26)オシラサマの信仰・考

文字数 1,648文字

 桑の木に馬(男体)と娘(女体)の木像頭部を付け、赤い布などを重ね着させて御神体とし、家の祭壇で祀る岩手県遠野のオシラサマ信仰(オシラ(がみ)信仰)は、柳田國夫が遠野物語で取り上げ、巫女(みこ)のオカミサマが祈祷祭文(さいもん)として伝承した馬娘婚姻譚(うまむすめこんいんたん)(前章)とともによく知られるようになりました。

 これと同じような祭式は、古代の陸奥国(むつのくに)出羽国(でわのくに)-現在の東北全域-に広く根付いていました。(岩手県・オシラサマ、山形県・オコナイサマ、福島県・オシンメイサマ)
 (写真↓:左は遠野のオシラサマ(頭部が包まれた包頭衣(ほうとうい)タイプ)、右は山形県鶴岡市のオコナイサマ(オクナイサマ)。国立民族学博物館。頭部が見える貫頭衣(かんとうい)タイプもあります。)


 遠野のオカミサマのような、語り部であるとともに死者の霊や神霊を降ろす巫女は、津軽のイタコ、秋田のイチコやエジコ(仏おろし)、福島のワカサマ(口寄せ)やミコサマ、山形のオナカマ(岩谷観音、口寄せ)、宮城のオガミサン(口寄せ)など、各地に広く存在していました。

 これに蚕神(かいこがみ)が描かれた掛け軸を御神体として(まつ)るオシラサン信仰も含めると、群馬など北関東にまで広がります。(群馬県安中市の咲前神社では、白蛇を蚕虫(かいこ)の神様と紹介しています)

 これらをひとかたまりのオシラ神信仰圏として見ると、ちょうど、奈良時代から平安時代にかけてヤマトの北進がピークを迎えた時期、蝦夷(えみし)は激しくぶつかりながらもヤマトの文化を受容していった地域、とほぼ重なります。
 同時期にヤマトからは仏教のほか、養蚕(ようさん)、馬や鉄器など最新の農耕技術などモノづくり文化も、それこそ洪水のように伝わってゆき、蝦夷の人々の生活文化が急変した時期でもあります。

 例えば馬。蝦夷の人々が武人(随身(ずいしん))が騎乗した姿を人頭馬身としてはじめてみて畏怖した馬を、やがて自分たちの手で育てるようになり、乗馬や使役の身近な生き物としてとらえ、ついにはひとつ屋根の下、(うまや)で家族とともに暮らすようになるまでの日常生活を通して、馬と人のたくさんの物語が生まれたはずです。
 遠野の馬娘婚姻譚も、その流れで理解することができるでしょう。
 ただ、父と娘の間に馬を介しての強い軋轢(あつれき)・・・父にしてみれば馬の首をはねてでもわが娘との縁を断ち切らせたい心情があったことの意味を考えなければなりません。それがこの伝承(神話)の最大のポイントだからです。

 私はそれが仏教であり、オシラサマ伝承は娘が仏教に帰依(きえ)したこと、馬は仏教の戒律あるいは仏像の暗喩(メタファー)ではないかと考えています。もっと言うと聖徳太子(厩戸皇子(うまやとのおうじ))の教えです。
 蝦夷の文化に根付いていたのは間違いなく古神道。
 かつてのヤマトでの古神道と仏教の争いでは、仏像が難波(なにわ)の堀江に捨てられたりしたあげく、丁未(ていび)の乱(587年)が起こり、厩戸皇子の太子軍が、古墳時代の数世紀にもわたって古神道を奉じ支配した物部(もののべ)宗家を破り、物部守屋(もりや)とともに物部氏は滅亡しました。
 あまり広く認識されていませんが、この大乱を境に古墳時代は終わり、飛鳥時代が始まります。

 同様の軋轢が、ヤマトの律令支配が及んだ地域においても生じていたのではないか、そして、そのことを象徴的に伝えるのがオシラサマ伝承ではないかと考えています。新しい宗教や価値観が流入する時に、必ずといってよいほど世代間、場合によっては男女間にギャップが生まれ、軋轢が生じます。
 面白いのは、本来、神道に属する巫女たちがその軋轢の歴史を伝え、しかし彼女たちは神仏習合的であったことです。かといって仏教の尼僧でもない。どちらでもあるようでどちらにも属さない。実態はどちらも担わない部分をカバーする、いわば人々の身近な相談相手でもあり、心の支え的な存在であったことです。ただそれは今に伝えられる姿で、はるか昔は古神道の祭祀を重んじていたのかも知れません。
(写真↓:津軽イタコの持ち物。御幣(ごへい)や弓といった古神道をベースに、百万遍(ひゃくまんべん)信仰で見られる大数珠(おおじゅず)や真言密教でみられる錫杖(しゃくじょう)など仏教のものも見られます。国立民族学博物館。)
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