自喪の朝

文字数 1,687文字

 ぼくはこれから死ぬぼくの寝顔を眺めていた。これから目覚めて、これから家を出て、これから()かれて、これから死ぬぼくを眺めていた。
 窓から差す朝の光。快晴だった。気持ちのいい朝だった。死ぬ日の天気は、死後も思い出されるのか。雨が好きだった。雨の日に死にたかった、というほどではないけれど。晴れの日に死にたかったわけでもない。
 ぼくはまだ目覚めない。これから死ぬことも知らずに、まだ眠っている。夢でも見ているのだろうか。自分が死ぬ夢。何度か見た覚えがある。ある意味では予知夢だ。絶対に外さない未来予知。死ぬということ。自分も他人も分け隔てなく。
 ぼくは自室のオーディオ機器をいじくり、音楽をかけた。死ぬ日にうってつけの音楽は何だろうか。自分の葬式にかけたい曲、なんて、生きていた時に人と話したことはある。しかし葬式というのは、半分は生きている人間のために行う儀式であって、死人の音楽の好みなんて関係ない。そもそももったいぶった儀式が嫌いだし、儀式で流れる音楽なんて最低だ。集団を酔わせる情緒に触れたくない。個人に語りかける音楽であってほしい。だから死ぬ朝にかける音楽は、静かな音楽を選んだ。耳を澄まさないと消え入るような、かすかな音色。これから死ぬぼくに届くかはわからないけれど。これから死ぬぼくの眠り。もう死んだぼくの祈り。音楽のまにまに溶け合ってうつろだった。
 目覚ましの音が鳴った。これから死ぬぼくがそろそろ目を覚ます。ぼくは名残を惜しみながら音楽を止めた。ずっと音楽を聴いていたかった。死ぬ前も死んだ後も夢のなかでも。沈黙も静寂も音楽のように聴きたかった。そのために音楽は必要だった。静けさを聴くための音楽が。
 これから死ぬぼくは眠りから覚めて身体を起こした。空気を確かめるようにぼんやりしている。朝が疎ましいのかもしれない。これから死ぬならなおさらだろう。それとも、貴重な朝を恩寵として受け取るのか。窓の外では鳥が鳴いていた。鳥にとっての朝は、どんな恩寵なのだろう。
 これから死ぬぼくは身支度を始めた。洗面所で顔を洗う。鏡に映ったこれから死ぬ顔を、これから死ぬぼくが見ている。もう死んだぼくがそれを眺めている。別に死相が出ているわけでもない。これが死相なら、ぼくは毎日のように死んでいるだろう。いつも通りだった。いつも通りの朝で、いつも通りに出かけて、いつも通りではない死に出会うのだ。もう死んだぼくは、鏡に映らない。鏡に映っているのは、これから死ぬぼくだけだった。
 ぼくは自分のために自分を弔っていた。死ぬ朝に。ひとりきりで。これから死ぬぼくに捧げる、もう死んだぼくの告別の儀式。
 これから死ぬぼくは、オーディオ機器をいじくり、出かける前に音楽を聴き始めた。激しい音楽だった。でも攻撃的ではない。むしろ優しかった。穏やかではない優しさのかたちもある。そんな音楽を聴いて、これから死ぬぼくは、これから過ごす一日を乗り切ろうと、自分を鼓舞していたのだろう。もう死んだぼくにもその気持ちはわかった。乗り切ることはできないのに。人生は朝で終わるのに。
 これから死ぬぼくは、音楽を聴きながら本を開いた。何度も何度も読んだ本。自分が言えなかったことを、言いたかったことを、言うべきだったことを、静かに教えてくれるような――こころを預けて、記憶を解放してくれるような、付き合いの長い大切な本。まだ心臓が動き、まだ息をしているぼくが、人生の最後に読んだ本。それは悪くない朝だった。言葉と音楽に守られて、満ち足りていた。これから死ぬことを知っているぼくにも、それは納得できる朝だった。
 これから死ぬぼくは水を飲んだ。喉を潤す、最期の滴。それもまた恩寵なのだろうか。神の涙のような朝の水。末期(まつご)の水の味がした。魂に水分が染み渡った。
 これから死ぬぼくが扉に向かって歩いていく。死ぬための道をたどろうとしている。もう死んだぼくはそれを見送ろうとしている。朝は過ぎる。死は止められない。扉は開かれる。ぼくは消えていく。
 さようなら、他人のように遠かった自分。いままで生きてくれて、ありがとう。
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