十、一つだけ、可能性がある。

文字数 1,495文字

 それでもこの時はまだ最悪ではありませんでした。


 事態は更なる悪化を遂げたからです。


 あの頃は、まだ暴漢も路上を徘徊する姿を稀に見かける程度でした。それが数日が経過した今や、路上はゾンビで溢れているのです。血まみれのゾンビが、汚らしい腸を引きずるゾンビが、ほとんど丸裸の子供のゾンビが――、ヨタヨタと無目的に路上を彷徨っていました。


 変わり果てた帝都の姿を、私は板で補強された窓の隙間から見つめ、振り返って、床の上で縛り上げられているお嬢さんの姿を見ました。カッと目を見開いたお嬢さんは、噛まされた猿轡の下から、
「フーッ!」「フーッ!」

 と唸るような悶え声を出し続けていました。顔は死人のような土気色に変わり、左目の傷も一向に塞がらず、包帯は黒い膿で汚れていました。この数日でお嬢さんも…変わり果てた姿となってしまったのです。


 お嬢さんが口にするのは相変わらず茄子だけです。ごく短時間、正気を取り戻すこともありましたが、ほとんどの時間はああしてうなされており、ややもすると私たちに噛み付こうとしてきます。医学に明るくない私にも、お嬢さんが外のゾンビたちとほとんど同じ状態であることは明らかでした。


「どうすれば……どうすれば、お嬢さんを……!」

 お嬢さんの危機を前にしても、私には苦悩するしかありませんでした。大好きなお嬢さんを、愛しいお嬢さんを救う手立てが、自分には何も見つからないのです。列島を覆う伝染病の猛威に呑まれたうら若き乙女の、苦しみ、死に絶える姿を見守るしかない自分が情けなく、涙が溢れてきました。お嬢さんを救う手段があるならば――、それがどんなか細い蜘蛛の糸でも自分は絶対に掴んでみせるのに……そう想って私は静かに泣きました。


 ですが、その想いは、


「先生……」

 私の隣で苦しむKもまた同じだったのです。彼は惑いながらも、遂にはこう言ったのです。


「一つだけ、可能性がある」

 と……。


 ああ。もしも私がこの家にKを招かなかったなら――、もしこの場にKがいなかったなら――、これから先、私とKにあんな残酷な運命が待ち受けることはなかったでしょう。ですが、私もKもその時は恐るべき結末を考えもしなかったのです。ただ、私たちは絶望を前に一筋の希望を見出したかっただけなのです。


「本当か!?」

 私は意気込んでKの真意を尋ねました。Kは躊躇いながらも答えました。

「房州に陸軍疫病研究所がある……。我が国で最先端の感染病研究所だ。そこならばもしや……」

「特効薬が開発されているかもしれない……ということか?」


「ああ……。だが、今のお嬢さんの容体を考えると……」
 ちらりとKはお嬢さんを見ました。縛られ、猿轡を噛まされた、いたましいその姿を。

「薬を取って帰っても間に合わないだろう。お嬢さんを連れて、研究所へ行くしかない」

「こ、この、ゾンビの中をか……?」

 私はもう一度、窓の外から外界を見ました。路上を徘徊するゾンビたちは生者の姿を見ると一斉に襲ってくるのです。郊外への脱出を試みた家族にゾンビが群がり、惨たらしく引き裂く様を私は何度も目にしていました。あのゾンビの群れを掻き分け、お嬢さんを連れて房州まで行くなど、自殺行為にも等しく思えます。ですが……

(僕とKならば……)

 恐るべき男――、K。敵に回せば勝ち目はないと思ったK。けれど、仲間にすればこれほど心強い男はいません。自分とKの二人ならば。この困難なミッションも乗り越えられるのではないか? そんな一縷の希望を私は抱いたのです。


 そんな時でした。


「大変! 助け……助けてえッ!!」


 奥さんの悲痛な声が、再び玄関口から響いてきたのは。

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登場人物紹介

■先生
帝大の学生。叔父に裏切られ、逃げるように故郷を捨ててきた過去を持つ。下宿先のお嬢さんに恋心を抱いている。だが、同郷の幼馴染である親友Kを下宿先に招いたことから悲劇の三角関係が始まってしまう上に、突如としてゾンビ・アポカリプスが訪れたので、ゾンビと三角関係の二重苦に苦しむこととなる。実は柳生新陰流の使い手であり、様々な兵法を用いてゾンビ難局を乗り越えていく。

■K
帝大の学生。実父や養父を偽って進学先を変えたために勘当されてしまい、今は内職と学問の両立に苦しんでいる。そんな姿を見かねて先生が下宿先へと彼を招いたことから悲劇が始まる上にゾンビ・アポカリプスが突如として訪れたので、先生と共に房州へと旅立つこととなる。

■お嬢さん
先生とKの下宿先のお嬢さん。叔父に裏切られ荒んでいた先生の心を癒やしたことから、先生に恋心を寄せられる。Kとの仲も満更ではなさそうだが、お嬢さんの気持ちは未だ不明である。ゾンビ・アポカリプス初期にゾンビに噛まれてしまい、半ゾンビ状態に陥る。好物の茄子を食べた時だけ、一時的に正気に戻る。

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