第12話 瞳の中の銀河

文字数 2,859文字

突然ぽっかりと空白が出来てしまった日は、穴埋めに何をすべきか悩んでしまう。
今日予定していた仕事の打ち合わせが、急遽中止になってしまった。
予定が狂うと一日の行動を練り直さなければならない。
あいにく今の私にはこれといった仕事もないので、作業で時間を潰すこともできない。
そもそも次回作の打ち合わせが中止になる自体、不穏な予感がするのだが。

どれ、たまには出掛けてみようか。
そう思い立った日に限って、お天道様の機嫌が悪くなる。
鼠色の雲からしきりに落ちる雨の雫を眺め、私は外出を諦めた。
こんな時、趣味の一つでもあればいいのだが、私は情けないほど無趣味な男なのである。

暇だ。

人間暇すぎると、どうでもいい記憶を呼び起こしてしまう。
ふと昔を思い出した。

作家としてデビューした数年後の話だ。
その日はとある出版社でパーティーがあり、ペーペーの新人であった私も主催者に招かれた。
そこにはそうそうたる作家の顔が並んでいた。
あのベストセラー作家と、あの大賞受賞作家と、あの大御所作家と、私は同じ場所に居る。
いよいよ著名な作家の仲間入りができたのだと、高慢ながら悦に入っていた。

しばらくして、とある作家が話しかけてきた。
それが、黒松豪だった。

黒松豪はハードボイルド小説からエログロまで手掛ける、文壇の中堅である。私もいくつかの作品を愛読していた。
彼はひどくしゃくれた顎と、陰湿そうによどんだ目をしていた。

黒松はしゃくれた顎を歪ますと、フフンと鼻で笑いながら

「君、遊びを知らないでしょ?」

とそれは高慢ちきな態度で吐き捨てた。

呆気にとられていると、黒松の後ろに引っ付く出版社の人間に

「こういうね、ろくに遊んだこともないような若い子が書くのって、本当につまんないの。厚みがないっていうかね。今の若手は品行方正過ぎて駄目だね」

とにやけながら語りかけた。
出版社の人間は大物作家になにを言うでもなく、にやにやと媚びへつらっている。
出会い頭に突然貶されて、私はもう頭の中が真っ白だった。
何様のつもりなのかこの男は?
唐突に初対面の相手を貶すなどして、これはラップか?ラップバトルなのか?
ここは私もいかしたリリックで返すのが礼儀なのか?

黒松は再びしゃくれ顎をしゃくれにしゃくらせ、

「ね?つまんないでしょ?こういう事言われて何も言い返せないの。場数を踏んでないね。人生を遊んでない証拠だよ」

などと話し出したので、思わず

「僕だって遊びくらい知っていますよ」

と食って掛かってしまった。
黒松はいやらしく笑いながら

「ふうん、それはどんな?」

と聞いてきたので、私は咄嗟に

「……スマブラとか」

と答えてしまった。あの時の黒松に笑われた屈辱は、一生忘れない。
ゲヒゲヒと声をあげて、いつまでも笑っていた。
悪魔のように笑い続けるその顔を見て

(しゃくれ顎が永久に外れてしまえ)

と呪いの言葉さえ呟いた。
パーティーは一気に羞恥と屈辱の牢獄に変わった。

あれから数回、会いたくもない黒松と顔を合わせる機会があるが、その度にあの日の出来事を蒸し返される。

私は黒松の本を全て捨てた。そしてもう二度と買うまいと心に誓った。

と、このような苦い思い出が頭を過る程、今の私はどうにも暇人なのだ。
いかんいかん。ネガティブな思考は人を駄目にする。
しかしすっかり暇が出来たのに暇潰しが出来ないという、時間の落とし穴に嵌まってしまった。

ふとベッドに目を向けると、黒兵衛が目を丸くしてこちらを見つめている。

「なんだ、お前も飽きているのか」

そういえば黒兵衛が来たのも、雨の日であった。
あれから何ヵ月経っただろうか。黒兵衛、斑丸、銀次郎。
立て続けに三匹も猫を迎え入れてしまってから、どうも時間の流れが早く感じる。

黒兵衛は瞳孔をクルクルと変化させながら、じっとこちらを見ている。
猫の瞳というのは、実に変化が激しい。
万華鏡のように表情を変える瞳は、案外見続けても飽きないものだ。
そういえばこいつの顔をまじまじと見つめる機会はあっただろうか。
黒兵衛の顔をじっと見つめる。

すべてを飲み込むような黒、黒、黒。

黒い顔には丸く黄色い瞳がはめ込まれている。
その色は満月にも似ているが、よく見ると瞳には、非常に繊細な色彩のさざ波が浮かんでいた。
ほのかに差し込むグリーン。
満月色の瞳に、美しいさざ波の輪を描く。

この淡く揺らめく色彩の輝きには、見覚えがある。
あれはいつだっただろうか。まだ幼少期。
親から貰った宇宙図鑑を眺めるのが好きな子供だった。
中でも銀河の写真は、幼い胸を高揚させた。

虚無のような黒い宇宙に浮かぶ美しい銀河。
その色彩は何色とも言い切れぬ微妙な混ざり合いで、宇宙空間にさざ波を描いていた。

銀河だ。

猫の瞳には、少年の日に見とれていた、あの銀河が浮かんでいるのだ。
ご覧、この瞳を。
微妙な色彩が混ざり合い、銀河のさざ波を描いている。
私はぼんやりと黒兵衛の瞳を見つめていた。
こうしていると、まるで瞳の中の銀河に吸い込まれたようだ。

黒兵衛の肉体は宇宙。瞳はぼんやりと浮かぶ銀河。
やがて私は黒兵衛という宇宙に身を委ね、銀河を巡る宇宙旅行の旅に出る。

「ブニャン」

黒兵衛が一声あげた。どうやらしつこく見つめられて、機嫌を悪くしたらしい。

「そんな事言わずにもっと見せてくれよ」

「アキャン」

黒兵衛はそっぽを向いて去っていった。どこでそんな関西弁みたいな拒絶を覚えたのだ。

猫の瞳孔はなかなか興味深いものである。こうなると、他の猫共の瞳も覗きたくなる。
ちょうど足元に斑丸がいたので、ベッドの上に乗せ、その顔をまじまじと見つめてみた。
こうして見ると、猫の目とはそれぞれに個体差があるものである。

黒兵衛の瞳は満月のそれに似ていたが、斑丸の瞳はオレンジがかっている。
黒兵衛よりも濃く、熟成したウイスキーを思わせる琥珀色だ。私は琥珀の銀河へ旅に出る。
しかし斑丸はまじまじの見つめられたのが不愉快だったのか、すぐにベッドから飛び降りてしまった。
最近愛想のなさにますます磨きがかかっている。

では銀次郎。彼の目は薄緑だ。見つめるキャッツアイが緑色に光る。
日本の伝統色で言うと、錆青磁といったところか。
淡いグリーンの銀河にも、やはりさざ波の輪が揺らいでいた。

銀次郎は注目されて嬉しいのか、ハンサムな顔をちょっと小粋に傾けながらポーズを決めてくれた。
こいつの愛嬌は、以前誰かに飼われていた証拠だろう。

そういえば猫目石という宝石があったが、どんな高価な宝石も本物の猫目には叶うまい。
こんなにもクルクルと表情を変えながら銀河の揺らめきを見せる宝石など、他にないだろう。

丸く磨かれた水晶に銀河を閉じ込めた瞳。その美しさを知るのは、猫飼いの特権だ。
私の手元には三つの銀河がある。
黒兵衛の銀河。斑丸の銀河。銀次郎の銀河。

いつしか私は微睡み始めた。
もう眠ろう。猫の銀河は眠気を誘う。

その夜、夢を見た。
私は宇宙に浮かんでおり、ちょうど猫の瞳と同じ色をした銀河の上を泳いでいた。
宇宙には三匹の猫も浮かんでいた。
それは見事な空中猫かきだ。
私は三匹の猫をお供に、銀河を巡る宇宙遊泳の旅に出た。
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