第6話:アイビーエム調査とソニーパソコン開発

文字数 3,838文字

 10月8日成宮賢が久しぶりに会社で成宮時達の部屋に呼ばれた。成宮時達が、成宮賢に、おまえは、マイコンのマニアだったよなと言われ、はいそうですと答えると遂にソニーでも発売しろと指令が出たんだが、その開発に加わってくれと言われ了解した。その当時、NEC8001の一人勝ちの時代だった。ソニーの社命で日本電気の真似ではなく一歩進んだ、ソニーらしいマイコンを製造せよとの指令が下った。

 当時、小さなで高密度のフロッピーディスクもやっていたので記憶媒体には、3.5インチ・MFDを用しようと考えていた。やがて、1981年となった。NEC8001はグラフィック表示 160 × 100ドット デジタル8色だったが、ソニーのマイコンはグラフィック表示320×200ドットのモードでは16色の表示を可能としたいと考えていた。

 そうして、試行錯誤の日々が続き、成宮賢の会社から帰りが遅くなった。ある夏の日などは、ソニーの研究の連中と激論が始まり、徹夜する日もあったほど熱を帯びた開発の日々だった。成宮賢は、ソニーらしい、あっと言わせる画期的なマイコンを作りたいと言う革新的な気持ちが強く、先輩には、無理しすぎてエラーを起こさないようにと言う保守的な考えの人が多かった。

 そんな時、アイビーエムで新しいマイコンが1981年8月12日に発表されたとニュースが飛び込んできた。すぐ成宮賢と同じ新製品開発エンジニア2人の3人で調査して来いとの指令が下り1981年8月19日、デトロイト経由でフロリダ州ボカラトンに飛んだ。8月21日について、翌日、アイビーエムIBMパーソナルコンピューター5150のパンフレットを入手し、成宮賢が日本語に翻訳した。

 カタログ上の機能・性能においては傑出した所はなく平凡で期待外れだった。IBM5150はマイクロソフトベーシック・アイビーエム、カセットベーシックをROMに搭載しモノクロディスプレイを利用できる標準的なテレビを利用できるCGAビデオカードが選択できた。標準記憶装置はカセットテープでフロッピーディスクはオプションでハードディスクは利用できない。

5つの拡張スロットを装備しアイビーエム純正の最大拡張メモリ容量は256KBで、メイン基板上の64KBと3本の64KBの拡張カードという構成であった。 CPUは4.77 MHzの8088で1978年 初期バージョン。日本電気 ・NEC・ V20と交換することで若干高速化できた。また8087コプロセッサを追加することで計算処理能力を強化できた。

 アイビーエム、最大64KBのRAMをプリインストールした構成で販売した。最終的にはより多くの拡張ボードスロットを搭載し同時にハードディスクを搭載可能な拡張筐体 アイビーエム5161を発売。これを見た成宮賢と仲間達は拍子抜けした。アイビーエム5150で見るべきと所と言えば8087コプロセッサを追加できる事、最大64KBのRAMまで拡張できる事。

 多くの拡張ボードスロットを搭載しハードディスクを搭載可能になること位だった。ただアイビーエムは世界の巨人で、これがオフィス用パーソナルコンピュータのひな形になるかの可能性が強いと、成宮賢と仲間達は考えレポートを書いて帰国。8月26日、ソニー開発部に提出した。その予想通りアイビーエム5150がPC市場の標準の設計仕様となった。

 そしてアイビーエム・PC向けアプリケーションソフトウェアの品揃えが短期間で豊富になりオフィス用パーソナルコンピュータの標準機となっていった。そうしているうちに、1982年を迎えた。1982年になり、新しいソニーマイコンの仕様が固まってきた。16色を表示できるグラフィック機能、漢字メモリの追加で日本語の表示可能、ソニーで開発された3.5インチマイクロフロッピーディスク搭載。

 この3つを実現することが至上命題となった。更にコンパクトで、スマートな外観が求められた。この年は夏休み返上で、デモ用の試作機、政策の日々が続いた。 その後、1982年9月に試作機5台が完成した。そうして、1982年10月にソニーによりまず米国で,16色を表示できるグラフィック機能を特長とし,ビジネス用として導入された。

 その後,1982年12月1日に国内でも発売が開始された。国内向けのシステムでは,漢字メモリの追加により日本語の表示も可能であった。なお同システムはソニーで開発された3.5インチマイクロフロッピーディスクをパソコンとして最初に採用したシステムだった。SMC-70本体はキーボードと一体の制御部と電源部から成っている。

 この本体に周辺装置など各種のオプションを接続することで,ホビー用から,ワープロ,作表システムをはじめとする業務用まで各種のシステムを構築できた。 そのオプションとしては,3.5インチマイクロフロッピーディスクドライブなどの外部記憶装置,プリンタ,表示装置のほかに機能拡張用の6種のプラグイン式の拡張ユニットなどが準備されていた。

 また,ソフトウェアとしては,SMC-70本体に収められているソニー・ベーシックの他にオプションとしてCP/M,ショニー・ディスクがあった。

 その後、当時としては革新的な表現能力を搭載、翌1984年にはカラーパレット機能を標準搭載したSMC-777Cを発売した。1980年代前半の8ビットパソコン普及期において、画像表示はデジタルRGB8色が主流で、それ以外ではせいぜい、アナログ512色パレット中8色表示のものが一部にあった程度だった。

 それに対して当機は、カラーパレットボードを搭載すれば4096色中16色「高解像度では4色」という表現能力を備えており当時としてはビジュアル指向を強く意識したものだ。筐体は本体・キーボード一体型。ホビー向けを意識したためかテンキーはない。他機種であればテンキーがあるべき箇所には3.5インチFDDが鎮座している。

 その手前に配置されたカーソルキーは、4方向のキーを1枚の方形パッドとし四方を押し込む形式にしたジョイパッド型で、やはり、いかにも「ホビー向け」を意識されるデザイン。本体添付のアプリケーション及びマニュアルが破格に豊富で詳細なハードウェアの回路図まで付属していた点も特徴。プログラミング環境としては当時一般的であったベーシックC言語 「777-ベーシック」 。

更にコンピュータ入門教育用として期待されていた高級言語・LOGO 「DRLOGO」 が同梱されていた。他にも簡易な表計算ソフト 「MEMO」 が標準添付されていた。その一方で同梱されていたアセンブラおよびデバッガでは、ソニー独自のZ80用ニーモニックであるANN表記を使用。ベーシック等の高級言語風の表記だった。

 しかしザイログニーモニックに慣れていた既存のZ80プログラマたちの間では、紛らわしい、扱いづらい等の評判でありアプリケーション開発者の参入を遠ざけた要因の一つとも言われている。OSとして供給されていたSONY FILERはCP/MのVer1.4互換のシステムコールを持ち、ホビーパソコンにCP/Mの概念を持ち込んだ点でも特徴的。

CP/MVer2.2はスクリーンエディタと同梱の安価なパッケージで供給され、容易にCP/Mを使用することができた「CP/Mのみの販売もあったが、高価であった」。これに関連してCP/Mの開発者でありデジタルリサーチの社長でもあったゲイリー・キルドールをして「最高のCP/Mマシン」と言わしめたという逸話も残っている。

 ただし、製品に同梱されたSONY FILER及びDR LOGO、アセンブラ、デバッガ等は、デジタルリサーチ自らによる開発であるため、この賞賛もやや手前味噌な感は否めない。なおSONY FILERのシステムコールはCP/Mと一部異なっておりソフト互換性高くなく前述の開発言語を使用するにはCP/Mを別途購入する必要が有った。

 市販アプリケーションとしては海外で絶大な人気を誇ったブローダーバンドのロードランナーやチョップリフター、A.E.等のアップル II市場のゲームを移植するなど国内のユーザーにその高性能と共に異文化の香りを見せつける形で発売された。CP/M環境下のソフトウェアとしてFORTRAN、COBOL、C、Pascal、APL、Forth、Prolog、LISPがソニー扱いで発売された。

そして幅広いプログラミング言語学習用のパソコンとしての活用も検討されていたものと思われる。またこの時期に国内外で隆盛していたテクノミュージックブームを意識して、原始的ではあったが内蔵PSG音源を使用したDTMソフトウェア「カミヤスタジオのラッサピアター」をいち早く同梱していた。発売元が家電・AV機器メーカーで一般家庭向け製品と同種の販売戦略を展開。

 当時人気絶頂にあったアイドルの松田聖子をイメージキャラクターに採用し、「人々のHitbit」というCMキャッチと共にパソコンに関心の無い層へのアピールを盛んに行った。当時としては革新的な表現能力を搭載、翌1984年にはカラーパレット機能を標準搭載したSMC-777Cを発売。しかし8ビット御三家が覇権を争う市場を切り崩せずに姿を消していった。
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