものだけど、結婚は最大のチャンスだと思った。
 自然な成行きで、その時につきあっていた恋人と、結婚することになったけれど、田漠氏のことは秘密にしていた。つきあい始める時に正直に話して、その場で愛想をつかされたこともあるので、今回はつきあいつつ同時進行で田漠氏とさよならしようと考えていた。甘かった。ずるずると関係を引きずって、この時期の田漠氏はやけに誘惑的で、私が少しでも別れる素振りを見せると余計に迫ってきて、結局は私は負けてしまうのだった。本当に意志が、弱かった。田漠氏も許せないけれど、そんな自分にもほとほと愛想が尽きた。
 友達に相談してみた。
「・・・・それ、依存症の域に入ってない?」
 彼女も昔田漠氏とつきあったことがあるから、その魅力についてはじゅうぶんに知っているけれど、彼氏に強く別れるように言われ、スパッと縁を切ったくち。別れてしまえば、驚くほど未練は感じなかったという。
「今は、ぜーんぜん平気」
 そんなこと、あるのだろうか? 私も、そうなってみたい。田漠氏依存症。響きもかっこ悪いし、まるで病気みたいではないか。 
 こうして私は無事に結婚をしたが、良いのか悪いのか夫は鈍感な男で、私が我慢できずに田漠氏と会っていることに関して、全く気づいていないようだった。通常は、近くの公園やカフェで短いデートを繰り返していたが、どうしても耐えられずに家に招き入れてしまったこともあった。至福の時。全身田漠氏の香りに包まれて、許されるのならずっとこのままでいたいとさえ思った。
 田漠氏が去り、その余韻にひたるまもなく、夫の帰宅時間が迫る。今別れたばかりなのに、また田漠氏に会いたくてたまらなくなる。身もだえするほど、勝手に求める気持ちが燃え上がるが、こういう時は本当に辛かった。頭の中は、田漠氏のことだけでいっぱいになり、何も手につかない。もしかしたら、田漠氏の残り香で、さすがの夫も気づくかもしれない。真冬であっても、全ての窓を開け放ち、香りを逃がす。冷たい空気が私を包み、両腕で自分の身体を抱きしめる。次に田漠氏の懐に入る時をただただ待ち望んでいた。
 幸い夫は、私達の秘密の逢瀬に気づかなかった。しかしながら、なんだか自分が犯罪者のような気までしてきた。
 証拠隠滅など、罪を犯した者がやることではないか。そう思うと罪悪感が私を支配した。
 暫くして私は、妊娠した。懐妊は、結婚と同じくまちがいなく人生の大切な区切りだろう。この時も固く決心したけれど、田漠氏は私を離してはくれなかった。身体が自分のものではないような不思議な感覚。何事もいつもより時間がかかり、一日中気分がすぐれなかったり。そういったイライラした気持ちを、田漠氏はよくわかってくれた。いつもの笑顔で、
「そういう時もあるさ」
 という慰めの言葉を囁き、いつものように温かい胸の中に入れてくれる。ささくれ立っていた私の心は、少しずつ落ちつきを取り戻し、心の底からほっとした。
 田漠氏は、私のお腹が大きくなっても、お構いなしだった。外で会う時も、全く気にしない。私はと言えば、さすがに目立つので頻繁に会うことは控えようと思ったのだが、田漠氏は平気だった。ちょうどスケジュール的に余裕がある時期だったのか、いつもより会う時間を増やしても良いよ、とまで。私は、甘えそうになったけれど、やはり世間の目は相当に気になる。
 公園で会っていても、私達が夫婦でないのがわかるのだろう。子供を遊ばせている母親がチラチラと私達を見て、軽蔑のまなざしを送ってくる。その視線は、痛い。そう、お腹に子供がいるとわかっているのに、田漠氏と会うなんて。そんなことはしてはいけない。それが、どんなにいけないことか、怒りさえこもっている目つきを見れば、じゅうぶんにわかる。その強さから、ひょっとしてこの人は、昔田漠氏に入れこんだ時期があるのかもしれない、と邪推。あれは、嫉妬の目つき? そんなこと、あるわけがない。
 やがて月が満ち、私は女児を出産した。肌寒くなってきた晩秋の頃だった。
 あと二日で退院という時、どうしても田漠氏に会いたくなってしまった。
「母親になったというのに、まだあんな男に固執するの?」
 頭の中で非難の声が聞こえてくる。五十回ほどは、その声に気持ちをそがれ衝動を抑えた。そんな思いが五十回も湧きあがってしまったこともショックだけど、結局その誘惑に負けてしまったことは、痛恨の極み。
 九時消灯の産科病棟。一人暗い廊下を歩いて突き当たりのトイレへ向う。履き慣れないゴム製のサンダルの音がパカパカと響き渡る。その音を誰か、看護士の人とかが聞きつけて出てくるんじゃないか、とビクビクした。トイレの個室に入り、中の小さい窓を開ける。久しぶりの外気。冷たくて一瞬身が縮こまる。遠くで鈴虫のような虫の音が聞こえ、一瞬和みそうになるけれど、これから私はとんでもないことをしでかそうとしていることを思いだす。
 窓の向こうには、愛してやまない田漠氏が。
「久しぶりだ。本当に会いたかった」
 饒舌に語る唇よりも、もっと物言う挑発的な瞳。
 私は、負けてしまう。
 小さな窓から、身体半分乗り出して、田漠氏とハグ。
「私も、会いたかった。でも、ここは危険すぎるわ」
 自分で呼んだのに。そうして、わざわざ来てくれたのに。切ない涙をこらえ、三、四分で別れる。抱きついた時に、田漠氏のいつもの匂いがついてしまわなかったか、個室で念入りにチェックする。でも実は、私の鼻は長年田漠氏の香りに包まれすぎて麻痺しているところがあった。だから、敏感な看護士さんにはばれてしまうかもしれない。そうなったら、どんな言い訳もできない。出産した病院の窓から田漠氏に会うなんて。それは、あまりにも危険だったので、その時一度限りでやめておいた。

 あれから、五年。
 絶対に別れられないと思っていた田漠氏と、とうとう決別できた。信じられないけど、腐れ縁を断つことに成功したのだ。一番の要因は、娘に物心がついて、彼女を連れてまで会いに行くことが難しくなったからだろう。もちろん、最初は会いたくて会いたくてイライラして、娘に八つ当たりしてしまうこともあった。かわいい声で一生懸命話しかけてくるのに、その会話も上の空。早く寝てくれないかな? そうしたら田漠氏に会いに行けるのに。そんなことばかり考えていた。
 けれども娘と公園で遊び、家事もこなした身体は疲れ果て、体力の限界だった。娘を寝かしつけているうちに不覚にも寝てしまうことが度々あった。田漠氏に会いに行くことなど、叶わなかった。そのうちに田漠氏の毒が身体から、心から抜けていった。会いたい! と思わなくなってきた。妙に味覚や嗅覚が研ぎすまされ、飲むもの食べるもの全てがおいしく感じられ、ささいな幸せがあちこちに転がっているのに気づく。小さいけれども、とても大切な幸福。こうして、娘との時間も心から楽しめるようになると彼女もさらにご機嫌になり、私達二人はとても仲の良い母娘になった。
 世の中には、こんなに楽しいことがあったなんて。そう思うと田漠氏に束縛されていた十五年間は、なんて無駄で砂を噛むような日々だったのだろう。心も身体も蝕まれた十五年間を返せ! と叫びたい。どうして私にこんなにまとわりついてきたのか。本当に許しがたい田漠氏。
 その理由を、もう一度だけ会って聞いてみたい気もする。けれど、危険だ。田漠氏はまた言葉巧みに誘惑してくるだろう。風の噂で、前ほどにはモテなくなったらしいから、再会したら私に執着してくるかもしれない。私も、断固として断る自信は、ない。
 いつも私を煙にまき、遊ぶだけ遊んで去って行った人。残された私は、また会ってしまった空しさと、夫を裏切り続ける罪悪感に苛まれ、ガクンと膝をつき、肩を落とす。その繰り返し。そんな日々が漸く終わったのだから、やはりもう二度と会うのはよそう。
 私の頭の中では、田漠氏の姿は煙の向こう。紫煙に包まれ、よく見えない。あんなに芳しかったフレグランスも、今は悪臭としか思えない。町で同じ香りの人とすれちがうと、息を止める。それは、田漠氏を思い出して辛くなるからではなくて、本当に二度と嗅ぎたくはない香りなのである。さよなら、田漠氏。あなたと別れられて、良かった。
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