第8話 人類史上最も平和な時期 The most peaceful era

文字数 3,120文字

日本で平和に生きてきた私にとって、インドは衝撃だったけど、問題はそのレベルで考えるだけでは足りないようだ。ある程度経済が発展すると世の中には格差が生じる。強者と弱者のあいだには争いが生じる。或いは、国家間でも争いは生じる。支配しようとする側、される側。主義主張の違い、宗教の違い、民族の違い、色々な違いがあるだけで争いは起こる。どんな場面でも争いはつきものだ。何故そうなるのだろうかと考えてみたが、よく分からない。こういう時はおとうに相談だ。

「ねえ、おとう、人間に争いはつきものだよね?」
「ん? 今日は何の話だっけ?」
「この前、インドとSDGsと自国優先主義と平和とサグラダ・ファミリアの話をしたじゃん?」
「うん」
「平和を維持したいなら、人間の根源にある争う気持ちを失くせばいいんじゃないかと思うんだよね」
「これはまた壮大な夢を語り始めたじゃないか」
「おとうが言ったんだよ、SDGsで2030年までに平和にするって」
「ま、そうだな」
「だから、争わなければいいんだって」
「なるほどな。でも、人間の本能ってどうなってんのかな・・・。少しでも自分が有利になるように他者より優位に立とうとするよな」
「そう。だからダメなんだよ」
「よく言うよ、由理奈。お前が一番利己的だったじゃないか」
「高校生まではね。これからはちょっと考え方を変えてみようかなって」
「へえ、成長したもんだ」
「ねえ、この前、おとうが、マズローの欲求5段階説って言ってたじゃん?」
「ああ」
「私、あれじゃね?って思ったんだけど」
「ほうう、いいところに気づいたな、由理奈。いい線いってるかも知れんぞ、それは」
「調べました、私は。第一段階、生理的欲求。おなかが減ったら食べたいってことね。第二段階、安全の欲求。第三段階、社会的欲求。社会の一員でありたいとか家族に属したいとか愛し愛されたいとかだよね。第四段階、承認の欲求。認められたいって事だよね。第五段階、自己実現の欲求。理想とか夢の実現ってこと?」
「そういうことだ」
「だから、そういう欲求が満たされないから争うって事だよね」
「まあ、そういう事だな」
「ていう事はさあ、第一、第二をクリアすれば、あんまり争わなくてもいいんじゃないかって思うんだけど、どうかな、おとう」
「正解かも知れない。」
「でね、動物だと生理的欲求と身を守りたいという欲求くらいでしょ。だから争うんじゃないかと思ったんだよね。人間はその上のレベルへいく生き物なんだから、社会の一員でいたいとか愛したい愛されたいとかさあ、第三段階までいければ、争うなんてしなくていい事になるんじゃないの?」
「まあ、そうかも知れないけど、第三段階までいくには、まず第一、第二が満たされていなければならないんだよ。生理的欲求や安全の欲求が侵害されるなら絶対抵抗するよね」
「うん」
「逆に第三以降の欲求を持ちながらも、第一、第二のレベルから抜け出せないケースもあるよ」
「どういう事?」
「例えば、アメリカだ。以前のアメリカ社会は経済的にも文化的にも世界一を自認していたから、良き社会の一員として認められ、夢を実現しようとするような第三、第四、第五の欲求を抱くのが普通になっているのだと思うけれど、最近では、ポピュリズムが台頭してしまって第一、第二レベルの議論に終始しているように思うよ」
「ポピュリズム?」
「大衆迎合人気取り政治とでもいう事かな。大衆の願望、不安や恐れを利用して人気をとる政治のやり方が、これまで世界をリードしてきたアメリカでこれほど受けてしまうとはとても思えなかったんだけど、多くの国民がそれを支持してしまっているのだからどうしようもない」
「おかしいよね」
「でも、お父さんが知っているアメリカの友人の多くは今の政権を支持していないよ。彼らは個人主義的な要素は持っているけど自分さえ良ければと思っている訳じゃない。パリ協定を離脱してまで目先の利益を優先しようなんて考える人は少ないし、銃規制の問題だって、もっと理性的に対応すべきだと考える人が多いよ」
「それって、おとうの友だちがみんな裕福だからじゃないの?」
「まあ、その傾向は否めないかも知れない。現政権を支持する人は相対的に経済力が低いラストベルトの地域に多いからね。お父さんの友だちの多くは経済力が高いカリフォルニア州だからな。そういう地域格差も課題だなあ。でも、だからと言って人々の利己性をあおって自分たちだけが良ければいいみたいな政策を押し通すのはSDGs的に考えても大間違いだと思うよ。少なくとも、パリ協定離脱は酷すぎるな」
「地球環境が壊れちゃうってことだよね」
「ああ、週休4日が地球を救う!が実現できなくなっちゃうよ」
「そうだね、おとう」

「ところで、由理奈、世の中ちっとも争いが絶えないって思うかも知れないけど、現在の世界が人類史上最も平和な時期だという説もあるんだ」
「え、うそ?」
「例えば、長い人類の歴史で言えば、人間同士の殺し合いなんて過去には当たり前に起こっていただろ。日本だって戦国の世の中が頻繁に起こっていたし、中世ヨーロッパでは戦争だけでなくて、魔女狩りとか拷問とか凄惨な事が行われる時代もあったわけだしね」
「怖いね」
「世界的にも、つい数十年前まではとても大きな規模で戦争を行っていた。最近ようやく、世界大戦規模の戦争がなくなってきているんだ」
「そういえばそうか」
「これは、スティーブン・ピンカーというアメリカの心理学者が、人類の暴力性が後退してきている事を6つの大きなトレンドに分類して考察してるんだ」
「へえ」
「箇条書きにしてみよう。

① 狩猟採集から統治機構を持つ農耕社会への移行に伴う「平和化のプロセス」
② 中世後半からみられた中央集権的統治と商業基盤の確立による「文明化のプロセス」
③ ヨーロッパ啓蒙主義によって奴隷制や拷問・迷信などを克服した「人道主義革命」
④ 第二次第戦後に超大国・先進国同士が戦争しなくなった「長い平和」
⑤ 冷戦終結後に紛争・内戦・独裁政権による弾圧が低下した「新しい平和」
⑥ 1948年世界人権宣言以降に少数民族や女性に対する暴力が嫌悪されるようになった「権利革命」

という事だな」

「そっかー、結構最近の事だよね」
「ああ、今の世界は人類史上一番賢くなっているかも知れない」
「あと、ちょっとでうまくいくかもね」
「いや、そうとも言えないんだ。ピンカーも言っているんだけど、今後も暴力が減少し続けていく確証があるという話じゃないんだよ。実際、自国優先主義の政権が国民の支持を受けるような国も増えているだろ?」
「そっか」
「ただ、これまでどうやって人類は暴力を制御することに成功してきたのか、その要因から学べば平和に近づいていけるのかも知れないよ」
「そうできるといいね」 
「ああ、本当にそう思うよ。この数年はIS(Islamic State)のテロが脅威だったじゃないか。今は下火になっているけど」
「あれって、宗教の問題なの?」
「いや、そんなに単純な話じゃないけど、自爆テロが良い事のように人を洗脳してしまうという
のは恐ろしいよ。まあ、それだけ人間の心は弱いという事かも知れないけどな」
「弱い心に付け込むって酷くない?」
「付け込むっていうのは大体いい話じゃないな」
「どうしたら、そんな酷い事を止めさせられるの?」
「結局、人間の倫理観を育てるしかないのかとも思うけどね、それが出来たら苦労はいらないって事さ」

倫理観を育てるか。ふうん。

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登場人物紹介

名前:由理奈(ゆりな)

誕生:2001年2月25日 東京生まれ 

2020年のステータス:大学生

趣味:キーパーを抜いてシュート

おとう(由理奈の父)

1957年 地方都市生まれ

海外在住歴10年(アメリカ6年、ドイツ4年)

現在は一人会社の社長

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