黒い獣
文字数 2,482文字
夕暮れに染まる街を走る影が二つある。
私はそれを狭い視野で捉えた。
彼らは思いもすまい。オークリー通りを見下ろすこの屋根で、私が身を伏せ、長い銃身を構えていることを。ごく無害な女中が、雇い主の命に照準を合わせて引き金に指を乗せていることを。
そして私も、いまこのときまで思いもしなかった。
照準器ごしに彼らを見つめるこの瞬間が、私が生きてきた十七年という時間よりもっとずっと長いことを――。
動く標的を狙撃することは容易ではない。それも二人を同時にというのは難問の部類に入る。
しかし、相手が彼らであれば話は別だ。
まずは手を引かれて走る、後ろの老婦人に銃弾を撃ち込む。本来であれば狙撃手の存在を知られることは致命的だ。
だが彼らは愚かな動物である。つがいのどちらかが撃たれれば、もう片方は立ち止まるしかない。そうしたら、振り返る灰色の頭に、私は二発目の銃弾を叩き込めばよい。それで終わりだ。
私は二人を仕留めなくてはならない。
一人ではなく、二人だ。
あの老紳士は、国は弱者のためにあると説くおよそ政治家らしからぬ信条の持ち主であり――ある一部の者にとっては――厄介なことに、その夫人までもが貧しい者たちから多くの信奉を寄せられる篤志家だ。
だから仮に、エレン翁だけが命を落としたところで、代わりにマダム・カミルが立ち、あるいは立たされ、革命という名の洪水を引き起こすだろう。その清らかな濁流は国を巻き込み、多くの、また別の敗者をつくりだすのだ。
もっとも――私には関心のない事柄だが。
なぜなら私はとっくに敗者であり、勝利の輝きとは無縁なのだから。
私に家族はない。父は、私が生まれる前に愛人に腹を刺されて死んだ。母はパンを買うために八歳の私を売った。男とは浅ましい性であり、女とは卑しい性であることを私は早いうちに知った。
それからの私は、手にナイフを携え、硝煙をまとって戦場で生きてきた。
私にとっての戦場とはかならずしも勇ましい前線を指すものではない。ときに演説会の広場であったり、ときに男のベッドであったり、ときに石畳を見下ろす屋根であったりする。
あるときの私は、憐れで純朴な女中だ。
滑稽な話だが、すくなくとも、エレン翁とマダム・カミラにとってはそうだった――弱者を救済せんとする夢想家たちにとっては。
彼らの屋敷で私は、地味にふるまった。
失敗もせず、かといってきびきびと働きもしなかった。ごく普通の、田舎から出てきた、命令どおりに動くしかできない愚かな少女を演じた 。彼らの印象に残らないよう、ひっそりと過ごした。
――だというのに。
善良な二人は、憐れな少女にもっと憐れなほどこしを行った。
奥様は、くちびるの青い私を見かねて赤いマフラーをつくった。毛糸のちくちくするそれを彼女の手によって巻かれているあいだ、私は、絞首刑の実行を待つ囚人の気分だった。
旦那様が私のために剥いた不格好なリンゴを食べるときなど、毒味役の気苦労がよくわかった。
彼らが愛情と呼ぶそれは、柊の葉よりも尖ったナイフであり、氷河よりも冷たい銃弾だった。私の肉を裂き、骨を砕くものであった。
ある冬の日。
落ちて割れたスープ皿を拾うため、床に這いつくばった私は、つかみ損なった破片で指の先を傷つけた。深さのわりに出血は多かった。すると旦那様は立ち上がり、青ざめた顔でおろおろした。奥様は床に膝をつき、私の傷口を両手でおおった。「痛いでしょう、痛いでしょう、かわいそうに……」そう何度もつぶやいた。
もしも彼らが私の流してきた血の量を知ったら、いったいどのような顔をするだろうか。この手が積み重ねてきた死体袋の数を知ったら――。
私は、黒い血河を渡る一匹の獣である。
水底に沈むものに目もくれず、いつか旅立った此岸 を振り返ることもしない。河の流れがどこへいくのかかにも興味がない。けっしてたどり着くことのない彼岸を目指し、愚かに泳ぎ続ける獣にすぎない。
彼らの殺害はとても容易なことだった。
ただ殺すだけならいつでもできた。ダイニングテーブルの背中に忍び寄り、その首筋にナイフを突き立てればよかった。あるいは寝室でもよい。枕を並べて、彼らは長い眠りについただろう。
しかし物事には適切な時機というものがある。
いま彼らは、彼らが成功すると不利益をこうむる人間たちから追われて、走っている。それは私が属するものとは別の組織だ。
だから私の仕事も、そのちんけな連中の仕業ということになる。実行犯の罪は、あの組織のうちの誰かが被ることになるだろう。それを口実に私たちは連中に制裁を加える。私たちにしてみれば、獲物を討ち、ついでに小さな犯罪者集団に鉄槌を下すかっこうの口実を得るという寸法だ。
世界はこれほど容易に傾く。
私の脳髄が命令を下し、私の指が数センチ動くだけで、石畳は濡れ、河に血が注ぐ。その流れは人びとを飲み込み、街をも飲み込む。そして誰もが敗者になるのだ。生き残った敗者と、死せる敗者だ。
照準器の先で彼らは敗者になる。
私は迷わない。ただ選び取るだけだ――どこでどう殺すかを選択するだけだ。私が引き金を引かなくても、他の誰かが彼らの血を流すだけだ。
私は私に命令を下した。
まず一発目でマダム・カミラの脇腹に銃弾を叩き込む。やわらかい肉をえぐり、骨を砕く。ついで二発目は理知的な老紳士のこめかみを仮借なく撃ち抜き、オークリー通りの片隅には、彼の夢見がちな脳漿がぶちまけられる。
私は戦果の余韻に浸る間もなく、身を翻して次の戦場へと向かう。二人のために祈りもしない。
悦びもなく、悲しみもない。言い訳のひとつもしない。はるか向こうでふたつの死体が生まれる。ただそれだけだ。それだけのことだ。
そう、ただ、それだけなのに。
私の指は動かない……。
私の指は動かない……。
(終)
私はそれを狭い視野で捉えた。
彼らは思いもすまい。オークリー通りを見下ろすこの屋根で、私が身を伏せ、長い銃身を構えていることを。ごく無害な女中が、雇い主の命に照準を合わせて引き金に指を乗せていることを。
そして私も、いまこのときまで思いもしなかった。
照準器ごしに彼らを見つめるこの瞬間が、私が生きてきた十七年という時間よりもっとずっと長いことを――。
動く標的を狙撃することは容易ではない。それも二人を同時にというのは難問の部類に入る。
しかし、相手が彼らであれば話は別だ。
まずは手を引かれて走る、後ろの老婦人に銃弾を撃ち込む。本来であれば狙撃手の存在を知られることは致命的だ。
だが彼らは愚かな動物である。つがいのどちらかが撃たれれば、もう片方は立ち止まるしかない。そうしたら、振り返る灰色の頭に、私は二発目の銃弾を叩き込めばよい。それで終わりだ。
私は二人を仕留めなくてはならない。
一人ではなく、二人だ。
あの老紳士は、国は弱者のためにあると説くおよそ政治家らしからぬ信条の持ち主であり――ある一部の者にとっては――厄介なことに、その夫人までもが貧しい者たちから多くの信奉を寄せられる篤志家だ。
だから仮に、エレン翁だけが命を落としたところで、代わりにマダム・カミルが立ち、あるいは立たされ、革命という名の洪水を引き起こすだろう。その清らかな濁流は国を巻き込み、多くの、また別の敗者をつくりだすのだ。
もっとも――私には関心のない事柄だが。
なぜなら私はとっくに敗者であり、勝利の輝きとは無縁なのだから。
私に家族はない。父は、私が生まれる前に愛人に腹を刺されて死んだ。母はパンを買うために八歳の私を売った。男とは浅ましい性であり、女とは卑しい性であることを私は早いうちに知った。
それからの私は、手にナイフを携え、硝煙をまとって戦場で生きてきた。
私にとっての戦場とはかならずしも勇ましい前線を指すものではない。ときに演説会の広場であったり、ときに男のベッドであったり、ときに石畳を見下ろす屋根であったりする。
あるときの私は、憐れで純朴な女中だ。
滑稽な話だが、すくなくとも、エレン翁とマダム・カミラにとってはそうだった――弱者を救済せんとする夢想家たちにとっては。
彼らの屋敷で私は、地味にふるまった。
失敗もせず、かといってきびきびと働きもしなかった。ごく普通の、田舎から出てきた、命令どおりに動くしかできない愚かな少女を
――だというのに。
善良な二人は、憐れな少女にもっと憐れなほどこしを行った。
奥様は、くちびるの青い私を見かねて赤いマフラーをつくった。毛糸のちくちくするそれを彼女の手によって巻かれているあいだ、私は、絞首刑の実行を待つ囚人の気分だった。
旦那様が私のために剥いた不格好なリンゴを食べるときなど、毒味役の気苦労がよくわかった。
彼らが愛情と呼ぶそれは、柊の葉よりも尖ったナイフであり、氷河よりも冷たい銃弾だった。私の肉を裂き、骨を砕くものであった。
ある冬の日。
落ちて割れたスープ皿を拾うため、床に這いつくばった私は、つかみ損なった破片で指の先を傷つけた。深さのわりに出血は多かった。すると旦那様は立ち上がり、青ざめた顔でおろおろした。奥様は床に膝をつき、私の傷口を両手でおおった。「痛いでしょう、痛いでしょう、かわいそうに……」そう何度もつぶやいた。
もしも彼らが私の流してきた血の量を知ったら、いったいどのような顔をするだろうか。この手が積み重ねてきた死体袋の数を知ったら――。
私は、黒い血河を渡る一匹の獣である。
水底に沈むものに目もくれず、いつか旅立った
彼らの殺害はとても容易なことだった。
ただ殺すだけならいつでもできた。ダイニングテーブルの背中に忍び寄り、その首筋にナイフを突き立てればよかった。あるいは寝室でもよい。枕を並べて、彼らは長い眠りについただろう。
しかし物事には適切な時機というものがある。
いま彼らは、彼らが成功すると不利益をこうむる人間たちから追われて、走っている。それは私が属するものとは別の組織だ。
だから私の仕事も、そのちんけな連中の仕業ということになる。実行犯の罪は、あの組織のうちの誰かが被ることになるだろう。それを口実に私たちは連中に制裁を加える。私たちにしてみれば、獲物を討ち、ついでに小さな犯罪者集団に鉄槌を下すかっこうの口実を得るという寸法だ。
世界はこれほど容易に傾く。
私の脳髄が命令を下し、私の指が数センチ動くだけで、石畳は濡れ、河に血が注ぐ。その流れは人びとを飲み込み、街をも飲み込む。そして誰もが敗者になるのだ。生き残った敗者と、死せる敗者だ。
照準器の先で彼らは敗者になる。
私は迷わない。ただ選び取るだけだ――どこでどう殺すかを選択するだけだ。私が引き金を引かなくても、他の誰かが彼らの血を流すだけだ。
私は私に命令を下した。
まず一発目でマダム・カミラの脇腹に銃弾を叩き込む。やわらかい肉をえぐり、骨を砕く。ついで二発目は理知的な老紳士のこめかみを仮借なく撃ち抜き、オークリー通りの片隅には、彼の夢見がちな脳漿がぶちまけられる。
私は戦果の余韻に浸る間もなく、身を翻して次の戦場へと向かう。二人のために祈りもしない。
悦びもなく、悲しみもない。言い訳のひとつもしない。はるか向こうでふたつの死体が生まれる。ただそれだけだ。それだけのことだ。
そう、ただ、それだけなのに。
私の指は動かない……。
私の指は動かない……。
(終)