ぺトリコール

文字数 4,946文字

 いつだかビニール傘の()に、クマの模様をした青いマスキングテープをぐるぐる巻きに貼られていたことがあった。
 なにこれ、とぎょっとして私が問いただすと、こうしたら誰も盗もうと思わないだろとあなたは涼しい顔で言った。スーパーへ向かう道すがら、青いクマの巻かれた奇妙なビニール傘を私たちは分け合っていた。傘のうえ、一定のリズムで雨粒は踊る。
「盗まれはしないだろうけど……なんでよりによってクマちゃんのやつにしたの? もっと無難な模様のやつあったのに」無愛想な男がファンシーな傘を差している構図のおもしろさに耐えきれず、私は言った。
「いちばん魔除けに効きそうだったから」なんてあなたは真顔で言うものだから、本気なんだか冗談なんだかまるでわからない。三年付き合っていたってあなたの考えていることは全然わからない。
「意味わかんない。あとさっきから私の左肩濡れてるんだけど」
「俺の右肩だって濡れてんの」と返すあなたの左頬に浮かんだえくぼが、雨に煙るモノクロの街のなかでやけに眩しく見えた。
 意味わかんないところも、よくわかんないタイミングで急浮上するえくぼも、全部愛おしいと思った。愛おしかった、のに。
 三年間付き合っていても、あなたの考えていることは結局、最後までわからなかった。
 

 待ち合わせ場所、大通駅の大型ビジョン前で私を待っていたのは、白いシャツのよく似合う爽やかな男性だった。マッチングアプリで知り合った彼は、アイコンの写真よりも格好よくてなんだかドギマギした。
 ややぎこちなく会話を交わしながら、カジュアルなイタリアンのお店へ入る。料理が運ばれてくる頃にはすっかり緊張もほぐれていた。
 食事のあいまに彼は、保険会社で営業をしていること、旅行が好きで今度出雲大社に行こうと思っていること、いずれ猫を飼いたいということなどを話してくれた。
 私はというと、マリネを均等に盛ったり、感じのいい相槌を打ったり適度に笑い声をあげてみたり、飲み物のおかわりを気遣ったり、およそ世間のモテる女性がおこなっているであろう動作を一通りしてみた。なんとなく。
「ユイさんは、休みの日はなにをされてるんですか」と彼は、アプリを使うにあたって適当にこさえた私の偽名を呼んだ。
「ええと、趣味とかそういうことですよね」
「そうですね。アウトドア派ですか? インドア?」
 平和に続けていた会話のラリーを、ここにきて続けられなくなった。趣味なんて考えたこともなかった。平日は仕事と家事をして、休日には私とあなたの部屋を行き来してなにをするでもなく過ごして、それで私の生活は完結していたのだ。つい一ヶ月前まで。
「……インドアですかね。家事やってたら休日なんてすぐ終わっちゃうから、考えたことなかったですけど」
「マメなんですね。僕は家事もそこそこに遊びに行っちゃうんで尊敬します」
 本当に凄いと思っているふうに彼が頷いて、少しだけ良心が咎めた。嘘を流し込むように水をひとくち飲んだけれど、喉の渇きは潤わなかった。
「それにしても凄いですよね」
「というと?」
「アプリでこんな素敵な方に出会えると思ってませんでした。出会いがないって嘆いてたのが嘘みたいです」と彼ははにかんだ。白い八重歯が覗く。
 今の時代、マッチングアプリひとつで簡単に異性と知り合える。フリーマーケットアプリを使えば、あなたが置き忘れていったカーディガンだって売れる。文明の進歩という追い風を受け、たった少し踏み出しさえすれば、あなたに別れを告げられて心に空いた穴はみるみる塞がっていった。
 惰性を水で薄めるように引き伸ばした三年間は、別れたいというあなたの一言でたやすく崩れた。そっか、わかった。そう答えておしまいだった。振られたというのに、まあ仕方ないよねと妙に納得している自分がいた。別れたときも、別れたあとも、涙は一滴も出なかった。
 失恋の傷を新しい異性で癒したい、だなんて思っていない。だって痛む傷なんてないのだから。アプリを入れてみたのも、こうしてデートをしているのも、あなたがいなくなったせいでひどく退屈になったからだ。
 少し酔いがまわったらしい彼は、当たり障りのない世間話を畳むと恋愛トークを始めた。彼はつい先日、長年付き合っていた彼女に振られ、周りの勧めでマッチングアプリに登録したのだと話した。
「前の彼女と別れてからずっと塞ぎ込んでしまっていたんですけど、こんな素敵な方に会えて、なんだか久々に世界に色が戻ってきた気がします」
 私もですと柔らかくほほえみ返、せたならどんなに良かっただろう。引きつった口もとは笑みを浮かべることも、気の利いた台詞を返すこともできず固まった。
 ちらりと覗いた八重歯をかわいいと思えなかったのは、似たような境遇を運命だと思い込めなかったのは、ドラマのような台詞にときめいてしまえなかったのは、きっとこの人ではないからだ。
 

 プシュッ、と小気味いいプルタブの音が部屋に響いた。愛想笑いを発し疲れた喉に、つめたい発泡酒は染み渡っていく。
 アプリで出会った彼が私に純粋な好意を示してくれるたび、居心地が悪くなった。なんとなくマッチングしたから話して、話したらフィーリングが似ていたから会った。それだけだった。別に好きなわけじゃなかった。次の約束も取り付けないまま、明日は早いからと言って帰った。
 ため息をつき、勢いよく靴下を脱いだ。誰に見せることもなくなった赤いペディキュアが、ぼろぼろに剥げたまま滑稽に足の指を彩っている。
 彼を好きになることはないんだろうな、と他人事のように思った。二つ年上の彼は優しくて爽やかで人柄も申し分なくて、でも、手を繋いでどこかへ出掛けたり、この部屋で仲良くDVDを観たりといったイメージがうまくできない。どんなにいい人でも、ときめかなかったらなにも意味がないのだ。
 携帯の画面が光る。彼からだった。「今日はとても楽しかったです」という文面の最後に笑顔の絵文字が添えられている。絵文字どころか連絡すら好まないあなたとずっと過ごしていたせいで、そんなことがひどく新鮮に映った。
 通知を見なかったことにして、発泡酒の空き缶をぐしゃりと潰した。寝たふりをして明日返事をしよう。それか、そっとブロックしてそのままアプリごと退会してもいい。
 休みの日はなにをされてるんですか、と聞かれたことをふと思い出す。そういえばあなたと別れてからここ一ヶ月、特に休日らしい過ごし方をしていなかった。付き合っていた頃だって、どこかに出掛けたりもしなかったけれど。
 今度、小樽(おたる)でも行こうか。別れるほんの一週間前、あなたはそう言った。
 次の休みは一人で小樽へ行くのも悪くない、と思った。
 

「なあ。今度、小樽でも行こうか」シンクに皿を置きながら、あなたは確かにそう言った。途中で(すく)うのが面倒になったのか、ミートソースの挽肉だけが中途半端に残っている。
「今度……え?」
 スポンジに洗剤をプッシュしようとしていた手が思わず止まる。頑なに家デートしかしたがらない出不精人間が、いきなりなにを言い出すんだろうと思った。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないけど。観光地とか苦手じゃなかった? 大丈夫かなと思って」
「別に」とあなたはぶっきらぼうに言って、リビングへと引っ込んでいった。テレビをつけてチャンネルを合わせる音が聞こえてくる。
 なにが、別に、なのかちっともわからない。久々の外デートを提案されて嬉しいような、考えていることが読めなくて腹立たしいやらで、もやもやしながらコップを泡で撫でる。肝心なことにはなにも答えないまま、あなたはバラエティ番組に腰を落ちつけたらしい。
 正直、今の状態がなんなのかすらもうよくわからない。互いの部屋を行き来して、初々しくいちゃつくわけでもなく、ただ淡々と生活を重ねていくだけ。半同棲と呼ぶにはあまりに渇きすぎていた。
 もしかして、だから柄にもなく出掛けようと言ってくれたんだろうか。あなたはひどく無愛想だけど、冷酷非道なわけではない。たぶん。
 洗い物を終えてエプロンを外す。ソファでクッションを抱き、顔色ひとつ変えずテレビを眺めていたあなたの隣に座る。
「この番組おもしろい?」
「そこそこ」
「全然笑ってないじゃん」
 あなたはそれには答えず、抱えていたクッションを私に無言で押しつける。両手でぎゅっと抱きしめると、満足したように真顔のまま小さく頷いた。
「……小樽行くなら水族館行きたいな、私」
「いいんじゃない。俺は寿司が食いたい」
「最高だけど、組み合わせやばいね」
「深く考えたら負けだな」
 ふっ、とあなたは鼻で笑う。少し細めた目をきれいだなと思って眺めていたら、視線がやわらかくかち合った。
 最後にこうやって目が合ったのはいつだったか思い出せない。意外と長いあなたの睫毛に、今度ビューラーをあてたら怒るだろうか。
 あなたは静かにテレビを消した。もう少し眺めていたかったと思いながら、目を閉じる。
 結局それから水族館に行くこともビューラーをあててみることもないまま、今度、はとうとう来なかった。
 

 次の休日は雨だった。北海道に梅雨はない、なんて近頃はおとぎ話で、六月ともなれば鬱々と雨は降りしきる。
 とりあえず出掛けるかどうかは保留にして朝食の用意をする。ぼんやりしていたら、フライパンに卵をふたつ割り入れてしまった。あなたのぶんの目玉焼きも用意する癖がついてしまっていたことに少し心がざわめいたけれど、それだけだった。思い出したからといって寂しくなることもない。
 午前中は雨だが午後から晴れ間が見える、と天気予報が告げたので、予定通り小樽へ行くことにした。水族館へ行って、お寿司屋さんには行かないで、美味しいケーキでも食べてのんびり過ごそう。自分へのお土産にかまぼこを買って帰ろう。窓を打ちつける雨音とは裏腹に、晴れやかな気分でトーストをかじった。
 あなたと別れてからというもの、髪をばっさり切ったりだとか、思い切って服の系統を変えるなんてこともなく、いつもと変わりない日常を送っていた。よそいきのワンピースに袖を通すのも、ヘアアレンジを施すのも本当に久しぶりだった。生まれ変わったような気すらした。
 とっておきのショルダーバッグを提げて玄関へ出る。姿見で前髪の具合を整えていると、ポケットのなかで携帯が震えた。
 あなたからの着信だった。
 どうして今になってとか、電話なんて嫌いなくせにとか、いろんな感想が一瞬で浮かんでは消えた。心は妙に()いでいた。
 そういえば連絡先消してなかったな、なんて思いながら、手のなかで鈍く光る液晶画面をただ見つめていた。応じるつもりが全くないことに自分でも驚いていた。
 あなたが私をどう思っていようが、もうどうでもいいと思った。あなたのことは憎んでいないけど、とっくに好きでもなんでもない。今はまだ思い出してしまうけれど、それだけだ。
 悲しい記憶も、楽しかったことも、すべては生活に編み込まれてゆるやかに流れていく。今はどうしたって思い出してしまうあなたのことを、いつか私は完全に忘れてしまうだろう。それでいい。いちいち感傷的に決め込む暇なんてない。
 あなたがいなくなっても私の生活は、人生は、続いていくのだから。
 着信を知らせる音は止んだ。履歴から不在着信の通知を消し、あなたの連絡先を消した。ついでにアプリで知り合った彼の番号も抹消しておく。
 柄にマスキングテープの貼られていない傘を手に取り、玄関のドアを開けた。まだ雨の降りしきる街へと繰り出す。あなたと分け合わないビニール傘は広くて、もう左肩を濡らすこともない。ふわりと立ちのぼった雨の匂いには、確か洒落た名前が付いていたはずだけれど思い出せなかった。それでいいと思った。
 おろしたてのパンプスにも構わず、大きな水溜りを勢いよく踏み抜いた。ワンピースの裾が踊るように揺れる。
 あなたのいない世界が、音を立てて回り始めていた。

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