第7話 幼女と値段交渉
文字数 3,222文字
騒ぎ疲れたのか、美咲が大あくびした。
「チェックアウトまで寝てて良いぞ」
俺はベッドを指さす。
腕時計を確認すれば午前五時。六時間ちょっとは眠れるだろう。
「襲わない? ホクトくん」
きしし、と笑う。
判ってて訊ねるんだからな。
俺は肩をすくめて見せた。
人間の男女がおこなうような営みがインキュバスには不可能だ、ということではない。美咲の精気は俺にとって猛毒なのである。
性行為なんかしちゃったら発散しまくりですよ。
そんなのを浴び続けたら、俺、死んじゃいますよ。
「むしろシャワーを浴びたいかな」
ハヤテとのケンカで泥だらけになったからね。
そう言って、俺はバスルームに移動する。
会話を打ち切った感じになってしまったのは、喋ってたらいつまでも寝ないって判断したからだ。
それにまあ、ちょっとだけ計算もある。
美咲が寝たら、美鶴も安心して寝るんじゃないかなー、とか。
そこまではいかなくても、二人きりで話す時間が得られるだろう。
そしたら俺のハニートークで、メロメロにしてやる。
待っていてくれよ美鶴。
お前をきっとトリコにしてみせる。
なんて考えながらシャワーを浴びる。鼻歌交じりにね。
身だしなみは基本。良い匂いのする身体で迫らなくては。
「いきのこりたいー♪ ふふふふんふんふーん♪ ふんふん? あれ?」
なんかエネルギーが貯まってきてる?
あ、いや?
ダメージを受けてる!?
何これ何これ何これ!?
回復しながらダメージを受けるとか、わけがわからん!
いったい何が起こってるんだ!
わけがわからないままに視線を巡らす。
「あ」
そして、あっさりとわけがわかってしまった。
どこのラブホテルでもそうとは限らないんだけど、ベッドから浴室ってガラスの壁で遮られているってのが、わりと多い。
つまり、浴室の灯りをつけると、暗いベッドルームからは丸見えになるってことだ。
で、そのガラス壁に、美鶴と美咲が張り付いている。
べったーっと、カエルみたいに。
つーかブタ鼻になってますよ。美女と美少女が。
「なにやってんだよ……」
男のシャワーシーンを覗いてどーすんだ。
むふーむふーって荒い鼻息がガラスを曇らせ、ふたりが発散する精気が壁を抜けて俺に降り注ぐ。
最高の美味と最悪の毒が、同時に。
この満たされながら乾いていくって感覚、ご理解いただけるだろうか。サイバーサンダーなんとかって感じだよ。
とりあえず、しっしっと手を振る。
精気がどうこう以前に、こんなにじろじろ見られたら、ゆっくり身体も洗えないって。
バスローブを着て部屋に戻ると、美咲が眠っていた。
覗きとかバカなことやってたって、身体は限界だったのだろう。
ふ、と小さく笑うと、ソファに座っていた美鶴と目が合った。
ちょいちょいと手招きされる。
「美鶴は寝ないのかい?」
「寝たら、そなたに襲われるからのう」
「そそそんなことはしないぞ」
「せめて、わしの目を見て言ったらどうじゃ?」
「大丈夫だって。しないって。先っちょだけだって」
「それは、ほぼしておるし、そこで止まるわけがないじゃろ」
くだらないことを言って笑い合う。
互いにリラックスしているように見えて、その実まったく油断していない。
この緊張感、久しぶりだな。
「しかし、特異体質のインキュバスのう」
くすりと美鶴が笑った。
これだから世の中は面白い、とか言いながら。
「人間にだっていろんな体質はあるだろ? べつにおかしいことじゃないさ。食品アレルギーみたいなもんだよ」
「それはそうじゃが、ほとんどの食品を受け付けないほどのアレルギーがあったら、その人間はたぶんすぐ死ぬと思うぞい」
そりゃそうだ。
栄養補給ができないんだから。
俺だって、かなりギリギリのところで生きてるもん。
基本的に栄養は経口摂取するしかない人間族なら、長寿を保ち得るはずがない。栄養点滴とかだって限度があるしね。
「それで、じゃ。そなたに精気を与えるという話じゃがの。アゾールトや」
ちょっと真面目な表情になる美鶴。
分厚いカーテンで閉め切られた室内で見るそれは、幼女のものとは思えないほど大人びていた。
いやまあ、中身は幼女どころか老婆なんだけどね。
「人妖に協力するというのは、やはり気が引ける。これは幽霊を昇天させるのとは意味が違うでの」
形の良い下顎に右手の指をあてながら、ゆっくりと説明する。
誤解が生まれないよう、慎重に言葉を選びながら。
こういう配慮ができるのが、やはり大人の余裕なのだろう。
ともあれ、俺に精気を与えるのは、成仏できない霊に念仏を唱えてやって彼岸へ送ってやるのとは違う。
この世にとどまらせることになってしまうし、そもそも人として、悪魔に手を貸すというのは、大変に躊躇われるというのだ。
「悪魔族と夜魔族はだいぶ違うけどね」
俺は微妙な訂正を入れる。
夜魔は、べつに人間を罠にはめたりしないし、堕落させようとたくらんだりもしない。
栄養補給のために近づくだけだから。
「食料として見ているか、騙す相手として見ているか、という違いだけではないか。たいして変わらぬ」
むしろエサ扱いの方が、カモ扱いより業腹だ、と付け加える幼女。
「人間族をエサだなんて思ってないさ。食事をくれる人、つまりエサ係だね」
たとえていうなら、俺たち夜魔は野良猫やカラス。
人間からエサをもらったり奪ったりしながら生きてるってだけ。
あ、ちなみに猫もカラスも夜魔の眷属ね。
「夜魔族だろうが悪魔族だろうが、わしら人間としてはべつにありがたい存在でもなんでもない。滅びてくれて一向にかまわぬのじゃが」
いちど言葉を切る。
「こうして親しく会話を交わした者が消えてしまうというのも、また寝覚めの悪い話じゃ。ゆえにわしは揺れておる」
俺を見た。
まっすぐに。
その視線の意味は、交渉だ。
言質を取られるようなことはいっさい言わず、具体的な条件を提示することもなく。
つまり、条件を出すのは俺。
それが美鶴の心の琴線に触れたなら、精気を譲る誓約をしても良い、ということなのだろう。
さて、どんな取引材料を示すか。
「百万円あげよう」
ストレートに、まずは金を提示してみる。
生臭いというなかれ、人間界の経済が金銭によって回っている以上、金銭というのはすなわちチカラだったりするのだ。
実際、なにをするにも金がかかる。
生まれるときだって病院代がかかるし、死ぬときだって葬式代がかかるんだ。
無料でできることなんて、息をすることと、金持ちになった自分を妄想して楽しむことくらいである。
ゆえに、交渉のたたき台に金銭を乗せるというのは、けっこう正統的な手なのだ。
「…………」
ごくわずかに美鶴の表情が動く。
嫌悪ではなく興味の方向、と、素早く俺は観察した。
いくら避けては通れない道とはいえ、金の話をすると嫌がる人というのは一定数いる。性格や性質に由来することなので、こればっかりはどうしようもない。
企業が広告を出したりキャンペーンを張ったりするのだって、こういう人たちは「しょせん商売目的でしょ」って毛嫌いするから。
どうやら美鶴はそういうタイプではなく、もっとずっと利に聡いようだ。
ならば今の表情は、金額に不満があるか、条件の方向性が違うか、どちらかだろう。
「百五十万では?」
「ふむ……まあ破格じゃの」
セリフほどには興味なさげな声だ。こっちじゃなかったか。
それなら。
「美咲は大学生だそうだけど、美鶴もそうなのかい?」
ちょっと攻める方向を変えてみる。
「このナリで大学の構内をうろついていたら、さすがに警備員につまみ出されるじゃろうよ。かといって雇ってくれる場所があるわけもなし。プーじゃよ」
苦笑気味に答えてくれた。
OK。
それがヒントってことだね。