第12話 優人の初夏

文字数 2,416文字

琴音さんは、お父さんが新規事業のモニター契約をしたことで、週に2回は家にやって来るようになった。

新事業はローカルな農産物のネット販売だった。

究極の地産地消を目指すこのビジネスは、従来の市場システムをご近所の範囲で成立させるアプリをインビジブルが開発し、AIが需要と供給を調整してくれる。琴音さんは現場でのデータ収集と問題の修正などを担当していた。

我が家は、収穫した野菜を戸別注文量に合わせて包装するという作業が大量に発生するので、お母さんも陽菜も、繁忙期はばあちゃんも斉藤さんも総出で作業をしなければならなかった。
注文はほぼ毎日入るし、自転車便で配送するので俺も長谷川運送の他の自転車便の人も大忙しだった。
ただ、徐々に味や新鮮さ、エコな配送も評価されて口コミで利用者が増えていった。

俺は麻美と別れることにした。
忙しくて会う時間を作りにくくなったことと、琴音さんと何か進展があったわけではないが、麻美への気持ちが冷めてしまったからだった。
麻美は納得してくれずに、ヒステリックな電話とLINEが毎日続いた。

6月の最後の金曜日、うちの会社の恒例暑気払会に、今年はなんと琴音さんとインビジブルの営業のおっさんも参加してくれた。
無礼講の会とはいえ琴音さんとおっさんは参加している社員たちにお酒をついでまわっていて、一緒に飲むチャンスは厳しそうだなと思っていたら、先輩社員の田中さんが
「おい、我らが琴音ちゃんの重要情報ゲットだ!」
と興奮して周りにいた人間を集めた。
「琴音ちゃん、渡辺社長の婚約者らしいぞ!玉の輿が確定してるんだと!」
俺は目の前が真っ暗になって、その後どのくらいお酒を飲んだか記憶に残っていない。

気がついたら家で寝てて、何度かトイレで吐いた。次の日も琴音さんが渡辺社長の彼女という記憶は何度も込み上げてきて、胃に何も入っていないのに何度もトイレで吐いた。
夕方、やっと起き上がれるようになった俺を心配した両親は、明日は家の手伝いはしなくていいから凛のサッカーの試合を応援してきてくれと言ってくれた。

日曜日、体調は回復していて朝の河川敷グラウンドは気持ち良く晴れていた。
凛をチームに送り出し、適当な芝生に座ろうとしたら遠くから琴音さんに似ている女性が「相場さーん」と手を振りながら近づいて来るように見えた。
俺はまだ体調が完全じゃなくて、応援に来ている保護者が琴音さんに見えてしまっていると思った。
見間違いかと思った女性は俺の目の前に来て
「よかった、合流できて。携帯にも電話したんですよ」
と言った。たしかに2回ほど知らない番号から着信があったがなんとなく会話したくなくて無視していた。
「凛くんの試合、まだ始まっていませんよね?」
俺は見間違いをしていたわけではなかった。
なんと琴音さんが凛のサッカーの応援に来てくれた。
「相場さん、金曜日飲み過ぎてたんじゃないかと心配してたんですよ。その後大丈夫でしたか?」
そう言われてだんだん思い出してきた。
琴音さんが飲み会の後半、俺たちにもお酌に来てくれて、
雑談の中で琴音さんの趣味がサッカー観戦だと聞いて、
(絶対に彼氏の趣味に合わせてる)
と、ものすごく悔しくなった俺は
『サッカー観るのが好きなら、日曜に凛のサッカーの試合があるので見に来てやってくださいよ』と酔っ払って絡んでしまった。
まさかそれを間に受けて休日に本当に来てくれるとは...。
「あ、あれは冗談というか、本気で来てくれると思ってなくて、その...すんませんでした!!」
琴音さんはむしろ嬉しかったですと眩しい笑顔で言ってくれて試合開始のホイッスルがなった。

俺は一試合でも多く勝ち進んで欲しくて、普段と別人のように必死に凛のチームを応援した。
隣の琴音さんも、学生時代サッカー部のマネージャーだったらしくルールや技術に詳しくて、凛を力いっぱい応援してくれた。
試合は0-0でPK戦になり、凛が外したせいで負けてしまった。
チーム全体も「あ〜あ」という雰囲気に包まれ、当の凛は泣いてしまって、物凄く気まずいゲームセットだった。
凛のチームは一回戦敗退、コーチの叱咤激励を終えて10時すぎに解散となってしまった。
俺は琴音さんと1秒でも長く隣で観戦したかったのに、神様はひどいぜ..と戻ってきた凛を連れてとぼとぼ帰ろうとしたら、琴音さんが
「相場さん、凛くん、この後まだ時間大丈夫ですか?」と郊外の大型ショッピングモールに誘ってくれた。

店に着いたら琴音さんがユニフォームしか持ってきていなかった凛に普段着を買ってプレゼントしてくれた。
昼飯は店内にあった回転寿司屋に入り、落ち込んでいた凛も楽しく食事をした。
凛は機嫌を直してショッピングモールを楽しんでいて、俺と琴音さんはゲームコーナーで遊んでいる凛を少し離れて見ていた。
「よかった、凛くん元気になって」
俺はプライベートの琴音さんとデート気分を味わえて幸福感でいっぱいだった。
「また試合の応援に誘っていただけませんか?プロの試合よりずっと面白かったです。とっても惜しい内容だったし今度は勝てると思います。」
凛がサッカーをしてて本当によかった!と俺は心でガッツポーズをした。

凛は「お姉ちゃん、うちで晩ごはんも食べようよ〜」となかなか琴音さんを離してくれなかったから結局16時近くまで一緒に居ることができた。
ショッピングモールで琴音さんとは別れ、帰りの車内で寝てしまった凛を起こさずに降ろそうとしていたら、背後から突然人がぶつかってきた。
「うわぁ!!!」
驚いて大声をだしてしまった俺は、ぶつかってきたのは別れた元カノの麻美で、ぶつかったのではなく抱きついてきたとわかった。
「なんだ麻美かよ。どうしたんだ、びっくりしただろ」
一旦凛を車に戻し、麻美を体からはがして顔を見ると、泣いていて、瞼も腫れていた。
「優人、私、別れない。妊娠してるの、優人の子供を。私たち結婚するって言ってたよね。」

また目の前が真っ暗になった。
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登場人物紹介

相場 恭子 47歳 主婦

相場 勝 68歳 農業

相場 優人 20歳 会社員

相場 陽菜 18歳 高校生

相場 凛 10歳 小学生

相場 ツネ 勝の母

佐野 琴音 (株)インビジブルハンドの相場家担当コーディネーター見習い

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