メフィストフェレスのほほえみ
文字数 14,856文字
9.メフィストフェレスのほほえみ
高級住宅の立ち並ぶあの界隈には、言わずもがなめったに用はない。日ごろ見知った坂を越えたあたりからだんだんと落ち着きをうしなったが、いよいよお邸に到着し立派な書斎に案内されると、僕は氏を待つあいだ、すすめられた椅子に縮こまって、ピークに達した緊張を押しこめぼんやり四方を見回すばかりだった。
入ってきた玉尾氏は和服の着流しだった。飾らず、じつにこざっぱりとしていらっしゃった。一度お会いしたきりで特に詳しい印象に残っていなかったが、いかめしい肩書きにはまるで似合わぬ非常に愛想のいいあいさつと笑顔を向けてくださって、こんなに穏やかな紳士だったかと、それまでの緊張もあいまってか少々拍子抜けがしたほどだった。
「きみが弓削鼎君ですね」
いつの間に覚えてくださったか、氏は僕をフルネームで呼んだ。
「水野君から聞いていますよ」
そばに見るとほんとうに長身で、僕も肉体に自信はないほうだったが氏はそれより瘦せていた。病弱の感はどうしても否めない。ほっそりとした白い腕を差し出され、僕はどきどきしながら握手をした。それからあらためて自己紹介やこのたびの来訪の経緯など述べようとしたが、こういうときにもっとも口下手が出るのである。これでよくも大勢の前で教壇に立っているものだと自分でも恥ずかしくなったが、助かったことに、どうも氏は僕の事情をあらかた承知していらっしゃるようだった。僕の不眠に悩まされるようになったいきさつを、氏は京子の夭逝についてまずあたたかな哀悼の意をあらわすことで理解を示してくださった。それでずいぶん楽になった。
氏は僕と差し向かいになると、ご自身の体験され、あるいは現在においても続いている不眠の苦しさ悩ましさを僕に語って聞かせてくださった。氏の症状は一高時代からの筋金入りで、服用歴が長いのと常習性によって、今では強力な催眠剤をのんでも数日のあいだろくに眠りを取れないこともある。売薬業者の卸す一般の催眠剤では思うように効かぬから、あまりひどい場合には薬局に頼んで特に専用の薬を調合してもらったりするというお話で、それに引き比べれば僕の具合など焦慮に値しないような気もしたが、それでも苦しいことに変わりはないので大いに共感しながら傾聴した。氏はそれから、アダリンやジヤールやヴェロナールやカルモチン、ブロームラールといった催眠剤を紹介し、その効果のほどや副作用について説明し、僕の症状や基礎疾患の有無や健康状態など丁寧に尋ねたうえで、最初に服用すべき薬とその量と注意点とを詳しく指南してくださった。素人目にはほとんど医者と変わらぬ氏の博識ぶりに僕はすっかり舌を巻いた。
「眠れないというのは程度によらず、つらいものでしょう」
ひととおりの説明がすむと、氏はにこにこと笑って、
「あとで持ってこさせますからお持ち帰りなさい」
と、僕にすすめた薬の名をドイツ語でさらりと紙に書くのだった。本式の処方箋を見ているようだった。
間もなく氏は暗い不眠の話題を転じた。氏の座談の巧みさはうわさには聞いていたし僕も知っていたつもりだが、面と向かってその弁舌のすばらしさにふれ、僕の緊張はあたかもはじめからなかったようにほぐされてしまった。聴衆をよろこばす「玉尾先生」の魅力を、僕はこのとき身をもって感じることができた。僕はうちとけた気持ちでシェイクスピアやワイルドやハウプトマン、ストリンドベリなど、かつての学生時代を回顧しつつそれから小一時間ほども文学について氏と話しこみ、氏の精通しておられる落語や芝居、果ては麻雀談義にも花を咲かせ、まこと楽しいひと時を過ごした。氏の造詣の多方面、そのひとつひとつにおける決して浅薄ではない深みと豊かさにはただ敬服のひと言だった。話題はそれからまた、氏や僕の寄稿する探偵小説雑誌から、近ごろはやりの創作における怪奇、猟奇、幻想趣味、さらには犯罪心理学にもおよんだ。氏は専門が法律であるため、その流れをくんだ犯罪学研究にも意欲を示しておられ、それらを取り入れた随筆なんかもすでに書かれていた。
「ところで、弓削君。あなたはこれから僕が話してみたいと考えていることを、不快に思わずに聞いていただく用意はありますか」
窓外はすでに寒々とした宵闇で、氏はふいにそう言うと、笠のかかった洋燈をそばに引き寄せた。
「もし、きみにお話する機会が持てたら話してみるのはどうだろうかと、じつは先月あたりからずっと思っていたんですよ。すると折よく、きみが手紙をくれたもんですから。……どうですか、弓削君。聞いていただく気は」
「ええ、あります。はい。なんのお話でしょうか?」
「きみには少々、さっきも言ったとおり、あまり楽しくない内容だと思います。けれども聞いていただく価値は、僕にはどうもあるように思うんです」
「でしたら、なおのことです。先生。お聞かせ願います。僕のことはお気になさらず」
「きみは、五城時次君をご存知ですね」
「えっ、五城を?」
突然に氏の口から五城の名が出たので、僕はかなりおどろいた。
「ええ。ええ、もちろん。知っているどころじゃありません。彼とは僕はとても親しくしています。しかし、なぜ彼を?」
「僕は、彼のお父上の五城博士と、少しばかり面識があるんでしてね。僕が犯罪心理に興味があるので、時折お会いするんですよ。我が国における現在の心理学研究といって、博士はまず三指のうちに必ず挙がる方です。それで――、令息の時次君のことも折々話にのぼる関係上、僕は彼の勤めている会社にいる知人から先だってに彼がかかわった――そう、すみません、きみの――奥様が遭われた例の災難について多少概略を耳にしました。その件は全国紙には載りませんでしたが、K温泉の群新聞には掲載されましたね。きっときみも読まれたでしょう。僕は知人から話に聞いた際、ごく個人的な興味から、後日その新聞を手もとに取り寄せました。とんだ野次馬根性ときみに思われてしまっては非常に心苦しいですが、そうではなく、ただもう少し詳しい、正確なところを知ってみたかったのです。きみの奥様の死に関して最初に話を聞いたとき、僕はちょっとした偶然の思いつきから、ある特異な考えを頭によぎらせたからです。
それで弓削君。きみは僕の書いたささやかな探偵小説をいくつか、読んでくれたことがあるそうですね」
「ええ、はい。拝読しましたが……」
「気に入ってくれましたか」
「え? ええそれは、もちろん」
「人からはよく、探偵小説にしては地味だと苦笑されますよ」
「確かに、ほかの華やかな作と比べると彩りや演出といった点では目立たないかもしれません。ですがそのぶん、先生の書かれるものはどれもするどい論理と迫真に満ちています。僕にはああいうものは書けませんから、非常に感心しながら読みました」
「けれど僕の創作に出てくるようなことが、小説の世界のみならず現実に起こる可能性を、きみは今まで自分で考えてみたためしはありますか。つまり――きみ自身に起きる場合を、想像してみたためしはありますか」
玉尾氏は真っすぐ僕を見つめていた。反応をうかがっているようだった。だが僕は戸惑い、これには返事ができなかった。質問の意図がのみこめなかった。
氏は微笑し、洋燈の光のなかから、諭すように言った。
「さあ、弓削君。せっかくです。あなたには少年たちを魅了する、若いすばらしい想像力があるでしょう。ひとつ、それをはたらかしてみませんか。小説だけでなく現実の問題に、そのゼーレを使ってみるんです。弓削君――
きみは奥様の災難についてどう思いますか。疑問はありませんか。不満はありませんか。つまり――
奥様の死は、単なる純粋の事故死だったと、きみは信じていますか?」
氏の言葉が、僕の体内に銅鑼の音のように反響した。
僕は椅子からすべり落ちそうになった。氏の微笑を前にぽかんとだらしなく口をあけ、閉じ、またあけ、
「なんですって――?」
ようやく声に出した。
「京子が――妻の死は、事故死ではないとおっしゃるんですか? いいえ、そんなはずはありません、先生。事故死ではなく他殺だなんて、そんなはずはありません」
「僕は他殺とは言っていませんよ、きみ。他殺というのは一般に、被害者以外の何者かが物理的に手をくだして被害者を死に至らしめた場合をさしますね。切ったり刺したり、絞めたり殴ったり狙撃したり、被害者に対する実際の行為が被害者を死なせたとき、僕らはそれを抵抗なく他殺と呼ぶでしょう。
しかし僕がここに言うのは、そういった尋常一般の他殺ではなく、奥様の亡くなられたのはほんとうに不慮の事故が原因であったのか、ということです。不慮の事故というのは、真に推しはかることのできなかった偶発的な惨事ですね。天災なんか、そうでしょう。被害者を含め、ほかのだれにも十分な予測の為し得なかった出来事を、僕らは普通、不慮の事故と考えます。
では奥様のケースはどうでしょうか。彼女の死は『不慮の事故死』とされています。ですが、その死になんらかの外的な意図がもしも存在していたとするならば、それは不慮ではなくなります。僕たちはその外的な意図を、仮に殺意と呼んでもいいでしょう。今回、奥様の遭われた硫化水素による中毒という災難に関し、被害者である奥様ではない何者かによるそういった悪意は、絶対に介在していなかったと、果たして僕らは言い切ることができるでしょうか。つまり、奥様の身にふりかかるかもしれない災厄の発生可能性は、あの際、絶対にだれにもまったく予測不能であったと、果たしてこのたびの検案結果は証明できているでしょうか?」
「証明――できていないのですか? 先生、あそこの温泉から出る硫化水素ガスの危険性については、向こうの人々はある程度に承知していました。承知していましたが、それによって死に至る場合がほとんどないので宿の人間も油断していたのではないですか。でしたら、今先生のおっしゃったような『不慮の事故』に、まさしくそれは該当するのではないでしょうか。あちらのだれにも、宿泊した客が硫化水素の危険性をじかにこうむって死ぬとは予測し得なかったのです。十分な予測ができず、注意をおこたったがために、京子は事故に遭ったのではないですか」
「ええ。硫化水素の危険性、という点のみに絞って言うなら、そうですね。彼らは有毒ガスの危険性を認知していましたが、それに対する配慮が十分でなかったために、奥様を事故によって死なせたと言えるでしょう。しかし――奥様の亡くなられた真因は、硫化水素の危険性というその一点のみでしょうか。彼女が重度の中毒症状を起こしたそのもっとも肝要の真因というのは、硫化水素ガスの危険性だけでなく、むしろ――彼女が湯殿の換気口を手ぬぐいでふさいでしまった、という点にあるのではないですか? 仮に奥様がそんなことをしなければ、空気は通常のとおり循環しますから、奥様は高濃度の有毒ガスを吸引せずにすんだはずですね」
「それは。ええ、そうでしょうけれども……」
「問題はそこにあるのではないかと思うのです。奥様自身が、湯殿の換気口を故意にふさいだとみられる点です。湯殿の換気口をわざわざ手ぬぐいで閉じてしまうというのは、確かにちょっとありえそうにもない事態に思えます。しかし――それは真に予測不可能な事態だったでしょうか? 硫化水素による中毒症状の発生が、その有毒性や危険性を知る者にとっては想定しうる事態であるように、奥様が換気口をふさぐこと、そしてそうすることによって中毒死に至るという事態も、場合によっては――人によっては――十分想定することができたのではないでしょうか? たとえば奥様の日ごろの言動や思考や性質をよく把握していれば、そしてその把握している人間が非常に頭の良い人物であったなら、その想定に至るのはそうむつかしい芸当ではなかったように思うのです。そして、もしそうだとするなら、弓削君。その想定を為し得た可能性のある人物に、きみは心当たりはありませんか?」
「ちょ――ちょっと待ってください。先生、あなたは……あなたはまさか……まさか……」
僕は自分の顔が急速に青ざめていくのを感じていた。声を詰まらして言った。
「もしかして、五城――彼とおっしゃるのですか? 彼なら、京子が換気口を閉じる行為に出ること――それから起こりうる恐ろしいことを――十分予想できたはずだと、そうおっしゃるのですか?」
氏は肯定も否定もしなかった。だがその表情に否定の色はなかった。僕は慌てた。
「とんでもないことです、先生。予想できたのであれば、五城はことが起こる前に止めたはずです。予想できなかったから、ああいう悲劇が起きたのです。実際彼は言いました、『まさかこうなるとは思わなかった』と。そう言って僕に謝ったのです。宿の人間や管理組合と同じように、硫化水素の毒性を彼は確かに知っていたそうですけれども、京子が換気口をふさいでしまうとは思わずその毒性を彼女には話さなかったのです。いくら五城が京子をよく知っていたからって――そこは僕も認めますけれども――しかし、あの偶然に出来上がった状況下においてこのあと彼女が換気口を閉じるかもしれないなどと、そんな突拍子もない予想をどうして彼に立てられますか。仮に五城ではなく、夫として彼女をもっともよく知っていたはずの僕があの場にいたとしても、僕は自信を持って申し上げますが、そこまでは考えおよばなかったはずです。そんな予想は立てられなかったはずです」
「きみにはそうでしょう、そんな恐ろしい想定はきみには為し得なかったでしょう。なぜならきみは、奥様が換気口を閉じるに至った状況を『偶然に出来上がった』とたった今、表現しましたから。きみがもし奥様とともにかの地へおもむいた場合、きみは奥様を大切にするほか何も知らず、何も考えず、ただ流れのままに身を任して過ごしていたはずです。それがいけないというんじゃありません。それこそ当然です。ですが、もしきみが時次君の代わりにそうして奥様とご一緒だったなら、奥様はああした事故にはそもそも遭われなかったかもしれない、と考えるのは、少々行き過ぎた想像でしょうか?」
「どういうことですか……? 玉尾先生――先生は何をおっしゃろうとなさっているのです。先生は、妻が換気口を閉じようと思い立ったその状況は偶然ではなく、故意に作られたものとお考えなのですか? そして、その状況は彼――五城によって作られたものとお考えなのですか? まさか――そんなはずはありません。断じてそんなはずはありません」
「きみ。奥様は、K温泉の土産物屋で買った香を焚いていたのでしたね。女中が彼女のいた特別室からその香りがただよってくるのに気づいて、悲劇が発覚したのでしたね」
「ええ」
「奥様の遺体が発見された際、時次君は宿にいなかった。その時分、彼は湯畑の居酒屋で管理組合からの歓待を受けていてちょうど留守だった。そのことは奥様も宿の人間も知っていた。また、換気口に詰めこまれていた手ぬぐいは奥様があとから頼んで持ってこさせた予備のもので、奥様や時次君の手ぬぐいではなかった」
「そうです」
「そして奥様の焚いていた問題の香は、記事によると、奥様が欲しがったので時次君が購入してやったそうですね」
「ええ、そうです。購入した店の主人がそう話したのです」
「果たしてほんとうにそうだったのでしょうか? 弓削君、物事は疑おうと思えばいくらでも疑えるものですね。もし時次君が、奥様がその香を欲しがるよう、彼女を誘導していたとしたらどうなるでしょう。時次君が奥様に、店の主人の知らないところで、いやだれも見知らぬところでその香の購入をすすめていたとしたら話はどうなるでしょう。その場合、奥様は自らの意思で香を欲したのではなく、時次君に扇動された結果それを欲しがるようになった、という表現のほうが適切になってきます。
……弓削君。もし奥様があの香を手に入れなかったら、奥様は湯殿の換気口をふさぐことなど思いつきもしなかったのではないでしょうか。換言すれば、奥様が時次君とふたりでかの地を散策していた際にあの香を購入したことが、奥様を死なせた、そのもっとも重大な引き金となったのではないでしょうか。僕は断言はしません。あくまで想像の話をしています。僕自身の興味と道楽も多分に混じっています。ですからそのおつもりで聞いていただきたいのです。
時次君は、奥様を中毒死へといざなった実質的な行動には無関係だったかもしれません。ですが考えようによっては、想像のはたらかせ方によっては……彼は、奥様を死なせるに至った重大な引き金のほうには、非常に深く関係しているのです。そしてそれはこの場合、どのような仮定を帯びることができるでしょう」
氏は言葉を切った。細長い両の指を組み合わせ、僕を見てひとつ、うなずいた。
「立証できない殺人――というのがあります。僕は職業柄、一介の法律家として、自分の小説を書くに当たってはいくつかそんなテーマを扱いました。いったい、世の探偵小説というのは、とかくその犯人が派手に人を殺しがちです。ちょん切ったりひと突きしたり、つるし上げたり十字架にかけたり、これは殺人だ他殺だと、見つけたものにひと目で教えんばかりの華々しい殺し方をします。無論そのほうが創作上の面白味はぐんと増しますから、読者は惹きつけられるでしょう。
しかし、実地の殺人ではどうでしょうか。仮にきみが、本心から殺してやりたいと考えている相手がいるとして、その彼なり彼女なりをこの世から消す計画を練る場合、どのような方法によってそれを行うことを良としますか」
「そうですね……。なるべく手がかりを残さず、人に知られない方法を選びたいと思うのじゃないでしょうか。派手にやると、それを隠蔽するための工作が増えて、そのぶん証拠が残りやすくなって困ります」
「そうでしょう。まさにそのとおりです。突発的な衝動殺人ではなく計画殺人であれば、よほどのサイコ・キラーか白痴でないかぎり、人は普通自身の犯行が未来永劫露見しないことを望みます。そのために、さてどうすれば自分の罪が明るみにならずすむだろうかといろいろ知恵を絞るわけですが、いわゆる完全犯罪を――あるいはそれに近いものを――遂行するにおいて、立証できない殺人というのは、僕は法律上もっとも安全かつ巧妙な殺人方式ではないかと思うのです。すなわち、自らの犯行であると証明する直接的な証拠を、いっさい残さず殺すのです。
よろしいですか――。ある殺人者にとってもっとも望ましいのは、まず自らをその嫌疑の対象からはずすことです。それを一等優秀な出来ばえであるとして、しかしそれが達成できず二等三等の出来であっても、その殺人者は殺人罪としての罪を法律上、まだ十分のがれ得るのです。
仮に一等をのがして二等になったとしましょう。二等は嫌疑の対象をはずれることができず、自身が被疑者になってしまったという出来ばえです。多くの殺人者はまずこのあたりのテープを切るでしょう。最初から一等を獲るというのは、特に計画殺人においては至難の業です。しかしたとえ被疑者になり、その嫌疑がどれほど濃厚であっても、それは全然絶望に値する問題ではありません。疑惑だけでは法の力は発動できません。
直接的な証拠さえ出てこなければ良いのです。犯行を証明するために必要な直接の証拠が出てこないかぎり、被疑者は被疑者のままです。被疑者のままということはシロでもクロでもないということですが、しかし法律の観点からいうと、シロでもなくクロでもない場合その被疑者はシロなのです。この点は非常に重要でしょう、クロになりさえしなければ良いのですから。検事は証拠がなければ被疑者を起訴できず、起訴できなければ公判に移されません。したがってその被疑者が法律上罰せられることはなくなります。つまり、無罪です。
三等はどうでしょうか。三等は嫌疑の対象をはずれず、かつ起訴されてしまった場合です。殺人者がこの三等のフラッグしか獲得し得ない場合、最大の焦点は『いかにして殺人罪をのがれるか』ということです。仮に起訴されてなんらかの罪に問われても、最悪それが殺人罪でなければ良いという考えです。これは第三者的立場から考えると、罪は罪である以上大した差はないように思えて一見、なんの意味もない妥協案のようですが、殺人者である当人にとってはまったく異なります。自身の罪が殺人罪になるかそうでないかによって、殺人者の受ける体刑は大きく変わるからです。言うまでもなく殺人は非常に重い罪です。無期懲役ないしは死刑が容易に考えられる大罪です。ですが、これがもし殺人罪ではなくたとえば業務上過失致死罪だったらどうでしょう。現行の刑法では三年以下の禁固または千円以下の罰金ですみます。一番重くて三年の禁固刑です。
傷害致死罪の場合はどうでしょう。こちらは刑法第二百五条に三年以上の有期懲役と定められていますが、有期とあるようにまず無期限ではなく、最長で十五年です。ですが傷害致死の場合、量刑が利きますから、判例を参照すれば分かるように実際に最長刑を科されることはあまりありません。場合によっては、執行猶予さえ付いてきます。殺人者の狡知に腕の良い弁護士が合わされば十分可能です。仮に執行猶予付きの懲役であればそれは無罪とほぼ変わりません。現に僕は、女給を死なせて傷害致死罪になり、懲役二年、執行猶予五年によって実刑をのがれた男の例を知っています。僕は確信はしませんが、あれは殺人罪に値したという信念は今も持っています。
どうですか。相手を死に至らしめたという点が同じでも、その他さまざまの判断材料によっては罪の軽重はこれだけ変わるのです。終身刑だの絞首刑だの、もっとも深刻な刑を負わされる殺人罪に比べたら、禁固三年や数年の懲役など、どうもずいぶんましに聞こえるじゃありませんか。それだって公判廷での審議次第で十分軽減の可能性がある。殺人者は自らの行為が殺人であったという証明さえまぬかれれば、殺人をして殺人に問われずすむわけです。よし罰せられることになっても、殺人罪でさえなければ、最悪の場合でも実際の罪より軽い刑罰ですむのです。法律の限界というのは、こうしたところに常に存在します。人間が考え出した以上法律は決して完全ではない。必ず欠点はあり、その欠点を刺しつらぬく透徹した叡智を備えた殺人者だけが、殺人の罪をのがれうるのです。
ひとつ、そうした頭の良いすぐれた殺人者によって為された、立証できない殺人の成功例を挙げてみましょうか。これは割合に単純な一例ですけれども、分かりいいので話してみます。
ある男が、その愛人である女を殺したいと思いました。その殺意を男は絶対秘密にし、だれにも悟られぬよう注意していました。男は僕のようにひどい不眠症持ちでした。非常に強い催眠薬を常用しており、男が毎晩のようにのみくだすその薬の量は、男のような常用者でない一般の人間にとっては優に致死量を超えていました。
ある日、男は愛人の女がひとりで暮らす家の戸棚に、自分の服用している強い催眠薬の粉末を盛った盆を置いて、ちょうどそのとき風邪で寝こんでいた女を見舞い、女のもとを去りました。女は翌日、家のなかで死体となって発見されました。多量の催眠薬を嚥下し、目覚めることなく死に至ったのです。女は男の置いていった催眠薬を、数日のあいだ自身がのんでいた風邪薬とあやまって服用したとみられたのでした。女の本来のむはずだった風邪薬は事実、戸棚に残ったままでした。それは催眠薬があったのと同じ二段目に、やはり盆に盛られた状態できちんと置かれてあったのです。
事件はこれだけです。女の死は彼女自身による不慮の過失とされました。男の置いていった致死量の催眠薬と、女の処方された風邪薬が色、量ともに酷似していたことが、熱に意識をもうろうとさせていた女にあやまって催眠薬のほうをのませたという結論になったのです。
お分かりでしょう。もちろん男は、女が自分の催眠薬を誤飲してくれることを願って女を見舞い、風邪薬の置いてあった戸棚にそれを残して去ったのです。女がたまたま高熱を出して寝こみ、処方された風邪薬が自分の催眠薬とそっくりであることに気づいてそれを利用したのです。しかしこの場合、男が女に対して殺意を持っていたと立証するのは法律上極めて困難です。男が女を見舞っていた際、ふたりの会話を聞いていた者はいません。男が置いていったのは自分が常用している薬です。それは愛人の女にとって致死量でしたが、それを女のもとに置いて去ったからといって、その行為は男に殺意があったという証拠にはなりません。男は警察の取り調べに対しこう申し立てています。
『あの催眠薬は、今後彼女の家に泊まる際自分でのもうと思って、彼女の見舞いついでに前もって持参したのです。彼女が風邪薬とまちがえて服用する懸念はいだけませんでした。まさかそんなことが起こるとは思わないじゃありませんか。だって僕が普段のんでいる催眠薬を、彼女は何度も見て知っていたのですから』
そう言われては、男のその供述をくつがえせないかぎり男に殺意はなかったということになります。けれども、くつがえそうにも当事者である男と女のほかだれも目撃者がないのですから、いくら検事にもどうにもなりません。致死量に相当する催眠薬をのんだのは確かに女自身が自ら選んでやったことです。男は催眠薬を戸棚に残していっただけです。そしてその残していくという行為に殺意が証明できないとなれば、男を起訴するために必要な直接の証拠はないも同然です。男はなんの他意もなく、ただ自分が後日にのむつもりで催眠薬を残していったところを女のほうがあやまってのみくだしたとする以外、仕様がないのです。多少の過失は認められるでしょうが故意は証明できません。結局男は起訴されることなく終わりました。
どうですか――弓削君。こんな例を挙げて考えてみると、ちょっと妙な気分にもなってきやしませんか。いったい僕は、世にしばしば起こる転落事故や滑落事故、服毒事故や交通事故、そして中毒事故――そんな事案のうちいくつかには、何かしら良からぬ意図が含まれていたのじゃないかしらとうたぐってみたくなるんですよ。
ところで今、お話した愛人を見事に消してみせた男ですが、じつは僕と同じ中学の出身でしてね――無論、かかわりのない後輩のひとりですが――非常な秀才で、女の心理を読むのがそれは得意で、現在でもバアに行けば大変もてる、カッフェーに行けばなじみの女給たちに取りかこまれるといったありさまだそうです。そしてそれは僕にはとてもよくうなずけることなのです。なぜって、きみ――。
立証し得ぬ殺人は、それをこころみる者にさまざまな条件を提示します。並の人物では成功しません。なかでも僕は、その人物にはまず人間心理に対するするどい洞察と、その心理を我が物としてあやつる技巧が絶対に不可欠だろうと常々思っているのです。心理学です。殺人とはある種、心理学の応用試験なのですよ。……」
氏は重ねた指を組み直した。ひと呼吸のあと、ふたたび目を上げ、僕を見た。
「ときに……五城時次君は、学生時代からその秀才逸材で有名だったそうですね」
僕は椅子の上でびくっと動いた。いつしか汗ばんでいた背中を垂直にし、
「ええ……」
恐れるように答えた。
「同窓のうちで彼を知らぬ者はいなかったと思います。常に成績優良でしたし、人望も集めていました」
「まさに前途有為ですね。僕は知人からもそう聞いています。しかし今回のことで、会社からおとがめはありませんでしたかね」
「何もなくすんだようです。僕もそのあたりは心配して、彼の上役に一筆書き送ろうかと提案したのですが彼が必要ないと言ってことわったので、まあだいじょうぶだと思っておりました」
「では万事問題なかったのですね」
「はい」
「よろしい。首尾よく落ち着かれたのであれば、時次君にとってもけっこうなことです。少々首尾が良すぎるほどです。しかしきみは、じつにつらい目に遭われたことでしょう」
「ええ。それは、そうです。大変ショックを受けました。ですがこの数ヵ月は何かといろいろな処理に追われてごたつきまして、仕事も原稿も休めませんし、そういつまでもかなしんでいる暇もありませんでした。……」
「きみの不眠も、素人判断ですけれども、やはりこのたびのことに関するそうした心的負荷が一番の要因ではないかと思いますね」
「ええ。自分でもそう感じます」
「僕は、弓削君。きみがなぜ、きみの奥様を時次君とふたりきりの旅行にすすんでついてゆかせたのか、そしてそれについてなぜなんの不安も感ぜずにいられたか、そういった微妙な点については無論何も知りません。お尋ねするつもりもありません。けれどもひとつ言わしていただけるのであれば……よろしいですか」
「ええ、先生」
「時次君は、五城博士という我が国最高峰の心理学者をお父上に持っています。博士の書庫に並べられている専門書を僕は見たことがありませんが、およそありとあらゆる人間心理に関するその古今の蔵書の価値は見ずとも推察できます。そして時次君は幼少のころからそれらのすばらしい資料を、おそらくは彼の好きなとき、好きなだけ読むことができたはずですね。そうなると現在までに、心理学における彼の知識というのはいったいどれほどになっていると予想できるでしょうか」
「先生――……」
僕は少々憤慨し、椅子から腰を浮かした。だが背筋を汗がつたったのですぐと我に戻り、赤くなって座り直した。
「玉尾先生。やっぱりあなたは、妻の死に疑問をいだいておられるのですね。妻が死んだのが断然不慮の過失による中毒死だったか、あなたは疑っていらっしゃる。妻は、先ほど先生のおっしゃった立証為し得ぬ殺人によって間接的に殺されたのではと考えていらっしゃる。そして五城のような恵まれた天才であれば、その立証為し得ぬ殺人も平然とやってのけられるとお考えなのですね――。
先生。あなたはだれもが認めるところの、卓越された驚嘆すべき頭脳をお持ちです。先生の理知の前には、僕の考えることなど足もとにもおよびませぬ。法律の知識に関して言うならさらにそうです。心理学についても同様です。けれども唯一、先生はこの件だけはみあやまっておられます。なぜというに、先生は僕らの関係をご存知でいらっしゃらない。今しがたご自身がおっしゃったように、僕がなぜ京子を――妻を五城との旅行にふたりだけで行かせることを望んだか、その理由をご存知ない。のみならず、かねて僕と五城と生前の妻とのあいだに成り立っていたあの微妙至極な、説明に尽くしがたい――僕らの――ことに僕と妻とのあいだに横たわっていたあの繊細な感情の図式を、先生はご存知ないのです。だから先生は五城を、先生が例証してくださったその愛人殺しの男と同じような、世にも恐るべき殺人者に仕立てあげることができるのです。
お聞きください、先生。五城はちがいます。僕は彼の名誉のために申し上げます。先生はもっとも重要な大前提を知らずにおられるのです。それというのは、五城には動機がありません。妻を殺すどんな微々たるモーティブも彼にはひとつもありません。妻を殺そう、殺したいなどという考えが、これまで彼の頭に浮かんだことは一度としてなかったと僕は胸を張って保証できます。だからこそ僕は安心して妻を送り出したのです。生前の妻の心、そしてその妻の心を受けての五城の苦悩を、僕が夫として精一杯忖度した、ふたりのK温泉行きはその結果なのです。遠回しの表現をお許しください。ですが五城に妻を殺す動機がみじんもなかったことは、これで十分お分かりいただけたはずです」
氏は組んでいた指をほどいた。僕の話を聞くあいだつむっていた目をあけると、どこか意味ありげなまなざしを向けて尋ねた。
「弓削君。きみが、そうまでして熱く時次君をかばうのは、なぜですか?」
「なぜ。なぜって……」
「彼がきみの友人だからでしょうか」
「そうです。もちろん、そうですよ。そして五城に関してはただの友人ではありません。学生時代からの親友です。生涯の友と誓い合った仲です」
「在学当時から今に至るまで、変わらずその関係を築いているのですか」
「ええ。僕はあいつに多くの借りがあるんです。あれほど出来た男はなかなか見つからないと思います」
「時次君は独身でしたね」
「ええ、はい。そうです」
「結婚歴もありませんね」
「ありません」
「彼に妻帯の希望はあるのですか? 今回のことはすべて脇においておくとして、です」
「さあ、それは……」
「以前に五城博士からちらとうかがったかぎりでは、本人にまるでそんな意思がないようで困っているそうです。時次君であれば引く手あまたのはずですが」
「そうですね。僕もその種の話はまだ彼から聞いたことがありません。ですが五城なら、その気があればいつでも良い結婚ができるでしょう」
「すると思いますか?」
「えっ?」
「時次君が、自ら望んで結婚をすると思いますか?」
「さあ、僕には。そこまでは……分かりませんが」
「分かりませんか」
「あの、先生。どういう意味でしょう? なぜそんなことをお尋ねに……」
氏はうろたえる僕の顔を黙って眺めるばかりだった。含みを帯びた視線がそそがれた。だが間もなくゆるりとかぶりを振ると、
「すみません。僕は少し、きみをいじめすぎたようです」
と薄笑みを浮かべた。
「昨夜だいぶアダリンをのみましてね。きょうは一日じゅう、その副作用で倦怠に沈んでいたのです。そこへ、きみのような文学味のあるロマンティックな青年が現れたでしょう。さあ来たぞとつい思うがままを話し散らし、きみの困る姿を目に留めてはほの暗い楽しみを覚えていたわけです。どうか悪く取らないでください」
「はあ」
「奥様の件についてきみにお話した内容は、言ってしまえば全部僕の想像です。僕はそのことについて確たる根拠を持ってお話したのではなく、第三者的目線から、あくまで可能性のひとつとして提示してみたのです。ですからきみがその可能性を理解し、かつ否定できるのであれば僕は満足です。これ以上、何事も申し上げますまい。お伝えしたことは無論きみにしか知らせていません。今後も他言するつもりはありません。僕としては、きみの不眠が早期に治るよう、その道の先達としていつでも手を貸す用意があるだけです」
「ありがとうございます。先生。とっても助かります。……」
僕は深々と頭を下げた。氏のすすめてくださった催眠剤を受け取り、書斎を辞すとき、氏は椅子を立ちあがって言った。
「連載は大変でしょうが、どうぞ頑張ってください。僕の息子は、きみの小説の熱心な読者なのですよ。おとうさんの書くものよりずっと面白いとずいぶん言うので、じつは息子に隠れて僕も拝読しています」
「えっ……」
僕は赤面した。
「先生、あれを読まれているのですか」
「ええ。世辞じゃありません。ほんとうに読んでいます」
「そうでしたか。僕はそうとは知らず、その、恐縮です」
「なかなかよく考えられていると思います。少年受けのするスパイものにしては、あまり通俗にかたむきすぎていませんね。読者の幅が広がって、かえってよろしいと感じます」
恐縮のあまり僕は頭をかいた。洋燈から伸びるあかりのためか、氏が目の奥をきらと光らしたように見えた。
「面白いですよ」
氏は僕へ握手を求めながら、しかしにこやかにこう言うのだった。
「主人公の絡む法律問題について、少々いただけないあやまりは散見されますが――まあ、きょうのところは指摘せずにおきましょう。長くかかりますから。またいずれ、じっくり申し上げましょう。……」
いたずらっぽく目を細められた玉尾氏の手を握り返し、僕はまったく恐れをなしてお邸をあとにしたのだった。氏のにこやかなほほえみが、あのファウストに登場してくるメフィストフェレスをなぜか思い起こさせて……氏の声音が低く、長く、外へ出た僕をなおもふしぎな効力でもって、地上の快楽のため惑わしているようだった。
懐中に催眠剤を忍ばせ、僕は自分のあの家に帰宅する気にはまだなれず、来た道を坂へと向かって歩いていった。空には星がにじんでいた。
高級住宅の立ち並ぶあの界隈には、言わずもがなめったに用はない。日ごろ見知った坂を越えたあたりからだんだんと落ち着きをうしなったが、いよいよお邸に到着し立派な書斎に案内されると、僕は氏を待つあいだ、すすめられた椅子に縮こまって、ピークに達した緊張を押しこめぼんやり四方を見回すばかりだった。
入ってきた玉尾氏は和服の着流しだった。飾らず、じつにこざっぱりとしていらっしゃった。一度お会いしたきりで特に詳しい印象に残っていなかったが、いかめしい肩書きにはまるで似合わぬ非常に愛想のいいあいさつと笑顔を向けてくださって、こんなに穏やかな紳士だったかと、それまでの緊張もあいまってか少々拍子抜けがしたほどだった。
「きみが弓削鼎君ですね」
いつの間に覚えてくださったか、氏は僕をフルネームで呼んだ。
「水野君から聞いていますよ」
そばに見るとほんとうに長身で、僕も肉体に自信はないほうだったが氏はそれより瘦せていた。病弱の感はどうしても否めない。ほっそりとした白い腕を差し出され、僕はどきどきしながら握手をした。それからあらためて自己紹介やこのたびの来訪の経緯など述べようとしたが、こういうときにもっとも口下手が出るのである。これでよくも大勢の前で教壇に立っているものだと自分でも恥ずかしくなったが、助かったことに、どうも氏は僕の事情をあらかた承知していらっしゃるようだった。僕の不眠に悩まされるようになったいきさつを、氏は京子の夭逝についてまずあたたかな哀悼の意をあらわすことで理解を示してくださった。それでずいぶん楽になった。
氏は僕と差し向かいになると、ご自身の体験され、あるいは現在においても続いている不眠の苦しさ悩ましさを僕に語って聞かせてくださった。氏の症状は一高時代からの筋金入りで、服用歴が長いのと常習性によって、今では強力な催眠剤をのんでも数日のあいだろくに眠りを取れないこともある。売薬業者の卸す一般の催眠剤では思うように効かぬから、あまりひどい場合には薬局に頼んで特に専用の薬を調合してもらったりするというお話で、それに引き比べれば僕の具合など焦慮に値しないような気もしたが、それでも苦しいことに変わりはないので大いに共感しながら傾聴した。氏はそれから、アダリンやジヤールやヴェロナールやカルモチン、ブロームラールといった催眠剤を紹介し、その効果のほどや副作用について説明し、僕の症状や基礎疾患の有無や健康状態など丁寧に尋ねたうえで、最初に服用すべき薬とその量と注意点とを詳しく指南してくださった。素人目にはほとんど医者と変わらぬ氏の博識ぶりに僕はすっかり舌を巻いた。
「眠れないというのは程度によらず、つらいものでしょう」
ひととおりの説明がすむと、氏はにこにこと笑って、
「あとで持ってこさせますからお持ち帰りなさい」
と、僕にすすめた薬の名をドイツ語でさらりと紙に書くのだった。本式の処方箋を見ているようだった。
間もなく氏は暗い不眠の話題を転じた。氏の座談の巧みさはうわさには聞いていたし僕も知っていたつもりだが、面と向かってその弁舌のすばらしさにふれ、僕の緊張はあたかもはじめからなかったようにほぐされてしまった。聴衆をよろこばす「玉尾先生」の魅力を、僕はこのとき身をもって感じることができた。僕はうちとけた気持ちでシェイクスピアやワイルドやハウプトマン、ストリンドベリなど、かつての学生時代を回顧しつつそれから小一時間ほども文学について氏と話しこみ、氏の精通しておられる落語や芝居、果ては麻雀談義にも花を咲かせ、まこと楽しいひと時を過ごした。氏の造詣の多方面、そのひとつひとつにおける決して浅薄ではない深みと豊かさにはただ敬服のひと言だった。話題はそれからまた、氏や僕の寄稿する探偵小説雑誌から、近ごろはやりの創作における怪奇、猟奇、幻想趣味、さらには犯罪心理学にもおよんだ。氏は専門が法律であるため、その流れをくんだ犯罪学研究にも意欲を示しておられ、それらを取り入れた随筆なんかもすでに書かれていた。
「ところで、弓削君。あなたはこれから僕が話してみたいと考えていることを、不快に思わずに聞いていただく用意はありますか」
窓外はすでに寒々とした宵闇で、氏はふいにそう言うと、笠のかかった洋燈をそばに引き寄せた。
「もし、きみにお話する機会が持てたら話してみるのはどうだろうかと、じつは先月あたりからずっと思っていたんですよ。すると折よく、きみが手紙をくれたもんですから。……どうですか、弓削君。聞いていただく気は」
「ええ、あります。はい。なんのお話でしょうか?」
「きみには少々、さっきも言ったとおり、あまり楽しくない内容だと思います。けれども聞いていただく価値は、僕にはどうもあるように思うんです」
「でしたら、なおのことです。先生。お聞かせ願います。僕のことはお気になさらず」
「きみは、五城時次君をご存知ですね」
「えっ、五城を?」
突然に氏の口から五城の名が出たので、僕はかなりおどろいた。
「ええ。ええ、もちろん。知っているどころじゃありません。彼とは僕はとても親しくしています。しかし、なぜ彼を?」
「僕は、彼のお父上の五城博士と、少しばかり面識があるんでしてね。僕が犯罪心理に興味があるので、時折お会いするんですよ。我が国における現在の心理学研究といって、博士はまず三指のうちに必ず挙がる方です。それで――、令息の時次君のことも折々話にのぼる関係上、僕は彼の勤めている会社にいる知人から先だってに彼がかかわった――そう、すみません、きみの――奥様が遭われた例の災難について多少概略を耳にしました。その件は全国紙には載りませんでしたが、K温泉の群新聞には掲載されましたね。きっときみも読まれたでしょう。僕は知人から話に聞いた際、ごく個人的な興味から、後日その新聞を手もとに取り寄せました。とんだ野次馬根性ときみに思われてしまっては非常に心苦しいですが、そうではなく、ただもう少し詳しい、正確なところを知ってみたかったのです。きみの奥様の死に関して最初に話を聞いたとき、僕はちょっとした偶然の思いつきから、ある特異な考えを頭によぎらせたからです。
それで弓削君。きみは僕の書いたささやかな探偵小説をいくつか、読んでくれたことがあるそうですね」
「ええ、はい。拝読しましたが……」
「気に入ってくれましたか」
「え? ええそれは、もちろん」
「人からはよく、探偵小説にしては地味だと苦笑されますよ」
「確かに、ほかの華やかな作と比べると彩りや演出といった点では目立たないかもしれません。ですがそのぶん、先生の書かれるものはどれもするどい論理と迫真に満ちています。僕にはああいうものは書けませんから、非常に感心しながら読みました」
「けれど僕の創作に出てくるようなことが、小説の世界のみならず現実に起こる可能性を、きみは今まで自分で考えてみたためしはありますか。つまり――きみ自身に起きる場合を、想像してみたためしはありますか」
玉尾氏は真っすぐ僕を見つめていた。反応をうかがっているようだった。だが僕は戸惑い、これには返事ができなかった。質問の意図がのみこめなかった。
氏は微笑し、洋燈の光のなかから、諭すように言った。
「さあ、弓削君。せっかくです。あなたには少年たちを魅了する、若いすばらしい想像力があるでしょう。ひとつ、それをはたらかしてみませんか。小説だけでなく現実の問題に、そのゼーレを使ってみるんです。弓削君――
きみは奥様の災難についてどう思いますか。疑問はありませんか。不満はありませんか。つまり――
奥様の死は、単なる純粋の事故死だったと、きみは信じていますか?」
氏の言葉が、僕の体内に銅鑼の音のように反響した。
僕は椅子からすべり落ちそうになった。氏の微笑を前にぽかんとだらしなく口をあけ、閉じ、またあけ、
「なんですって――?」
ようやく声に出した。
「京子が――妻の死は、事故死ではないとおっしゃるんですか? いいえ、そんなはずはありません、先生。事故死ではなく他殺だなんて、そんなはずはありません」
「僕は他殺とは言っていませんよ、きみ。他殺というのは一般に、被害者以外の何者かが物理的に手をくだして被害者を死に至らしめた場合をさしますね。切ったり刺したり、絞めたり殴ったり狙撃したり、被害者に対する実際の行為が被害者を死なせたとき、僕らはそれを抵抗なく他殺と呼ぶでしょう。
しかし僕がここに言うのは、そういった尋常一般の他殺ではなく、奥様の亡くなられたのはほんとうに不慮の事故が原因であったのか、ということです。不慮の事故というのは、真に推しはかることのできなかった偶発的な惨事ですね。天災なんか、そうでしょう。被害者を含め、ほかのだれにも十分な予測の為し得なかった出来事を、僕らは普通、不慮の事故と考えます。
では奥様のケースはどうでしょうか。彼女の死は『不慮の事故死』とされています。ですが、その死になんらかの外的な意図がもしも存在していたとするならば、それは不慮ではなくなります。僕たちはその外的な意図を、仮に殺意と呼んでもいいでしょう。今回、奥様の遭われた硫化水素による中毒という災難に関し、被害者である奥様ではない何者かによるそういった悪意は、絶対に介在していなかったと、果たして僕らは言い切ることができるでしょうか。つまり、奥様の身にふりかかるかもしれない災厄の発生可能性は、あの際、絶対にだれにもまったく予測不能であったと、果たしてこのたびの検案結果は証明できているでしょうか?」
「証明――できていないのですか? 先生、あそこの温泉から出る硫化水素ガスの危険性については、向こうの人々はある程度に承知していました。承知していましたが、それによって死に至る場合がほとんどないので宿の人間も油断していたのではないですか。でしたら、今先生のおっしゃったような『不慮の事故』に、まさしくそれは該当するのではないでしょうか。あちらのだれにも、宿泊した客が硫化水素の危険性をじかにこうむって死ぬとは予測し得なかったのです。十分な予測ができず、注意をおこたったがために、京子は事故に遭ったのではないですか」
「ええ。硫化水素の危険性、という点のみに絞って言うなら、そうですね。彼らは有毒ガスの危険性を認知していましたが、それに対する配慮が十分でなかったために、奥様を事故によって死なせたと言えるでしょう。しかし――奥様の亡くなられた真因は、硫化水素の危険性というその一点のみでしょうか。彼女が重度の中毒症状を起こしたそのもっとも肝要の真因というのは、硫化水素ガスの危険性だけでなく、むしろ――彼女が湯殿の換気口を手ぬぐいでふさいでしまった、という点にあるのではないですか? 仮に奥様がそんなことをしなければ、空気は通常のとおり循環しますから、奥様は高濃度の有毒ガスを吸引せずにすんだはずですね」
「それは。ええ、そうでしょうけれども……」
「問題はそこにあるのではないかと思うのです。奥様自身が、湯殿の換気口を故意にふさいだとみられる点です。湯殿の換気口をわざわざ手ぬぐいで閉じてしまうというのは、確かにちょっとありえそうにもない事態に思えます。しかし――それは真に予測不可能な事態だったでしょうか? 硫化水素による中毒症状の発生が、その有毒性や危険性を知る者にとっては想定しうる事態であるように、奥様が換気口をふさぐこと、そしてそうすることによって中毒死に至るという事態も、場合によっては――人によっては――十分想定することができたのではないでしょうか? たとえば奥様の日ごろの言動や思考や性質をよく把握していれば、そしてその把握している人間が非常に頭の良い人物であったなら、その想定に至るのはそうむつかしい芸当ではなかったように思うのです。そして、もしそうだとするなら、弓削君。その想定を為し得た可能性のある人物に、きみは心当たりはありませんか?」
「ちょ――ちょっと待ってください。先生、あなたは……あなたはまさか……まさか……」
僕は自分の顔が急速に青ざめていくのを感じていた。声を詰まらして言った。
「もしかして、五城――彼とおっしゃるのですか? 彼なら、京子が換気口を閉じる行為に出ること――それから起こりうる恐ろしいことを――十分予想できたはずだと、そうおっしゃるのですか?」
氏は肯定も否定もしなかった。だがその表情に否定の色はなかった。僕は慌てた。
「とんでもないことです、先生。予想できたのであれば、五城はことが起こる前に止めたはずです。予想できなかったから、ああいう悲劇が起きたのです。実際彼は言いました、『まさかこうなるとは思わなかった』と。そう言って僕に謝ったのです。宿の人間や管理組合と同じように、硫化水素の毒性を彼は確かに知っていたそうですけれども、京子が換気口をふさいでしまうとは思わずその毒性を彼女には話さなかったのです。いくら五城が京子をよく知っていたからって――そこは僕も認めますけれども――しかし、あの偶然に出来上がった状況下においてこのあと彼女が換気口を閉じるかもしれないなどと、そんな突拍子もない予想をどうして彼に立てられますか。仮に五城ではなく、夫として彼女をもっともよく知っていたはずの僕があの場にいたとしても、僕は自信を持って申し上げますが、そこまでは考えおよばなかったはずです。そんな予想は立てられなかったはずです」
「きみにはそうでしょう、そんな恐ろしい想定はきみには為し得なかったでしょう。なぜならきみは、奥様が換気口を閉じるに至った状況を『偶然に出来上がった』とたった今、表現しましたから。きみがもし奥様とともにかの地へおもむいた場合、きみは奥様を大切にするほか何も知らず、何も考えず、ただ流れのままに身を任して過ごしていたはずです。それがいけないというんじゃありません。それこそ当然です。ですが、もしきみが時次君の代わりにそうして奥様とご一緒だったなら、奥様はああした事故にはそもそも遭われなかったかもしれない、と考えるのは、少々行き過ぎた想像でしょうか?」
「どういうことですか……? 玉尾先生――先生は何をおっしゃろうとなさっているのです。先生は、妻が換気口を閉じようと思い立ったその状況は偶然ではなく、故意に作られたものとお考えなのですか? そして、その状況は彼――五城によって作られたものとお考えなのですか? まさか――そんなはずはありません。断じてそんなはずはありません」
「きみ。奥様は、K温泉の土産物屋で買った香を焚いていたのでしたね。女中が彼女のいた特別室からその香りがただよってくるのに気づいて、悲劇が発覚したのでしたね」
「ええ」
「奥様の遺体が発見された際、時次君は宿にいなかった。その時分、彼は湯畑の居酒屋で管理組合からの歓待を受けていてちょうど留守だった。そのことは奥様も宿の人間も知っていた。また、換気口に詰めこまれていた手ぬぐいは奥様があとから頼んで持ってこさせた予備のもので、奥様や時次君の手ぬぐいではなかった」
「そうです」
「そして奥様の焚いていた問題の香は、記事によると、奥様が欲しがったので時次君が購入してやったそうですね」
「ええ、そうです。購入した店の主人がそう話したのです」
「果たしてほんとうにそうだったのでしょうか? 弓削君、物事は疑おうと思えばいくらでも疑えるものですね。もし時次君が、奥様がその香を欲しがるよう、彼女を誘導していたとしたらどうなるでしょう。時次君が奥様に、店の主人の知らないところで、いやだれも見知らぬところでその香の購入をすすめていたとしたら話はどうなるでしょう。その場合、奥様は自らの意思で香を欲したのではなく、時次君に扇動された結果それを欲しがるようになった、という表現のほうが適切になってきます。
……弓削君。もし奥様があの香を手に入れなかったら、奥様は湯殿の換気口をふさぐことなど思いつきもしなかったのではないでしょうか。換言すれば、奥様が時次君とふたりでかの地を散策していた際にあの香を購入したことが、奥様を死なせた、そのもっとも重大な引き金となったのではないでしょうか。僕は断言はしません。あくまで想像の話をしています。僕自身の興味と道楽も多分に混じっています。ですからそのおつもりで聞いていただきたいのです。
時次君は、奥様を中毒死へといざなった実質的な行動には無関係だったかもしれません。ですが考えようによっては、想像のはたらかせ方によっては……彼は、奥様を死なせるに至った重大な引き金のほうには、非常に深く関係しているのです。そしてそれはこの場合、どのような仮定を帯びることができるでしょう」
氏は言葉を切った。細長い両の指を組み合わせ、僕を見てひとつ、うなずいた。
「立証できない殺人――というのがあります。僕は職業柄、一介の法律家として、自分の小説を書くに当たってはいくつかそんなテーマを扱いました。いったい、世の探偵小説というのは、とかくその犯人が派手に人を殺しがちです。ちょん切ったりひと突きしたり、つるし上げたり十字架にかけたり、これは殺人だ他殺だと、見つけたものにひと目で教えんばかりの華々しい殺し方をします。無論そのほうが創作上の面白味はぐんと増しますから、読者は惹きつけられるでしょう。
しかし、実地の殺人ではどうでしょうか。仮にきみが、本心から殺してやりたいと考えている相手がいるとして、その彼なり彼女なりをこの世から消す計画を練る場合、どのような方法によってそれを行うことを良としますか」
「そうですね……。なるべく手がかりを残さず、人に知られない方法を選びたいと思うのじゃないでしょうか。派手にやると、それを隠蔽するための工作が増えて、そのぶん証拠が残りやすくなって困ります」
「そうでしょう。まさにそのとおりです。突発的な衝動殺人ではなく計画殺人であれば、よほどのサイコ・キラーか白痴でないかぎり、人は普通自身の犯行が未来永劫露見しないことを望みます。そのために、さてどうすれば自分の罪が明るみにならずすむだろうかといろいろ知恵を絞るわけですが、いわゆる完全犯罪を――あるいはそれに近いものを――遂行するにおいて、立証できない殺人というのは、僕は法律上もっとも安全かつ巧妙な殺人方式ではないかと思うのです。すなわち、自らの犯行であると証明する直接的な証拠を、いっさい残さず殺すのです。
よろしいですか――。ある殺人者にとってもっとも望ましいのは、まず自らをその嫌疑の対象からはずすことです。それを一等優秀な出来ばえであるとして、しかしそれが達成できず二等三等の出来であっても、その殺人者は殺人罪としての罪を法律上、まだ十分のがれ得るのです。
仮に一等をのがして二等になったとしましょう。二等は嫌疑の対象をはずれることができず、自身が被疑者になってしまったという出来ばえです。多くの殺人者はまずこのあたりのテープを切るでしょう。最初から一等を獲るというのは、特に計画殺人においては至難の業です。しかしたとえ被疑者になり、その嫌疑がどれほど濃厚であっても、それは全然絶望に値する問題ではありません。疑惑だけでは法の力は発動できません。
直接的な証拠さえ出てこなければ良いのです。犯行を証明するために必要な直接の証拠が出てこないかぎり、被疑者は被疑者のままです。被疑者のままということはシロでもクロでもないということですが、しかし法律の観点からいうと、シロでもなくクロでもない場合その被疑者はシロなのです。この点は非常に重要でしょう、クロになりさえしなければ良いのですから。検事は証拠がなければ被疑者を起訴できず、起訴できなければ公判に移されません。したがってその被疑者が法律上罰せられることはなくなります。つまり、無罪です。
三等はどうでしょうか。三等は嫌疑の対象をはずれず、かつ起訴されてしまった場合です。殺人者がこの三等のフラッグしか獲得し得ない場合、最大の焦点は『いかにして殺人罪をのがれるか』ということです。仮に起訴されてなんらかの罪に問われても、最悪それが殺人罪でなければ良いという考えです。これは第三者的立場から考えると、罪は罪である以上大した差はないように思えて一見、なんの意味もない妥協案のようですが、殺人者である当人にとってはまったく異なります。自身の罪が殺人罪になるかそうでないかによって、殺人者の受ける体刑は大きく変わるからです。言うまでもなく殺人は非常に重い罪です。無期懲役ないしは死刑が容易に考えられる大罪です。ですが、これがもし殺人罪ではなくたとえば業務上過失致死罪だったらどうでしょう。現行の刑法では三年以下の禁固または千円以下の罰金ですみます。一番重くて三年の禁固刑です。
傷害致死罪の場合はどうでしょう。こちらは刑法第二百五条に三年以上の有期懲役と定められていますが、有期とあるようにまず無期限ではなく、最長で十五年です。ですが傷害致死の場合、量刑が利きますから、判例を参照すれば分かるように実際に最長刑を科されることはあまりありません。場合によっては、執行猶予さえ付いてきます。殺人者の狡知に腕の良い弁護士が合わされば十分可能です。仮に執行猶予付きの懲役であればそれは無罪とほぼ変わりません。現に僕は、女給を死なせて傷害致死罪になり、懲役二年、執行猶予五年によって実刑をのがれた男の例を知っています。僕は確信はしませんが、あれは殺人罪に値したという信念は今も持っています。
どうですか。相手を死に至らしめたという点が同じでも、その他さまざまの判断材料によっては罪の軽重はこれだけ変わるのです。終身刑だの絞首刑だの、もっとも深刻な刑を負わされる殺人罪に比べたら、禁固三年や数年の懲役など、どうもずいぶんましに聞こえるじゃありませんか。それだって公判廷での審議次第で十分軽減の可能性がある。殺人者は自らの行為が殺人であったという証明さえまぬかれれば、殺人をして殺人に問われずすむわけです。よし罰せられることになっても、殺人罪でさえなければ、最悪の場合でも実際の罪より軽い刑罰ですむのです。法律の限界というのは、こうしたところに常に存在します。人間が考え出した以上法律は決して完全ではない。必ず欠点はあり、その欠点を刺しつらぬく透徹した叡智を備えた殺人者だけが、殺人の罪をのがれうるのです。
ひとつ、そうした頭の良いすぐれた殺人者によって為された、立証できない殺人の成功例を挙げてみましょうか。これは割合に単純な一例ですけれども、分かりいいので話してみます。
ある男が、その愛人である女を殺したいと思いました。その殺意を男は絶対秘密にし、だれにも悟られぬよう注意していました。男は僕のようにひどい不眠症持ちでした。非常に強い催眠薬を常用しており、男が毎晩のようにのみくだすその薬の量は、男のような常用者でない一般の人間にとっては優に致死量を超えていました。
ある日、男は愛人の女がひとりで暮らす家の戸棚に、自分の服用している強い催眠薬の粉末を盛った盆を置いて、ちょうどそのとき風邪で寝こんでいた女を見舞い、女のもとを去りました。女は翌日、家のなかで死体となって発見されました。多量の催眠薬を嚥下し、目覚めることなく死に至ったのです。女は男の置いていった催眠薬を、数日のあいだ自身がのんでいた風邪薬とあやまって服用したとみられたのでした。女の本来のむはずだった風邪薬は事実、戸棚に残ったままでした。それは催眠薬があったのと同じ二段目に、やはり盆に盛られた状態できちんと置かれてあったのです。
事件はこれだけです。女の死は彼女自身による不慮の過失とされました。男の置いていった致死量の催眠薬と、女の処方された風邪薬が色、量ともに酷似していたことが、熱に意識をもうろうとさせていた女にあやまって催眠薬のほうをのませたという結論になったのです。
お分かりでしょう。もちろん男は、女が自分の催眠薬を誤飲してくれることを願って女を見舞い、風邪薬の置いてあった戸棚にそれを残して去ったのです。女がたまたま高熱を出して寝こみ、処方された風邪薬が自分の催眠薬とそっくりであることに気づいてそれを利用したのです。しかしこの場合、男が女に対して殺意を持っていたと立証するのは法律上極めて困難です。男が女を見舞っていた際、ふたりの会話を聞いていた者はいません。男が置いていったのは自分が常用している薬です。それは愛人の女にとって致死量でしたが、それを女のもとに置いて去ったからといって、その行為は男に殺意があったという証拠にはなりません。男は警察の取り調べに対しこう申し立てています。
『あの催眠薬は、今後彼女の家に泊まる際自分でのもうと思って、彼女の見舞いついでに前もって持参したのです。彼女が風邪薬とまちがえて服用する懸念はいだけませんでした。まさかそんなことが起こるとは思わないじゃありませんか。だって僕が普段のんでいる催眠薬を、彼女は何度も見て知っていたのですから』
そう言われては、男のその供述をくつがえせないかぎり男に殺意はなかったということになります。けれども、くつがえそうにも当事者である男と女のほかだれも目撃者がないのですから、いくら検事にもどうにもなりません。致死量に相当する催眠薬をのんだのは確かに女自身が自ら選んでやったことです。男は催眠薬を戸棚に残していっただけです。そしてその残していくという行為に殺意が証明できないとなれば、男を起訴するために必要な直接の証拠はないも同然です。男はなんの他意もなく、ただ自分が後日にのむつもりで催眠薬を残していったところを女のほうがあやまってのみくだしたとする以外、仕様がないのです。多少の過失は認められるでしょうが故意は証明できません。結局男は起訴されることなく終わりました。
どうですか――弓削君。こんな例を挙げて考えてみると、ちょっと妙な気分にもなってきやしませんか。いったい僕は、世にしばしば起こる転落事故や滑落事故、服毒事故や交通事故、そして中毒事故――そんな事案のうちいくつかには、何かしら良からぬ意図が含まれていたのじゃないかしらとうたぐってみたくなるんですよ。
ところで今、お話した愛人を見事に消してみせた男ですが、じつは僕と同じ中学の出身でしてね――無論、かかわりのない後輩のひとりですが――非常な秀才で、女の心理を読むのがそれは得意で、現在でもバアに行けば大変もてる、カッフェーに行けばなじみの女給たちに取りかこまれるといったありさまだそうです。そしてそれは僕にはとてもよくうなずけることなのです。なぜって、きみ――。
立証し得ぬ殺人は、それをこころみる者にさまざまな条件を提示します。並の人物では成功しません。なかでも僕は、その人物にはまず人間心理に対するするどい洞察と、その心理を我が物としてあやつる技巧が絶対に不可欠だろうと常々思っているのです。心理学です。殺人とはある種、心理学の応用試験なのですよ。……」
氏は重ねた指を組み直した。ひと呼吸のあと、ふたたび目を上げ、僕を見た。
「ときに……五城時次君は、学生時代からその秀才逸材で有名だったそうですね」
僕は椅子の上でびくっと動いた。いつしか汗ばんでいた背中を垂直にし、
「ええ……」
恐れるように答えた。
「同窓のうちで彼を知らぬ者はいなかったと思います。常に成績優良でしたし、人望も集めていました」
「まさに前途有為ですね。僕は知人からもそう聞いています。しかし今回のことで、会社からおとがめはありませんでしたかね」
「何もなくすんだようです。僕もそのあたりは心配して、彼の上役に一筆書き送ろうかと提案したのですが彼が必要ないと言ってことわったので、まあだいじょうぶだと思っておりました」
「では万事問題なかったのですね」
「はい」
「よろしい。首尾よく落ち着かれたのであれば、時次君にとってもけっこうなことです。少々首尾が良すぎるほどです。しかしきみは、じつにつらい目に遭われたことでしょう」
「ええ。それは、そうです。大変ショックを受けました。ですがこの数ヵ月は何かといろいろな処理に追われてごたつきまして、仕事も原稿も休めませんし、そういつまでもかなしんでいる暇もありませんでした。……」
「きみの不眠も、素人判断ですけれども、やはりこのたびのことに関するそうした心的負荷が一番の要因ではないかと思いますね」
「ええ。自分でもそう感じます」
「僕は、弓削君。きみがなぜ、きみの奥様を時次君とふたりきりの旅行にすすんでついてゆかせたのか、そしてそれについてなぜなんの不安も感ぜずにいられたか、そういった微妙な点については無論何も知りません。お尋ねするつもりもありません。けれどもひとつ言わしていただけるのであれば……よろしいですか」
「ええ、先生」
「時次君は、五城博士という我が国最高峰の心理学者をお父上に持っています。博士の書庫に並べられている専門書を僕は見たことがありませんが、およそありとあらゆる人間心理に関するその古今の蔵書の価値は見ずとも推察できます。そして時次君は幼少のころからそれらのすばらしい資料を、おそらくは彼の好きなとき、好きなだけ読むことができたはずですね。そうなると現在までに、心理学における彼の知識というのはいったいどれほどになっていると予想できるでしょうか」
「先生――……」
僕は少々憤慨し、椅子から腰を浮かした。だが背筋を汗がつたったのですぐと我に戻り、赤くなって座り直した。
「玉尾先生。やっぱりあなたは、妻の死に疑問をいだいておられるのですね。妻が死んだのが断然不慮の過失による中毒死だったか、あなたは疑っていらっしゃる。妻は、先ほど先生のおっしゃった立証為し得ぬ殺人によって間接的に殺されたのではと考えていらっしゃる。そして五城のような恵まれた天才であれば、その立証為し得ぬ殺人も平然とやってのけられるとお考えなのですね――。
先生。あなたはだれもが認めるところの、卓越された驚嘆すべき頭脳をお持ちです。先生の理知の前には、僕の考えることなど足もとにもおよびませぬ。法律の知識に関して言うならさらにそうです。心理学についても同様です。けれども唯一、先生はこの件だけはみあやまっておられます。なぜというに、先生は僕らの関係をご存知でいらっしゃらない。今しがたご自身がおっしゃったように、僕がなぜ京子を――妻を五城との旅行にふたりだけで行かせることを望んだか、その理由をご存知ない。のみならず、かねて僕と五城と生前の妻とのあいだに成り立っていたあの微妙至極な、説明に尽くしがたい――僕らの――ことに僕と妻とのあいだに横たわっていたあの繊細な感情の図式を、先生はご存知ないのです。だから先生は五城を、先生が例証してくださったその愛人殺しの男と同じような、世にも恐るべき殺人者に仕立てあげることができるのです。
お聞きください、先生。五城はちがいます。僕は彼の名誉のために申し上げます。先生はもっとも重要な大前提を知らずにおられるのです。それというのは、五城には動機がありません。妻を殺すどんな微々たるモーティブも彼にはひとつもありません。妻を殺そう、殺したいなどという考えが、これまで彼の頭に浮かんだことは一度としてなかったと僕は胸を張って保証できます。だからこそ僕は安心して妻を送り出したのです。生前の妻の心、そしてその妻の心を受けての五城の苦悩を、僕が夫として精一杯忖度した、ふたりのK温泉行きはその結果なのです。遠回しの表現をお許しください。ですが五城に妻を殺す動機がみじんもなかったことは、これで十分お分かりいただけたはずです」
氏は組んでいた指をほどいた。僕の話を聞くあいだつむっていた目をあけると、どこか意味ありげなまなざしを向けて尋ねた。
「弓削君。きみが、そうまでして熱く時次君をかばうのは、なぜですか?」
「なぜ。なぜって……」
「彼がきみの友人だからでしょうか」
「そうです。もちろん、そうですよ。そして五城に関してはただの友人ではありません。学生時代からの親友です。生涯の友と誓い合った仲です」
「在学当時から今に至るまで、変わらずその関係を築いているのですか」
「ええ。僕はあいつに多くの借りがあるんです。あれほど出来た男はなかなか見つからないと思います」
「時次君は独身でしたね」
「ええ、はい。そうです」
「結婚歴もありませんね」
「ありません」
「彼に妻帯の希望はあるのですか? 今回のことはすべて脇においておくとして、です」
「さあ、それは……」
「以前に五城博士からちらとうかがったかぎりでは、本人にまるでそんな意思がないようで困っているそうです。時次君であれば引く手あまたのはずですが」
「そうですね。僕もその種の話はまだ彼から聞いたことがありません。ですが五城なら、その気があればいつでも良い結婚ができるでしょう」
「すると思いますか?」
「えっ?」
「時次君が、自ら望んで結婚をすると思いますか?」
「さあ、僕には。そこまでは……分かりませんが」
「分かりませんか」
「あの、先生。どういう意味でしょう? なぜそんなことをお尋ねに……」
氏はうろたえる僕の顔を黙って眺めるばかりだった。含みを帯びた視線がそそがれた。だが間もなくゆるりとかぶりを振ると、
「すみません。僕は少し、きみをいじめすぎたようです」
と薄笑みを浮かべた。
「昨夜だいぶアダリンをのみましてね。きょうは一日じゅう、その副作用で倦怠に沈んでいたのです。そこへ、きみのような文学味のあるロマンティックな青年が現れたでしょう。さあ来たぞとつい思うがままを話し散らし、きみの困る姿を目に留めてはほの暗い楽しみを覚えていたわけです。どうか悪く取らないでください」
「はあ」
「奥様の件についてきみにお話した内容は、言ってしまえば全部僕の想像です。僕はそのことについて確たる根拠を持ってお話したのではなく、第三者的目線から、あくまで可能性のひとつとして提示してみたのです。ですからきみがその可能性を理解し、かつ否定できるのであれば僕は満足です。これ以上、何事も申し上げますまい。お伝えしたことは無論きみにしか知らせていません。今後も他言するつもりはありません。僕としては、きみの不眠が早期に治るよう、その道の先達としていつでも手を貸す用意があるだけです」
「ありがとうございます。先生。とっても助かります。……」
僕は深々と頭を下げた。氏のすすめてくださった催眠剤を受け取り、書斎を辞すとき、氏は椅子を立ちあがって言った。
「連載は大変でしょうが、どうぞ頑張ってください。僕の息子は、きみの小説の熱心な読者なのですよ。おとうさんの書くものよりずっと面白いとずいぶん言うので、じつは息子に隠れて僕も拝読しています」
「えっ……」
僕は赤面した。
「先生、あれを読まれているのですか」
「ええ。世辞じゃありません。ほんとうに読んでいます」
「そうでしたか。僕はそうとは知らず、その、恐縮です」
「なかなかよく考えられていると思います。少年受けのするスパイものにしては、あまり通俗にかたむきすぎていませんね。読者の幅が広がって、かえってよろしいと感じます」
恐縮のあまり僕は頭をかいた。洋燈から伸びるあかりのためか、氏が目の奥をきらと光らしたように見えた。
「面白いですよ」
氏は僕へ握手を求めながら、しかしにこやかにこう言うのだった。
「主人公の絡む法律問題について、少々いただけないあやまりは散見されますが――まあ、きょうのところは指摘せずにおきましょう。長くかかりますから。またいずれ、じっくり申し上げましょう。……」
いたずらっぽく目を細められた玉尾氏の手を握り返し、僕はまったく恐れをなしてお邸をあとにしたのだった。氏のにこやかなほほえみが、あのファウストに登場してくるメフィストフェレスをなぜか思い起こさせて……氏の声音が低く、長く、外へ出た僕をなおもふしぎな効力でもって、地上の快楽のため惑わしているようだった。
懐中に催眠剤を忍ばせ、僕は自分のあの家に帰宅する気にはまだなれず、来た道を坂へと向かって歩いていった。空には星がにじんでいた。