第5話

文字数 3,282文字

 母親が帰った後の教室は、壁掛け時計の音と私のすすり泣く声だけが響いていた。
「休学なんてせずに、ストレートで卒業してやりなさいよ。」
 そばで見ていた担任が、私の背中をさすりながら言った。
「子どもに学費を払わせてる親なんていくらでもいるけど、学費のために娘が休学しようと決心してるのにあんな態度を取るなんて。時計チラチラ見てたし、もともとこの話し合いも来たくなかったんでしょうね」

 私が休学したいと担任に申し出て、話し合いの場を大学側で設けるから保護者を連れてきてほしいと話が出たのは1週間以上前だ。その日のうちに母親に相談したが、「職場のパートが1人来れなくなったから人出不足で休みなんか取れない。」と吐き捨てられた。担任に保護者が来られないから私だけでも話を進めていただけませんかと伝えると、担任は何かを察したのか、何とか説得して保護者を連れてきてほしいと私に伝えてきた。
 翌日もう一度、「休学の話は保護者がいないと承認されないので私のために来てください」と伝えたところ、その日は気分が良かったのか「仕方ないわね」と言質が取れた。
 話し合いの当日までこの調子で、母親にごまをすって連れていきたかったが、前日に突然母親がキレた。
「どうして私の貴重な時間をお前に奪われなきゃいけないんだ。大学なんか勝手に入ったんだから勝手に辞めて仕事して稼ぎに出ればいいだろう。そんで家に金いれろボケが」
 
 母親は高校を卒業する直前に私を身ごもって中退した。当時は女が大学に行くことは少数派であっただろうけど、女性の進路の1つとして大学進学は普通だったのだろう。だから、母親の考えは祖母の影響だろうなとぼんやり思っていた。ヒステリックにわめく母親からは、「この金泥棒が。お前なんか産まなきゃよかった」と、実家に金を入れずに生きる私への激しい罵声と、洗い終わった食器やフライ返しやフライパン等が飛んできた。母親はキッチンンにいることが多かった。おおかた、不倫相手とLINEでもしているのだろう。本人は否定するだろうがバレバレである。食器が割れて大きな音が鳴り、フライ返しで壁の塗装が切れ、フライパンでフローリングが鈍い音を出してへこむ。「この調子じゃ明日連れて行くのは難しいかな、お母さんの機嫌を取るのって本当に難しいな」と私の心もへこんできた。私と同じように、学費を稼ぐために1年休学した学生も数名いたが、こんな思いをして親を連れてきてるのかなと考えたけど、まあ、してないだろうなと溜め息をついた。

 当日になり説得に説得を重ねて、集合時間の30分後に大学に到着した。
 「すみませんね。うちの娘が寝坊してしまって」
 嘘である。いつも通り起きて支度していたら、最後の悪あがきのようにギャアギャアとわめきながら、今朝から母親の癇癪に付き合わされて既に私の心はへとへとだった。
 「本日の話は娘から大体聞いておりますが、休学の承認には保護者のサインが必要だと……。ええ、ここにハンコを押せばいいのですね」
 担任の研究室の机に促され、席に着くと、私と母親の分のお茶を出してくれた。母親は外面が良くて、家とは打って変わって綺麗な言葉を使い、笑顔で応じる。今まで怒ってたけど電話が来て受話器を取った瞬間に声が変わるお母さんみたいな、あの感じ。他人の前だと途端に外面が良くなるから、母親の普段の姿を伝えて助けを求めたこともあったけど、会わせると全然違うからそれはもう信用されない。母親のパート先に行った時も、同じパート仲間の人や店長からも仕事熱心で真面目な人だと評価されていた。
 隣で俯く私の横で、母親は事務的に淡々と、休学用に用意された書類にほとんど目も通さずにサインをし、緊急連絡先を書き、印鑑をしっかりと押した。担任だけでなく、他の先生も役割があるのか代わるがわるやってきては去っていった。
 「これで全部ですね。他にサインするものはありますか?」
 「はい。これで全てです。お母様、お時間が宜しければ娘さんの学生生活のことでお話しませんか?」
 「いえ、大丈夫です。この後用事がございますので。私はこれで」
 母親を取り巻く空気がピリッと変わったのが分かった。これ以上長居させては、さらに機嫌が悪くなる予感がした。
 「いえ、でも、休学が終わった後の流れ等もご説明させていただきたいので……」
 「時間の無駄ですので。帰ります。」
 お茶に一切手を付けず、私の目も見ず、何も言わずに母親は足早に帰っていった。よほど帰りたかったのだろうな。先生と話している最中もずっと壁掛け時計の秒針をチラチラと眺めていたのを、先生が嫌な気持ちになっていないだろうかと私はハラハラしながら横目で見ていた。
私の一大決心は、母親からしたら心底どうでもいい事情なのだろう。「自分で選んだ道だから、好きにやりなさい」と言われた。

 大学生は大人の分類だ。いつまでも自分の意志を持たずに親の言いなりになって進路を決めてしまった私が悪い。母親の言い分は正しい。いつまでも甘えている私が悪いのだ、実家暮らしだと言って甘えていては自立もできない。1か月分の食費が大体このくらい、飲食店のアルバイトで休憩中に30%引きでご飯を食べられるから昼はこのくらいで、夜は家で出てくる時は心配ないけど母親の機嫌が悪い時は出ないからアルバイトの廃棄を食べればしのげるだろう。お腹は空くけど仕方ない、まずは食べ盛りの妹にも廃棄を渡して食い繋いでいければ良い。休学すればアルバイトのかけもちも増やせるし、教材費や研究費の心配もしなくていいし、携帯の通信料や洗剤や柔軟剤やトイレットペーパーまで買える。実家に住んではいるものの、一人暮らしをしているようなものだった。市が指定しているゴミ袋や洗剤やトイレットペーパー等の日用品、朝と昼と時々夜のご飯も自分で買わなければならない。キッチンを使うと母親の機嫌が悪くなるので、極力調理を必要としないレトルトパウチや、ご飯と納豆と卵とポン酢を混ぜて味を付けた質素な一品料理くらいしかできなかった。冷蔵庫から食材を取っていいか聞くと決まって
 「何勝手に取ってんだよ。お前。あたしが買ってきたんだからちゃんと金出せよ。家にあっからと言ってタダじゃねえんだよ」
 と罵倒され、かと言って母親がいない時を見計らってこっそり食べたものなら
 「勝手に食いやがって。お前はごきぶりかよ。じめじめして気持ち悪ぃな。死ねよ」
 と、やはり罵倒される。そんな冷蔵庫にある食材は、再婚した父親が稼いだ金で買ってきた食材が入っている。再婚してからはパートを辞めて専業主婦になったので、母親の稼ぎは一切なかった。

 休学の書類は印鑑をされ、私のサインと保護者のサインもあり、不備もなかった。だが、担任から
「あなた、悔しくないの?どうせなら卒業しちゃいましょうよ。書類さえあれば休学はいつでも受理できるから、手帳かなんかに入れてさ。辛くなったらこの書類見て、悔しさを思ってバネにしたらいいんじゃないかな」
 その通りだと思い、手帳に丁寧に畳んで入れた。外面の良い母親のことだから、担任や先生たちもうまく騙されるんだろうなと思っていたけど、こうして見破ってくれた人がいたのは大きかった。私が今まで感じていた違和感は、私だけが感じる妄想的なものではなかった。
 母親はどこか常識とズレていて、おかしいのかもしれない。私が初めて親に思った感情だった。

 帰宅してどんな罵声が浴びせられるのか緊張しながらドアをそろりと開けると、何かしらの料理の香りと音楽が聞こえた。靴を脱いで玄関を抜けると、流行り曲のJ-POPとともに母親がキッチンに立ち、携帯を手にしてニヤニヤと口角を上げて料理していた。
 「お母さん、私、休学しないことにしたよ」
 「あ、そう」
 これだけだった。不倫相手と連絡を取れたのがよほど嬉しかったのか、今日は花瓶もフライパンも飛んでこなかった。再婚したのに早々に不倫する母親が心底気持ち悪く見えたし、こんな母親を一人の女として見ている相手も、正気かと思った。
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