21)アラ・ハバキが結ぶ天孫降臨と雛祭り

文字数 1,460文字

 古事記・天孫降臨(神話)に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)高天原(たかまがはら)から天降(あまくだ)った際、「天忍日(あめのおしひ)天津久米(あまつくめ)は、立派な(ゆき)(弓矢入れ)を着け、頭椎(くぶつち)の太刀を腰に着け、櫨弓(はじゆみ)を手にとり、真鹿児矢(まかこや)手挾み(たばさみ)持って、天孫の先に立ってお仕えした。天忍日は大伴連(おおとものむらじ)らの祖先、天津久米は久米直(くめのあたい)らの祖先である」と記されています。
 天忍日(あめのおしひ)天津久米(あまつくめ)が天孫を警護する姿は、藤原京の元日朝賀(がんじつちょうが)の儀で蝦夷(えみし)隼人(はやと)の参列警護を組織した大伴氏・佐伯氏の姿そのものです。
(写真;特別展 蝦夷 -古代エミシと律令国家-、東北歴史博物館より)


 なぜそう言えるのかというと、天武期に安曇(あど)氏の海人勢力から戦闘集団としての来目部(くめべ)(久米部)を組織化したのが大伴氏だからです(第19章)。私の推定では、もともと久米は肥後(熊本)の海人で、薩摩隼人(はやと)の海人と混在しながら、主に筑後川(久留米)を遡上し、北九州(志賀島あたり)で安曇の海人と繋がりました。古くは出雲・日本海ルートと繋がっていましたが、後に瀬戸内海ルートを主として住吉・畿内に接続します。
 一方、佐伯氏は、景行期よりヤマト王権が東日本を平定する過程で捕虜とした蝦夷を、畿内のほか、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5国に居住させた者たち、あるいは、その監督者の家系で、言葉が通じない蝦夷の通訳部門「蝦夷訳語(えみしおさ)」でもあったと考えられます。ちなみに讃岐の佐伯氏は平安時代初期に登場した佐伯真魚(さえきまお)こと、空海・弘法大師の父方家系です。母方は阿刀(あと)氏。海人族どうしの家系から出た天才です。

 大伴氏も佐伯氏も安曇氏系の氏族で、古墳時代より宮廷警護の親衛隊(近衛兵)で、軍隊としての物部氏(もののべし)とは一線を画していました。もっというとライバル関係にあったと考えられます。

 面白いのは、大伴氏・佐伯氏の内裏(だいり)警護の役割は、雛祭りの七段飾りにあらわされ、今でもみることができることです。


 七段飾りの四段目、翁の左大臣、若者の右大臣とされる雛人形が、随身(随神門の木造)と同じ姿をしています。(内裏から見ての左・右になりますので、こちら正面から見ての左・右とは逆さまになります。左近の桜・右近の橘、京都市左京区・右京区も同じ。)
 服装や武装は地域や年代によって違いはあるかも知れませんが、両者とも、天孫降臨で描かれたように、(ゆき)・弓・矢・太刀を持っています。氏族としての歴史は大伴氏の方がはるかに古いので、左大臣の翁が大伴、右大臣の若者が佐伯と思われます。

 雛壇を少し解説しておきますと、四段目からが宮殿で、宮門(みかど)警護の左右大臣、中央に守護するヒメのシンボル・ひし餅の菱形、五段目が雅楽寮(ががくりょう)の五人囃子、六段目が膳部(かしわでべ)采女(うねめ)の三人官女、そして最上段の内裏雛(だいりびな)というのが正式です。膳部も采女も安曇氏系の職掌です(第19章)


 なお、天孫降臨では「天石戸別(あまのいわとわけ)櫛石窓(くしいわまど)豊石窓(とよいわまど)といい宮門(みかど)を守護する神である」ともあり、随身をそのまま神格化したのか、宮門を(まも)る神として別に神格化したものなのか、そのあたりは根拠が乏しくよくわかりません。

 とにかく、雛壇の左・右大臣の装束は、随身とおなじく荒衣(あらたえ)脛巾(はばき)の武人服装、いわゆる、アラ・ハバキの姿です。左右の位置も同じ。
 雛壇の左右大臣と随身は同じものであることはわかりましたが、さて、これが

姿

なのか、あるいは、アラハバキという音(響き)に合わせて装束をそのように名付けたのか、そしてなぜ、本来、宮門(みかど)警護のアラ・ハバキ姿の随身が、畿内から遠く離れた大きな神社の門に多く置かれているのでしょうか。(写真は出羽三山神社(山形県鶴岡市)・随神門)
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