関係者の証言(2)

文字数 13,350文字

 翌朝、人並みに押し出されて新橋駅へ降り立った須間男は、ぼーっと空を見上げた。昨日までの晴天はどこかへ消えてしまい、分厚い雲が空を覆っていた。天気予報もチャンネルによってまちまち、降るか降らないかはっきりしない。そして湿度だけはやたらと高い、嫌な朝だった。
 曇天の下を須間男は歩く。足取りは今までよりも重い。二日酔いになるほど飲んではいないが頭が重い。いつ眠ったのかも覚えていない。眠りが浅いような気がする。家を出るのが億劫だったが、取材の予定がある以上、休んで迷惑をかけるわけにも行かない。
 ずっと考え事をしていたせいだろう。結局彼が会社に着いたのは、いつもよりやや早い時間になってしまった。彼はいつものように恐る恐る扉を開けるが、喉を刺す副流煙が襲ってくることはなかった。不思議に思い、彼は慎重に社内に足を踏み入れた。
「社長は今日、具合が悪いので休むそうです」
 編集室から千美が現れ、事務的な口調で須間男に告げた。
 恐らく二日酔いになったのだろうと須間男は思った。ビールとウーロンハイを水のように飲んでいたのだから、翌朝に響かないわけがない。須間男が帰ってからも、社長はひとりで飲み続けていた可能性も高い。それに……。
 ばつが悪かったのだろう。
 ばつが悪いのは、須間男も同じだった。
 ──あの人、いつからあんな感じなんですか?
 昨晩、自分が口にした言葉が、今になって須間男の心をチクチクと刺す。
「麻美奏音が最後に所属していた事務所の社長、相(そう)馬(ま)めぐみの連絡先と、取材先になる彼女の事務所の住所、取材時間については、社長からメールが届きました。あと十五分くらいしたら出ましょう。よろしくお願いします」
 一方の千美は相変わらず事務的な口調だった。まるでタイムキーパーだ。
「あの……鶴間さん」
「はい?」
「この仕事、好きですか?」
 何でこんな質問をしてしまったのだろうと、須間男は言ってから後悔した。千美はわずかに須間男から視線をそらした。しばしの沈黙が怖い。
「……嫌いではありません」
 素っ気なく、千美が答える。
 そして再び訪れる沈黙。
「何故そんな質問を?」とか「鈴木さんは?」とか、そういう質問返しが来るのではないかと須間男は思っていたのだが、予想は完全に外れた。「ですよねー」とか「僕もです」などといった軽口を叩ける性格でもなければ雰囲気でもない。
 とにかく気まずい。
 須間男は黙って壁掛け時計の秒針を見つめた。出発までの十五分という中途半端に長い時間が恨めしかった。

 桜新町(さくらしんまち)駅から徒歩で五分も歩くと、同じ作りの二階建て分譲住宅が建ち並ぶ一角に辿り着く。そのなかのひとつが、「Mプロダクション」社長、相馬(そうま)めぐみの住宅兼事務所だった。
「Mっていうのはめぐみのエムから取ったの」
 誰も尋ねてもいないのに、名刺交換時に相馬めぐみは事務所名の由来を説明し始めた。
 年齢は四十代後半くらいだろうか。服装は明るめでやや派手。ピアノ発表会や入学式などで見かけるお母様方とそう大差はない。フォーマルと言えなくもないし、カジュアルとも言えなくもない。襟元を含めて曲線の多いデザインだ。白いチューリップを逆さにしたようなスカートは、流石に膝を隠す長さになっている。
 終始にこやかな営業スマイルを浮かべているが、自己主張の強いつり上がった眉毛が印象的だ。何か動作をするたびに、栗色のナチュラルボブが楽しげに跳ねる。
 応接室を兼ねたリビングを含め、室内の雰囲気はテレビで見るような上流家庭の室内とさほど変わりがない。天井には間接照明が下がり、窓際には観葉植物が並ぶ。隣室には譜面台とグランドピアノがある。レッスンもここでやっているのだろう。
 壁面に設置された飾り棚には、大小いくつもの写真立てが並んでいた。いずれも、教え子と思われる子供たちとめぐみを捉えた写真だった。ひときわ大きいフレームの中には、笑顔の麻美奏音とのツーショット写真が収められていた。奏音の個人ブログで見た写真よりもずいぶん若く見えたが、それよりも須間男は、隣にある伏せられたフレームの方が気になった。かといって、勝手に見る訳にもいかない。
「鶴間さんに鈴木さんね。お暑い中、ご足労をおかけしまして。どうぞおかけください」
 促されるがままにソファに腰掛けたふたりの前に、めぐみは甘い香りが漂うティーカップを差し出した。
「この香り……苺ですか?」
「ワイルドストロベリー、野いちごの紅茶なの。暑い日には熱いものを飲んだ方が、体にはいいのよ。それに、甘いものは頭の働きを活発にしますからね。さあ、どうぞ」
 須間男はぺこりと頭を下げ、ティーカップを口に運んだ。その先端が唇に触れた瞬間、予想以上の熱さに思わず声が漏れる。隣を見ると、千美は涼しげな顔で野いちご茶を飲んでいた。
「こちらのザッハトルテもどうぞ。既製品で申し訳ないけど」
 めぐみは皿の上で黒く輝く物体を指し示した。お茶請け用の一口サイズに作られたザッハトルテはほんのり苦く、どっぷり甘かった。どうやらめぐみはかなりの甘党らしい。須間男はスパークリングウォーターが飲みたくなったが、そんな贅沢は言えない。
「それで、お二人もやっぱりナンバー4の呪いの件で?」
 ストレートな問いかけに、須間男は口直しに飲みかけていた野いちご茶を吹き出しそうになった。
「相馬さんもご覧になったんですか、あれ?」
 あれというのは当然、ネット上で広まっている様々な噂のことだ。
「奏音ちゃんのことは、今でもずっと気にしているんですよ。何事もなければ、きっとテレビドラマや舞台にも出れたでしょうし、声も可愛いですから、今なら声優さんという道もあるでしょうね。ふふ」
 そこまで話し終えると、めぐみは笑った。
「わたくし、全然彼女のことを諦めていないんです。ですから、変なゴシップ誌やネットニュースの記者を名乗る方々は、全部断ってきたんですの。でも、あなた方は小埜沢さんの紹介ですし」
 どうやら、社長の手回しは小埜沢を介してのものだったようだ。企業秘密の正体は小埜沢のコネクションだったという訳だ。
「それに小埜沢さんの話ですと、あなた方は奏音ちゃんよりもあの男のことを追ってらっしゃるとか」
「ご存じなんですか、寄藤のことを?」
「ご存じも何も……奏音ちゃんがうちを離れた原因も、これまで事務所を転々としてきたのも、全部あの男のせいなんです」
 めぐみのつり上がった眉が更につり上がり、眉間に深いしわが刻まれる。
「こちらの事務所以外は連絡がつかなかったので、ピクルス時代からこちらまでの間に何があったのか、私たちは全く知らないんです」
「わたくしもそうですが、殆どが個人事務所でしょう。みなさん夢があって事務所を始めたんだと思います。わたくしたちの役目は、レッスンで基本を学んだ子たちを、より大きな事務所へ送り出すことですから」
「先を見据えてらっしゃるんですね」
「わたくしたちのような個人事務所が出来ることは限られていますから。事務所の限界点を彼女たちの限界点にしないよう、みなさん頑張ってきたんです。わたくしの前に奏音ちゃんをお預かりしていた方は、昔からの……恥ずかしながら、わたくし自身が芸能事務所でデビューを目指していた頃からのお友達でした。ですが彼女も、最終的には事務所を畳んで普通の主婦に戻りました。奏音ちゃんを含めた子たちをみんな、わたくしが彼女から引き継ぐと言ったとき、彼女は反対しました。奏音ちゃんは悪くない。だけど、みんなあの男に潰されてしまう、と」
 ガラステーブル越しに、血管が浮き出るほどに強く握りしめためぐみの拳が見えた。
「具体的に、何があったんですか?」
「最初、あの男はファンとしてライブに来ました。ライブと言っても小さなスペースを借りての発表会みたいなものです。十歳にも満たない子が歌手になりたくて、がんばって練習した歌を披露したり、それは微笑ましいものでした。ですが、あの男はそんな子たちに業界人みたいに説教を始めるようになりました。声が小さい、音程が取れていない、笑顔がない、この業界でやっていく気があるのか、って……。彼女たちに、確かに至らないところがあったかもしれませんが、罵倒されるほどの欠点ではありません。むしろ愛嬌になる部分でもあります。なのに、あんな責め立てるような言い方で」
 めぐみの話は昨日、カワが話していた「教育」そのものだった。寄藤がどんな口調で彼女らを責め立てたのか、須間男には容易に想像がついた。久千木が送ってきた映像のような暴言をそのまま、幼い子たちにぶつけていたのだとしたら。
「そのたびに、奏音ちゃんが引き合いに出されました。彼女を見習え、お前たちにはないものを」
「あ、あのっ、それ以上は……お辛いでしょう」
 須間男は思わずめぐみの言葉を遮った。これ以上は傷口を抉るだけだ。
「すいません……」
 めぐみはぼろぼろと涙をこぼした。
「あの男の暴挙を何度も止めたのですが、全く言うことを聞かなくて。他のファンの方々も一緒になって止めてくれていたのですが、みなさん徐々にライブに来て頂けなくなりまして……いつの間にか、あの男と同種の人ばかりが集まるようになっていました。そんな状況で子供たちが耐えられるわけがありませんよね。親御さんからも叱られましたし、みんな、次々と辞めていきました。中には『せんせい、ごめんね』っていう子もいて……。奏音ちゃんもずっと自分を責め続けて、子供たちにも謝り続けて。ライブが出来るような人数ももう残っていませんでしたし、ここで、彼女のレッスンを続けていたんですが……」
「ここにも来たんですね?」
 須間男の問いに、めぐみは黙って頷いた。
「窓の外から電信柱が見えるでしょう? あそこにもたれかかって、望遠レンズをこちらに向けて……。警察に連絡して対処して頂いたのですが、巡回をこまめにして頂くのが精一杯で。でもあの男は、巡回の来ない時間帯に現れるようになりました。巡回時間はいつも同じではないのに……」
 無線の傍受でもしていたのか、巡回パターンを把握したのか。どちらにしても常軌を逸している。
「ある日、彼女から電話が来ました。『あいつが家の前にいる』って……。それっきり、彼女は家に閉じこもってしまって。でも」
 めぐみが唐突に顔を上げ、須間男を見つめた。
「あなた方があの男をどうにかしてくださるんですよね? あの男の罪を暴いて、全てを告発してくださるんですよね?」
 めぐみの問いかけに須間男は戸惑った。確かに寄藤に対する義憤はある。だが、自分たちはしがない映像製作会社の人間だ。しかも「嘘」を売り物にしている。仮に千美が今回の出来事を加工せずに世に送り出したとしても、真実と捉える者は殆どいないだろう。
「……何処までお力になれるかわかりませんが……」
 それでも須間男は、力になりたいと思った。千美は何も言わず、テーブルの上に置いてあるカメラの液晶画面を見つめていた。
「お願いします! お願いします!」
 めぐみは立ち上がり、須間男と千美の手を交互に握る。その力は予想以上に強かった。
「小埜沢さんを信頼して、本当に良かったですわ。あなた方のような方がいらっしゃるなんて!」
「あの……小埜沢さんとはどういったご関係で?」
「若い頃、小埜沢さんのお父様が監督なさる映画のオーディションを受けました。がちがちに緊張してたんですけど、彼がわたくしの緊張を解してくださったの。そのおかげで合格できまして。名前もない役でしたけど、最初で最後の銀幕のお仕事は本当に素敵な思い出です」
 めぐみの視線は須間男から離れ、宙を漂っている。放置された須間男はというと、めぐみの薔薇色の回想よりも、話の内容が気になった。小埜沢の父親が映画監督をしていたというのは初耳だった。小埜沢本人からも、社長からも聞いたことがない。以前、映像について話をした時に流れで出てきても不思議ではなかった。身内を自慢するようなことを控えたのだろうか。それとも、何か別の理由でもあるのだろうか。
「監督のご葬儀の際に再会致しまして。その時に小埜沢さんは映像ディレクター、私は事務所を立ち上げたばかりでしたので、相談に乗って頂いたんです。それが縁で、今でも懇意にさせて頂いています。ですので、あの方が推薦するあなた方なら、間違いないと思い、取材を受けることにしたのです」
 小埜沢を褒め称えるめぐみは、まるで小埜沢を信仰の対象にしているかのようだ。
「もちろん、あなた方だけに全てを押しつけようなんて思ってはいません。わたくしも全面的にご協力させて頂きます。まずは、こちらをお預けします」
 そう言ってめぐみが本棚から何かを取り出し、テーブルの上に置いた。
「……VHSテープですか」
「あの男がこの家の前で奏音ちゃんを待っている様子を録画したものです。当時、警察にも提出したのですが、念のため、マスターも残しておいた方がいいかと思いまして」
 ……映像媒体が増えた。その事実に、須間男は怖気を覚えた。
 もしこの映像にも、何かが映っていたとしたら……。
 いや、それはあくまでもそういう筋書き(・・・)だ。恐怖と謎を加速させるために仕込むものだ。つまりは嘘だ。つくりごとだ。目の前で起きていることは現実だ。嘘と現実を間違えるな。これはただの善意で提供された、いわば手配写真のようなもので、禍々しいものなんかじゃない……!
 自分に言い聞かせながら、須間男はテープを受け取った。
「事務所の機材を使って、詳細を確認させて頂きます」
 須間男よりも早く、千美が答えた。
「それと、奏音さんがピクルスのメンバーとして所属していた事務所や関係者について、ご存じありませんか?」
「それでしたら、本人に尋ねてみては如何でしょうか?」
 めぐみがふたりに微笑みかける。
「いえ、こちらでも調べたんですが、関係者を辿れなくてですね……」
「そうでしたか。ちょうど良かったわ。差し出がましいようですが、わたくしの方でお膳立てさせて頂きました」
「お膳立て……ですか?」
「ええ。お昼頃には奏音ちゃんがここに来るわ。それに、奏音ちゃんが以前所属していた事務所で働いていた子も、奏音ちゃんと一緒に来ることになっているの」
「以前所属していた事務所の子?」
「ええ。 ピクルスのヘアメイクを担当していた子らしいの」
「ほ、本当ですか?」
 須間男はつい、大きな声で聞き返してしまった。奏音が来ると言うことだけでも充分に驚くべきことだが、更にピクルスの関係者まで見つけ、取材のために呼んでくれるとは。
「ど、どうやって見つけたんですか?」
「奏音ちゃんにとってはお姉さんみたいな存在らしくて、あんなことがあってからもずっと親しくして下さっていたそうよ。それで、奏音ちゃんがあなた方の取材を受けることを聞いて、一緒について来て下さるんだとか」
「……彼女たちは今回のことを、どう思ってるんですか?」
 ネット上に書かれた心ない噂の数々。ふたりはその矢面にいる。もし彼女たちがそれらの書き込みを見ていながらも、取材を受ける決断をしたなら、その理由を須間男は知りたかった。
「それは本人に聞いてあげてください。おふたりとも、苦手なものや食べられないものはないかしら?」
 予想外の質問に面食らいながら、須間男と千美は頷いた。
「それじゃ、お昼の支度をしてきますので、ちょっと待っていてくださいね」
 そう言ってめぐみは、メロディをくちずさみながら台所へと歩いて行った。

 湯気を立てている高菜チャーハンとスープが並ぶテーブルを挟んで、須間男の正面には麻美奏音が、千美の正面にはヘアメイク担当の加藤あさ美が座っている。
 長い黒髪をうなじ近辺でふたつに束ねた変則ツインテール、大きめのTシャツに七分丈のジーンズと、ラフながらも可愛らしさを演出している奏音に対し、本職であるはずのあさ美は伸び始めてまとまりが悪くなり始めたシャギー、白地に青と赤のチェックが入った半袖シャツ、部屋着のように年季が入って色あせたブラウンのパンツと、あまり華がない。
 クオーターのような整った顔立ちの奏音に、千美よりも化粧っ気がなく薄い印象のあさ美。自分のルックスを考えれば言える立場ではないが、残酷な対比だと須間男は思った。
「あの……どこかでお会いしましたか(・・・・・・・・・・・・)?」
 あさ美はおどおどとした口調で千美に問いかけた。
「……いえ……」
 少し思案した末、千美は答える。
「そうです、か……」
 あさ美はどこか納得しきれていない様子だった。
「そんなことよりも」
 奏音があさ美の肩をぽんと叩く。呼びかけた声は、めぐみが声優転向を考えるのも頷ける可愛らしいものだった。しかし先程のめぐみの話とは真逆で、主導権がどちらにあるのかは明らかだった。
「先生のお料理が冷めちゃいます」
 奏音はめぐみの方を見てにっこりと微笑む。めぐみは今でも奏音が自分のことを「先生」と呼んでくれたことがよほど嬉しかったらしく、目にうっすらと涙をためていた。
「そ、そうね、みんなで食べながらお話ししましょう」
「レッスン前に体力つけて、全部を消費するつもりで、ですよね?」
「そうそう。奏音ちゃん、よく覚えてるわね。さあ、食べましょう」
 めぐみ自らが先鞭をつけると、他の全員もそれに従った。チャーハンは米がぱらぱらで香ばしく、程よく火が通った高菜の塩気と良く合う。スープも既製品のものと違い、澄んだ黄金色で、濃厚でありながらスッキリした後味だ。須間男にとっては昨晩に続いて二連続の中華料理になるのだが、驚くほどすんなりと食べることが出来た。
 極上の料理を堪能しながら、須間男は奏音の方を見た。奏音はめぐみと談笑しながら料理を少しずつ食べている。その様子はとても明るく、ナンバー4の呪いに書かれていたような影を微塵も感じさせない。そして彼女は、とても強く見えた。大きな瞳に宿る光がそう感じさせるのか、それとも、これがアイドルの持つ力なのだろうか。
 更新の止まったブログに記載されているプロフィールが正しいなら、奏音は現在二十四歳ということになるが、実年齢よりだいぶ幼く見える。一方のあさ美は恐らく須間男と同世代だろう。しかしその顔には、実年齢以上の苦労が大きな影を落とし、生気が足りない印象だ。チャーハンの減りも遅く、恐らく完食は無理だろう。
 めぐみと奏音の会話に須間男が相づちを打っているうちに、食事の時間は終わった。須間男の予想通り、あさ美の皿にはチャーハンが半分以上残っていた。
「おにぎりにして、帰りにお渡ししますね」
 めぐみはあさ美を気遣いながら、そそくさと皿を片付ける。奏音も彼女の後に続いたので、須間男も慌てて立ち上がったが、ゆっくりしててくださいねと、めぐみに制された。
 台所からもふたりの楽しそうな声が漏れてくる。辛い空白の時間を埋めるには、まだまだ喋りたりないのだろう。一方であさ美はその輪に入ろうとしない。奏音はあさ美のことを姉のように慕っているとめぐみは言っていたが、どこか距離がある。
 いや……怯えているのか。
 あさ美は俯いたままだ。須間男は気の利いた話題を振ることが出来ない。千美にそれを期待するのは奇跡を求めるようなものだ。師弟の会話が途切れない台所とは違い、気まずい沈黙が続く。これまでも嫌々ながら取材者として話を振ったりしてきた須間男だったが、あさ美に対してはどうしても踏み切れなかった。
 あさ美は何か、思い詰めているようだった。
「あの……」
「お待たせしました」
 ようやくあさ美が何かを言いかけたとき、めぐみたちが戻ってきた。
「そんなに緊張なさらなくても。そうそう、あさ美ちゃん、あれはもってきてくださったかしら?」
 めぐみの問いかけに、あさ美はうなずいた。そして膝の上に載せていたトートバッグから何かを取り出すと、須間男に差し出した。
 それはいくつかのファイルだった。一番上に乗っているファイルの最初のページには、『奏音ちゃん聖誕祭! ドッキドキのバースデイライブ!』と書かれている。内容は台本のようになっていて、ざっくりとした進行とライブのセットリストが書かれていた。
次のページにはキャスト一覧があったが、その中にナンバー4の名はなかった。須間男は他のファイルにも目を通したが、結果は同じだった。
「ピクルスが結成されたのはいつですか?」
「二〇〇七年です」
 奏音が答える。
「ここにあるファイルはみな、二〇〇八年の四月以降のイベントで使われたもののようですが……」
「ナンバー4……彼女が在籍していた頃の資料は、みな処分してしまったんです。あさ美さんならもしかしてと思ったんですが、やっぱり……」
 あさ美は黙ってうなずく。
「僕たちはネットの噂しか知りません。ですから、実際に何があったのか、話せる範囲で構いませんのでお教え頂ければ……」
「全て話します。そのつもりで来ました」
 答えると、奏音は須間男をじっと見つめた。須間男は思わず目を伏せそうになったが、奏音がかなりの覚悟を決めていることを強く感じて、辛うじて踏みとどまった。
「聞かれる前に話してしまいます。いじめはありました」
 一番聞かれたくないであろうことを、当事者である奏音が認めた。あさ美は黙って俯き、めぐみは悲しそうな顔で奏音を見つめた。驚きに固まっている須間男を見つめたまま、奏音は更に話を続けた。
「私たちは事務所にそれぞれの理由と目標を持って集まり、そしてピクルスが結成されました。ソロやユニットなんかもあったんですが、大手アイドルグループがやっているようなのではなくて、チームワークと個性を磨きながら、楽しく活動していこうっていうことだったと思います」
 奏音の言葉に、めぐみはうんうんとうなずく。
「それが、寄藤が来てから全て変わってしまいました」
 執拗なダメ出しと差別を行い、不要な競争を煽りピクルスを掌握していく様を、須間男は容易に想像できた。
「でも、これは言い訳です。寄藤が怖くて、私たちは彼女より自分を選んだ。そんなときに、あの話が舞い込んだんです」
「地方局の企画だという噂でしたが……」
「いえ、正確にはオカルト雑誌の付録DVDの企画です」
 レンタルDVDで人気を博したフェイクドキュメンタリーDVDの影響を受け、中小の雑誌社がこぞって夏季限定のオカルト雑誌を発売した時期があった。書籍の内容は二番煎じのものが多かったが、付録のDVDは玉石混淆で、一部のオカルトマニアに受けた。
 特に多かったのが地下アイドルを心霊スポットに送り込むという企画で、本物の映像が取れるかどうかよりも、アイドルたちのキャラが立っていればいるほど、リアクションが良ければ良いほど受けた。中にはセル/レンタルDVD並のクオリティを誇るフェイクドキュメンタリー作品もあり、ブームは隆盛を極めた。
 そうしたDVDに地下アイドルが起用されるのは、そのキャラが濃いという理由以外に、予算の都合という側面もあった。とはいえ、ファンからの直接収益くらいしか収入のない事務所にとっては、大きな収入だったことは間違いない。
 出版数の限られる読み捨ての雑誌、特にオカルトというコアな層を狙ったものでは、六年も経過した現在の残存数はたかがしれている。既に雑誌ごとDVDを捨てている人が噂を聞き、映像を見た覚えはあるけどソースが何だったかを覚えていないということも充分にあり得る。DVDの存在に思い至らなければ、ネットかテレビかと思い込んでもおかしくはない。事実というのは案外あっさりねじ曲がってしまうものだ。
 しかも動画サイトに掲載されていたあの映像は、どう見てもバラエティ番組の映像にしか見えない。
「それが動画サイトにアップされていた、例の映像ですか?」
「あれは映像の一部です。廃墟を尋ねてからメンバーが次々と呪われるっていう筋書きの偽物(・・)です」
 偽物、という言葉が、須間男の耳には痛かった。
「ちょっとこれを見て頂けませんか?」
 須間男はタブレットを取り出し、久千木の映像に映り込んでいた廃墟の静止画を表示させて奏音に見せた。カワ──笈川の時のような失態を繰り返さないために、静止画を事前に用意しておき、タブレットは渡さずに見せるだけに留めた。
「この建物に見覚えはありませんか?」
「そういえば……こんな廃屋があったと思います」
「DVDの具体的な内容や、ロケ地について教えて頂けませんか?」
「申し訳ありません。細かいところは覚えていないんです」
「DVDは、やっぱりお持ちではないですか? 出来れば雑誌の名前を教えて頂けると助かるんですが」
「それが……発売されてないんです」
「え?」
 思わす須間男は聞き返した。
「撮影は終わりましたが、あんなことがあったので、発売されなかったんです」
「あんなことというのは、やっぱり……」
「DVDの筋書き通りに、みんな……」
 そこで奏音は言葉を詰まらせた。
「……みんな、亡くなりました」
 奏音はテーブルに並べたファイルの中から一冊を取りだして広げた。そこにはいくつもの新聞記事がスクラップされていた。須間男は先程の台本のキャスト一覧を開き、記事と照合していく。
 ナンバー2・喜谷(きたに)利香(りか)、轢き逃げに遭い死亡。
 ナンバー3・萩野(はぎの)恵美子(えみこ)、連続通り魔殺傷事件で唯一の死亡者。
 ナンバー5・(くれ)さとみ、大型クレーンの転倒に巻き込まれて死亡。
 ナンバー6・佐和田(さわだ)(めぐみ)、隣家からの出火が延焼、一家全員死亡。
 ナンバー7・与那嶺(よなみね)あい、恋人と言い争いの末に刺殺される。
 ナンバー8・藤田綾乃(あやの)、自殺サイトで知り合った三人と共に練炭自殺。
 奏音を除くピクルスのメンバー全員の死亡記事で、そのファイルは終わっていた。
 いや、正確にはもうひとり、ファイルに含まれていない人物がいる。
「……ここにも、ナンバー4の子は含まれていないんですね」
「何故でしょうね。彼女だけ、いない子として扱ってしまうなんて……」
 そう答えて、奏音は顔を伏せた。ここまで徹底的に記録を抹消しなければならなかったのは、やはりナンバー4の呪いが原因なのだろうか。しかし元々はフェイクドキュメンタリーに過ぎず、メンバーの死も偶然と言えなくもない。にも関わらず、奏音は何かを恐れている。
 もしかして……。須間男には思い当たる節があった。
「『つぎはあなたのばん』という言葉に、何か思い当たることはありませんか?」
「彼女が死んだ時、エミコにメールが来たんです。『つぎはあなたのばん』って。エミコの次はアイに、アイの次はサトミに、同じメールが来たんです」
「差出人は?」
「最初は……彼女でした。それがアイの時はエミコから、サトミの時はアイからに変わって……」
 犠牲者が新たな犠牲者を指名する。まさに死の連鎖だ。連鎖の始点は彼女──ナンバー4か。須間男には、ずっと引っかかっていることがあった。
「ナンバー4の子ですが、名前は何と言うんですか?」
「それが……思い出せないんです」
「あさ美さんは覚えていませんか?」
 あさ美は何かを口にしようとしたが、はっとした表情を見せた直後、顔を伏せた。
「どこに住んでいたとかも?」
「知っていたはずなんです。遊びに行ったこともあったはずなんです。でも、どうしても思い出せないんです」
 そう答えた奏音の表情は曇っていた。
 いじめの被害者であるナンバー4と、加害者側の奏音たち。元々まともな交流など望めない関係だ。それにしても……と須間男は思う。
例え忌々しい、あるいは痛ましい記憶だとしても、その中心人物の名前だけを忘れ去ることなんて出来るものなんだろうか。むしろ人物と事件の両方を忘れるの方が普通なのではないだろうか。しかし現実には、事件だけが記憶に残り、被害者の個人情報だけが記録からも記憶からも消え去っている。
 これではまるで、彼女たちが忘れたかったのではなく、ナンバー4が彼女たちに自分のことを覚えていて欲しくなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)かのようだ。
 そこまで考えて、須間男はかぶりを振った。どうも嫌な考えに囚われ始めている。
「台本にも記載がありませんでしたが、ピクルスが所属していた事務所について、何か覚えていませんか?」
「それも……思い出せません。あんなことがあったのに。みんな、大事な仲間だったはずなのに、何も思い出せないなんて……」
「いい加減にして!」
 突然、あさ美が叫んだ。充血した瞳は奏音をじっと睨み付けていた。
どうして平然と(・・・・・・・)そんなことが話せるの(・・・・・・・・・・)?」
「あ、あさ美さん、落ち着いて」
 尚も奏音に食って掛かろうとするあさ美を、めぐみが宥めようとする。
「先生も先生です! 自分がしていることをわかってるんですか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」
「先生も私も、ただ本当のことが知りたくて」
「本当のことって何? あなたが今更何を知りたいって言うの(・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」
 奏音の言葉があさ美を余計に刺激したらしい。先程まで怯えていた女性と同一人物とは、とても思えない迫力だった。
「あさ美ちゃん、わたくしも奏音ちゃんも、すべてを終わらせたいの。これが呪いなら、それを解きたいのよ」
「……私は呪いなんて信じない(・・・・・・・・・・・)
 なだめるめぐみの言葉を、あさ美はハッキリと否定した。
 もはや、引き続き話を聞けるような空気ではなかった。

 気まずい沈黙を引きずったまま、五人は駅の降り階段の手前までやって来た。
「……すいません。DVDがあれば詳細はわかると思うんですが……」
「それはこちらで当たってみます」
 映像業界は狭く、横の繋がりは馬鹿に出来ない。更に廃墟の静止画に見覚えがあるという小埜沢の記憶とコネクションもある。制作時期も二〇〇七年から二〇〇八年初頭と判明しているため、DVDの制作元の特定はさほど難しくないだろうと須間男は考えた。
「鈴木さん、スマホ、赤外線通信に対応してますか?」
「えっ? あ、はい」
 須間男はスマートホンを取り出し、奏音と連絡先を交換した。
「また何かあればご連絡します」
「私も何か思い出したらお知らせします。鈴木さん、鶴間さん、どうか、私たちを助けてください。そのためなら、何でも協力します」
 奏音は須間男と千美の手をぎゅっと握った。須間男は彼女の必死の思いを受け止めながら、つい我を忘れて舞い上がりそうになるのをこらえた。須間男と千美は奏音たち三人に見送られながら、駅へ続く階段を下った。
 気丈な子だ、と須間男は思った。寄藤というストーカーの被害とナンバー4の呪いという非現実的な恐怖。そのふたつの標的だというのに、あそこまで凜と振る舞えるものなのかと、彼はただただ感心するばかりだった。
 先程まで取り乱していたあさ美もどうにか落ち着きを取り戻したようだ。彼女の見せた意外な姿と言葉が、須間男にはどうにも引っかかって仕方がなかった。日を改めて個別に取材を行えば、より細かい話を聞くことが出来るかもしれないが、多少の冷却期間は置くべきだろうと判断した。
 階段を下りきってから出入り口を見上げると、三人はまだそこに立っていた。元気よく手を振る奏音に。思わず須間男は小さく手を振り返しそうになったが、奏音の隣で塞ぎ込んでいるあさ美の姿を見て思いとどまった。
 彼女からきちんと話を聞くべきではないだろうか。須間男がそう思ったとき。
「ちょっと待って下さい!」
 あさ美が顔を上げ、須間男たちに呼びかけてきた。
「やっぱり、話しておきたいことが」
「あさ美さん、今はやめておいた方が」
 たしなめるめぐみの手を振りほどき、あさ美は階段を下ろうとした。しかし不意に彼女の体が大きく前方に傾き、言葉が途切れた。
 あさ美の体は宙に舞った。映画で見るような綺麗な「階段落ち」とは違い、彼女の体は鈍い音を響かせ、大きく跳ね上げられながら転がり続け、そして須間男の足下に落下した。
 まるで糸が切れた操り人形のような加藤あさ美の姿が、そこにあった。
 奏音の悲鳴が、地下に大きく反響した。
 これは現実なのか? それとも悪夢なのか?
 須間男は呆然と、眼前の惨事を見つめていた。
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登場人物紹介

鈴木須間男(32)


小さな映像製作会社に勤務。

弱腰で流され体質。溜め込むタイプ。

心霊映像の制作と、その仕事を始めるきっかけを作った千美に、かなりの苦手意識を持っている。

よくオタク系に勘違いされる風貌だが、動物以外のことは聞きかじった程度の知識しかない。

鶴間千美(34)


須間男の同僚。

須間男よりもあとに入社してきたが、業界でのキャリアは彼よりも長く、社長とは旧知の間柄。

服装は地味でシンプル、メイクもしていない。かなりのヘビースモーカー。

感情の起伏がほとんどない、ように見えるが……。

社長(年齢不詳)


須間男たちが勤める映像製作会社の社長。

ツンツンの金髪、青いアロハに短パン、サンダル履きと、「社長」という肩書きからはほど遠い見た目。

口を開けばつまらないダジャレや、やる気のなさダダ漏れの愚痴がこぼれる。

本名で呼ばれることが苦手なようなのだが……。

麻美奏音(24)


地下アイドル「ピクルス」の元メンバーで、メンバー唯一の生存者。

六年前の事件以降、人前に出ることはなかったが、今回の騒動で注目を集めてしまう。

肝心の「呪い」については、まったく覚えていないようなのだが……。

寄藤勇夫(42)


有名アイドルグループ「@LINK(アットリンク)」の厄介系トップオタ。

須間男たちの会社に送られてきたふたつの映像に映り込んでいた人物。

@LINKの所属事務所から出禁を喰らってから、消息が途絶えている。

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