第4話 どこかの国のどこかの街のどこかの工場でジャックルソーは目を覚ます

文字数 4,810文字

ジャックルソーは、目をさます。周りには誰もいない。彼一人だけだ。
ここは、シャッターの閉まっている工場の中だ。
工場は、閑散としていてまったくひとけがない。ジャックルソーは暗闇の中で、この場所はどこかと記憶を手繰り寄せてみるが、少しも見当がつかない。誰かがいる痕跡がこの工場にはまるでない。ここはまるで夜明け前の人のいない孤独なマーケットのようにシンとしていて、さらには、カラスがやってくる前のペットボトルや生ごみなどが散らかったゴミ捨て場のように雑然としていた。誰かが訪れるまでここでジッと待つべきだろうか。  
だが、この暗さと寒さからすると、誰かがここに来るまで何時間も待つとすれば、ジャックルソー自身の体力が持つかが心配だった。
ジャックルソーは、手探りであたりを動きまわってみようと思い立ち、暗がりの中で立ち上がり、工場の中を捜索し始めた。目を覚ましてから、およそ5分が経ち、暗闇の中の様子がわかるようになってきたので、自分の周囲に手を伸ばし、半径5メートルにあるものを手当たり次第に触れてみた。ジャックルソーの周りには重厚そうな機械が数台置いてあり、手触りと頼りない視界だけでは全てのことを正確に確かめることはできないものの、他には本棚があって、10冊ほどの本がしまってあることがわかった。
ジャックルソーは、自分の一番近くにある機械をさらに注意深く触れてみた。手触りから推量すると、物体と物体を組み合わせて接合するための機械のように思えた。ジャックルソーの経験と照らし合わせてみると、食パンやガラス板、もしくはブリキの機械を大量生産するものだろうと予測できた。そして、さらに慎重に手を滑らせていくと、ベルトコンベヤーのざらざらとした感触がしたので、ここは生産レーンの一部なのだろうと感じて、突然今自分が触れている機械が動き出して、手が巻き込まれる事故が起きてしまうことだけは避けたいと、ジャックルソーは心の中で祈った。スイッチを手探りで探し当てて、恐る恐る押してみたが、ピクリとも機械は反応を示さなかった。どうやら、ブレーカーが落ちているらしくこの機械の電源が入らないようだ。これで、自分の手が機械に挟まれて巻き込まれるという惨事は防げたというわけだ。
ジャックルソーは、安全が確保されたことにほんのちょっとだけ安堵して、少しばかりベルトコンベヤーのうえで寝そべってみた。この上で、流されてぺしゃんこにされたり、鉄の塊などとくっつけられたりするブリキが、もし自分だったとしたら、自分自身のひとつしかない子の身体はどうなるだろうかと想像を膨らませた。おそらく、自分はそんな状況に耐えることができず機械の端に来た時に逃げ出してどこかへ行こうとするだろうなと考えて一人で怖くなった。臆病者であるということが、ジャックルソーの欠点でもあり、言い換えればそれは自分の身を自らで守ることができるという立派な長所でもあると彼は納得していた。いくら臆病な自分ということが自分にとって何か不利になるようなことがあったとしても、ここからすぐに逃げ出すことのできるのだから、自分はものすごく防衛本能が強い人間なのだから今のこの状況においてだけはその短所は有利に働くことになるだろうと、ジャックルソーは自尊心を強めて自分のことを誇らしく思っていた。
ジャックルソーは、考えごとを頭の中で巡らしているうちに、ベルトコンベヤーの上に乗ったまま眠りに落ちてしまった。どのくらい時間が経っただろうか。彼は、気持ちが良さそうにぐっすりと眠っている。
すると、閉まっていたはずのシャッターが鈍い音を立てて、突然開いた。
奥から男性2人の声が聞こえてきた。
「ここが、わたしが経営責任者を務めていた第1工場です。主に服飾用の布を製造しておりました。」
「どこに出荷していたんですか?」
「基本的には、ヨーロッパです。」
「ほお。実に興味深いですな。わたしもヨーロッパ市場は、今後も伸びていくだろうと踏んでいました。」
「わたくしどもの会社は、従業員が少なかったものですから、より競争の激しい国内向けには作っていなかったんです。」
「そうですか。わたくしどもの経営再建がうまくいけば、国内向けにも生産できるようになるでしょう。」
「それはありがたいです。この工場が末永く続いていくことがわたしの一番の幸せなんです。」
「あなたが成し遂げられなかった夢を、わたくしどもが次世代へ引き継ぐということで、どうかお願いしますよ。」
「ええ、わたしもそのつもりであなたをこの工場へ招待したつもりです。」
ジャックルソーは、声が聞こえてきたことに気がついて、うっすらと目を覚ました。思えば、ここに来てから彼はずっと眠っている。
2人の中年男性は、ジャックルソーのいる場所から、かなり遠くにいることが見える。
ジャックルソーは、2人に気がつかれないように、ベルトコンベヤーの下の隙間に入り込んで、身を潜めた。彼の心臓が緊張で少しずつ音を立て始める。男たちが近づいてくるたびに、ジャックルソーの臆病者の部分が現れてきているのが分かる。
「でも、とても感慨深いです。わたしが25年以上の間、毎日仕事をしていた工場なんですから。」
「わたしも、受け継いでいく工場が、あなたのような愛情深い人物が工場長をしていた場所だと知れてとても嬉しいです。」
「わたしにとって、ここだけが一生を捧げてもいいと本気で思えた場所でして、いうなれば、この工場は私の宮殿のような場所なんです。」
「宮殿ですか。とてもいい表現ですね。あなたが従業員とともに織り上げた一枚一枚の布は、今でも世界中で使われています。」
「そのことだけが、わたしの一番の誇りです。」
ジャックルソーは、いつのまにか2人の中年男性の話に聞き入っていた。どうやら、2人は、工場の引き継ぎの話をしているようだった。もともと経営を任されていた工場長は、この工場にとても深い愛着を感じているようだった。彼の言葉一つ一つに、ジャックルソーは深い慈しみを感じていた。
ジャックルソーは、彼の宮殿を犯してしまったのではないかと、ベルトコンベヤーの上で寝ていた自分を恥じた。2人は、工場の中を歩き回って、とうとうジャックルソーの隠れているベルトコンベヤーの近くまでやってきた。元工場長の男が、先ほどまでジャックルソーが眠っていたベルトコンベヤーを愛情深い目線で眺めている。すると、元工場長の男は、ベルトコンベヤーを右手でなでながら、自らの愛情を確認するように言葉を厳かに紡ぎ始めた。
「このベルトコンベヤーは、私が一番愛している機械なんです。とても性能の良い機械でしてね。今まで2千万枚ほどの布を織り上げてくれました。」
「大変な数の布を織り上げていますね。まだ油をよく注しておけば使えそうです。この機械も、工場と一緒に買い取ることにしましょう。」
「ええ、そうしてくださると嬉しい限りです。ああ、そういえば、この本棚に置いていた本を忘れていました。いけない。埃をかぶってしまった。これは今日、持ち帰っても構いませんか。」
「ええ、構いませんよ。失礼ですが、どんな書物がそこには置いてあったのでしょうか。」
「この本は、ダーウィンの種の起源です。わたしが、進化論を経営に役立てようと試みていた時に読んでいたものです。」
「なるほど。進化論ですか。一体どのようにダーウィンの理論が経営と結びつくのでしょうか。」
「かいつまんでお話しすると、会社に携わる従業員や役員などの人々と商品の物流の過程を一つの有機体として捉えて、それらが生物にとっての地球環境が種の進化に欠かせないようにお互いに結びつきあって、会社が発展していくのではないだろうかと、仮説を立てて、実際の経営に生かしていったのです。」
「かなり壮大な実験ですね。驚きました。素晴らしい。」
ジャックルソーは、自分はここに隠れているままでいいのだろうか、と不安になり始めた。
2人の工場長は、非常に熱い議論を休む間も無く交わしている。盗み聞きをしている自分のことが恥ずかしくなるほどに、2人の会話にはマグマのような熱い魂が流れている。
2人の熱を帯びた工場長は、ベルトコンベヤーの側での議論を止める気配がまったくなかった。
2人のどちらかに気がつかれるのも時間の問題だと、ジャックルソーが心臓を高鳴らせながら息を潜めていると、前の工場長の声が会話から消えた。すると、前の工場長は、次の工場長に、右手の人差し指を立てて、静かにして、というような仕草を見せた。
「あの、あなたはどなたでしょうか。ずっとわたしたちの話を聞いていたでしょう。」
「えっ、わたしですか。」
「あなたでしょう。ベルトコンベヤーの下に隠れているあなたですよ。」
とうとうジャックルソーは、工場長2人に見つかってしまった。ベルトコンベヤーの下から、ジャックルソーは申し訳なさそうに少しずつ這い出てきた。
「なぜ、あなたは、わたしたちの哲学談義を聞いていたのですか。」
「わたしは、自分でも気がつかないうちにこの工場に閉じ込められてしまったのです。とても息苦しくて、ずっとこのまま外に出られないのではないかと怯えていました。あなた方がやってきてくれて本当に良かった。」
「えっ、あなたには悪意があるわけではないのですか。わたしたちの話を聞いて何か企んでいるのかと思っていました。」
「いいえ。わたしには少しの悪意もありません。早くここから出たいと思っていただけです。わたしは、早く外の空気を吸いたい。」
すると、次の工場長が、ジャックルソーのことを興味深い青年だと思ったのか、一つの提案を前の工場長に対して進言した。
「どうですか、工場長。彼には何の悪意もないようですし、今晩は、あなたの家に連れ帰って、ご飯でも食べさせてあげればいいのではないですか。」
「そうですね。ひとまずわたしが彼を家まで連れて帰りましょう。彼は半袖半ズボンで、とても寒そうです。不思議だ。なぜ彼がここにたった1人きりで入ることができたのかがわからない。あなたは、この工場に来るまでのことを覚えていますか。」
「いいえ、何も覚えていません。目を覚ましてみたら、ずっとここに眠っていたんです。」
「あなた。お名前は何とおっしゃるんですか。」
「わかりません。名前すらも。」
「あなた。何か持っていませんか。」
ジャックルソーは、ズボンのポケットの中から何かを取り出して、工場長たちに見せた。
「ここに、財布のようなものがひとつだけあります。」
「ちょっと貸してみてください。あら、メモが一枚入っています。なんだろう。ジャックルソーと書いてあります。」
「ジャックルソー。わたしの名前でしょうか。」
「他には、何も入っていません。そうですね。とりあえず、あなたをジャックルソーと呼ぶことにしましょう。18世紀のエミールなどの書物を著した政治哲学者ジャン=ジャック・ルソーと同じ名前ですね。」
「ジャックルソー。ジャックルソー。とても変わった名前だ。でも格好いい。」
ジャックルソーという自分の名前をもらって、彼はとても喜んだ顔をしていた。財布だけが彼のズボンのポケットには入っていたが、メモ一枚以外は何も出てこなかった。
工場長たちは、ポケットの中に何か入っていないかと、名前の痕跡を必死に探しているジャックルソーのことを、とても変わった青年だと不思議そうに見つめていた。
工場の外は夕焼けが差し込んで、オレンジ色に染まっていた。工場の周囲の人々は、コートを羽織り、マフラーを巻いて、寒そうに白い息を吐きながら外を歩いている。
そして、 工場長のメルスリッチは、ジャックルソーを彼の食卓へ招待したのだった。
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