フルムーン・キャロル ~ifの隣人~
文字数 1,559文字
夜野は、手に持った旅行ガイドブックから目を上げた。目の前のドリンクホルダーにはペットボトルのお茶が刺さっている。手に持つと、既にぬるくなっているのがわかったが、構わず一口飲む。眼鏡をはずして目頭を揉んだ。目が痛い。
隣の席に座る妻の光子に視線を移すと、窓の外を眺めていた。
勤続三十年の記念休暇に土日を合わせて五日間。
その特別な休日を使って、妻の光子と二人で旅行に出た。
JRの「フルムーン夫婦グリーンパス」。5日間JRの新幹線を含む特急、急行、快速、普通列車のグリーン車、B寝台車、BRT(バス高速輸送システム)およびJR西日本宮島フェリー乗り放題。切符代は二人で8万4330円。
宿泊費は別なので割高ではあるが、事前に何もかも決められたツアーではなく、二人で気ままにふらふらのんびりという旅行を、夜野は一度やってみたかったのだ。
一日目の今日は、北陸新幹線で金沢に向かい、兼六園と金沢市内を見てまわった。宿泊は、さらに先の片山津温泉に決めてある。
金沢でゆっくり遊んでいたので、窓の外はもう暗くほとんど何も見えないのだが、それでも光子が何かを熱心に見ているように見えて、「何を見ているの?」と声をかける。
くるりと振り返ったその顔を見て、夜野はぎょっとした。それは、妻ではなかった。いや、よく見ると妻に似ている――が、その顔は
「あなた……悪いんだけど、やっぱり私、明日の夜までに一旦会社に戻らないと」
「え?」
何を言っているのだ? 夜野は混乱した。
妻の光子は専業主婦で、行くべき会社などない。
しかし、そんな夜野に構わず、光子は続ける。
「せっかく誘ってくれたのにごめんね。……旅行のこと、裕子に言ったら、『別れた妻をわざわざ誘ってくれるなんて、いい旦那――じゃなかった
何を言ってるんだ? 俺とお前は別れてなどいないだろう? 今朝だって一緒に家を出て、さっきまで兼六園を見ていただろう?
そう言いたいが、驚きと戸惑いで声が出ない。
「あの時ね、本当に別れるつもりなんてなかったのよ。ただ、私は働くっていうか、仕事を通じて自分の居場所が欲しかったの」
夜野は思い出した。
あれは、結婚して八、九年経った頃だろうか。子供も小学校に入学して落ち着いたので、また働きたいと妻が言い出したのだ。あの時は、まだ小さい子供を一人で家に置いておくことが教育上良いことと思えず、強硬に反対した。せめて高校生になるまで待て、と。
しかし、その頃にはブランクが空きすぎて人材市場では使い物にならなくなるだろうと妻は粘った。
が、結局は妻が折れたのだ。いや、折れた
――俺が間違っていたのか?
そう思ったとき、肩を乱暴に揺すられて、目が覚めた。
「いつまで寝ているのよ! 次で降りなくちゃ!」
光子の声に、現実に引き戻された。
――夢か。
まじまじと妻の顔を見る。その顔は、夜野が知っている、20年以上連れ添った妻の顔だった。
「寝ぼけてないで、荷物まとめないと、降りそびれちゃうわよ」
「ああ……ごめん」
妻の方はというと、車内で食べたものや飲み終わったペットボトルなどを空袋にまとめて、コートに袖を通して準備万端だ。
夜野も急いでパンフレットの類を鞄のポケットにねじ込み、コートを羽織る。
列車が停まると同時に網棚の上の鞄を下ろして、光子と共に下車する。
ホームを歩きながら、夜野は出発する列車の車窓から目が離せなかった。そこに、先ほどの
――彼女は俺よりも仕事を選んで、幸せだったのだろうか。
可能性の妻の身を案じる夜野の頭上で、満月は明るく輝いていた。
(終)
隣の席に座る妻の光子に視線を移すと、窓の外を眺めていた。
勤続三十年の記念休暇に土日を合わせて五日間。
その特別な休日を使って、妻の光子と二人で旅行に出た。
JRの「フルムーン夫婦グリーンパス」。5日間JRの新幹線を含む特急、急行、快速、普通列車のグリーン車、B寝台車、BRT(バス高速輸送システム)およびJR西日本宮島フェリー乗り放題。切符代は二人で8万4330円。
宿泊費は別なので割高ではあるが、事前に何もかも決められたツアーではなく、二人で気ままにふらふらのんびりという旅行を、夜野は一度やってみたかったのだ。
一日目の今日は、北陸新幹線で金沢に向かい、兼六園と金沢市内を見てまわった。宿泊は、さらに先の片山津温泉に決めてある。
金沢でゆっくり遊んでいたので、窓の外はもう暗くほとんど何も見えないのだが、それでも光子が何かを熱心に見ているように見えて、「何を見ているの?」と声をかける。
くるりと振り返ったその顔を見て、夜野はぎょっとした。それは、妻ではなかった。いや、よく見ると妻に似ている――が、その顔は
夜野が知っている妻
の顔ではなかった。「あなた……悪いんだけど、やっぱり私、明日の夜までに一旦会社に戻らないと」
「え?」
何を言っているのだ? 夜野は混乱した。
妻の光子は専業主婦で、行くべき会社などない。
しかし、そんな夜野に構わず、光子は続ける。
「せっかく誘ってくれたのにごめんね。……旅行のこと、裕子に言ったら、『別れた妻をわざわざ誘ってくれるなんて、いい旦那――じゃなかった
もと
旦那か――じゃないの。いい人なんだから、なんだったらヨリを戻したら?』なんて言われたのよ」何を言ってるんだ? 俺とお前は別れてなどいないだろう? 今朝だって一緒に家を出て、さっきまで兼六園を見ていただろう?
そう言いたいが、驚きと戸惑いで声が出ない。
「あの時ね、本当に別れるつもりなんてなかったのよ。ただ、私は働くっていうか、仕事を通じて自分の居場所が欲しかったの」
夜野は思い出した。
あれは、結婚して八、九年経った頃だろうか。子供も小学校に入学して落ち着いたので、また働きたいと妻が言い出したのだ。あの時は、まだ小さい子供を一人で家に置いておくことが教育上良いことと思えず、強硬に反対した。せめて高校生になるまで待て、と。
しかし、その頃にはブランクが空きすぎて人材市場では使い物にならなくなるだろうと妻は粘った。
が、結局は妻が折れたのだ。いや、折れた
はずだった
。――俺が間違っていたのか?
そう思ったとき、肩を乱暴に揺すられて、目が覚めた。
「いつまで寝ているのよ! 次で降りなくちゃ!」
光子の声に、現実に引き戻された。
――夢か。
まじまじと妻の顔を見る。その顔は、夜野が知っている、20年以上連れ添った妻の顔だった。
「寝ぼけてないで、荷物まとめないと、降りそびれちゃうわよ」
「ああ……ごめん」
妻の方はというと、車内で食べたものや飲み終わったペットボトルなどを空袋にまとめて、コートに袖を通して準備万端だ。
夜野も急いでパンフレットの類を鞄のポケットにねじ込み、コートを羽織る。
列車が停まると同時に網棚の上の鞄を下ろして、光子と共に下車する。
ホームを歩きながら、夜野は出発する列車の車窓から目が離せなかった。そこに、先ほどの
別れた妻
がいるような気がして。――彼女は俺よりも仕事を選んで、幸せだったのだろうか。
可能性の妻の身を案じる夜野の頭上で、満月は明るく輝いていた。
(終)