37)ヒスイのものづくり史(1)縄文~弥生

文字数 2,103文字

 現在の大阪城(大阪市中央区)を北端、四天王寺(同天王寺区)を通過し、住吉大社(同住吉区)に至る上町台地は、古墳時代あたりまで、西に難波津、東に河内湖に挟まれた古代の上町

でした。(画像は国土地理院の色別標高図。青色部分を水域と見るならば、縄文中期~弥生前期に相当)


 古墳時代、大阪城の南に鎮座する玉造(たまつくり)稲荷神社(大阪市中央区)は、玉祖(たまのおや)神社(八尾市神立(こうだち))の一帯とつながって、物部(もののべ)氏(河内期)の玉造集団の一大拠点を形成していました。

 今は俊徳(しゅんとく)街道・十三街道(じゅうさんかいどう)、古くは玉祖道(たまのおやのみち)と云われた道で繋がっていますが、古墳時代には、地図の平野部分は古代河内湖で、両社は水路(水陸路)で繋がっていました。このあたりは章を進め、古墳時代のヒスイのところであらためて触れることにします。

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 このような背景もあり、ヒスイの歴史を学ぶうちに、縄文-弥生-古墳時代を

として考察する観点を養ってきたように思います。ごく簡単にまとめましたが、本章に関するトピックを時系列で整理しました。薄い黄色部分が弥生時代です。



 第12章(アラを追ってわかるヒスイの孔の理由)で、縄文の(たくみ)が硬度6.5~7.0という非常に硬いヒスイに(あな)をあける意味を考察しました。
 魂が土(石)から生まれ、また、戻る孔、あの世とこの世を繋ぐ

の表現こそが原初的なアラ・ハバキ、特にアラ(誕生、あるいは死と再生の循環)の表現であると考えています。
 現代人からすると、ただそれだけのためになぜ?と考えてしまいますが、石に孔を穿(うが)つことに、縄文以来、人々は意味を見い出し、多大な時間と努力を費やしてきたのです。
 (写真右:管玉(くだたま)に孔を通すための直径1ミリに満たない石針(いしばり)。石川県小松市・八日市地方(ようかいちじかた)遺跡)


 鉱石(ヒスイ、碧玉(へきぎょく)、メノウなど)に(あな)を美しく穿(うが)つには、高度で熟練した技術と繊細な道具、分業体制や匠の技術継承が必要であり、実はそのスタイルこそが、現代日本が得意としている

の根底であることに気づいた時には、ただただ驚くばかりでした。
 縄文文化が現在にもつながっている証拠です。

 日本国内で出土する縄文時代のヒスイ製品は100%糸魚川産ですから、産地(職人集団)と出土地(消費地)の関係と物流を的確に考察できる点もヒスイ史観のメリットです。
 下の地図を見るだけで三つのことがわかります。
 ①縄文中期以降、東~北日本全域をカバーする交易ネットワークがあった。
 ②海が深い縄文海進期。日本海沿岸は水路、太平洋側へは陸路で集落同士が繋がっていた。
 ③例えば、津軽・関東・甲信越の各地には糸魚川ヒスイが集中的に出土する文化圏のような(定住)エリアがある。
 (写真:左は縄文時代中・後期の糸魚川ヒスイ(大珠・小珠)の分布。右は長者ケ原(ちょうじゃがはら)遺跡出土の通称ビーナス。地母神を表現したような土偶。ヌナカワヒメ?)


 約三千年前、弥生時代が始まるとともに、縄文の大珠(たいじゅ)小珠(しょうじゅ)にかわって勾玉(まがたま)が登場します。
 勾玉は出雲の玉造(松江市)が一大産地ですが花仙山(かせんさん)のメノウが主原料です。ただヒスイ加工も行われており、糸魚川などから原料を取り寄せ出雲玉造で加工していたと考えることができます。(出雲玉造のヒスイは糸魚川以外の産地(国内10ケ所ほど)のものも考えられますが、高級品の大粒はやはり糸魚川産。)
 そしてそのヒスイ勾玉の最高級品といえるものが2ツ、唐古(からこ)(かぎ)遺跡(奈良県奈良県磯城郡(しきぐん)田原本町)の中核的な

殿

のそばから、自然褐鉄鉱(かってっこう)の容器に入れられた状態で出土しました。
 (写真:唐古・鍵考古学ミュージアム『弥生の宝石箱』の展示。勾玉一対と自然褐鉄鉱の容器)

 唐古・鍵遺跡は、孤高の考古学者で早世の森本六爾(もりもとろくじ)の故郷で、六爾(ろくじ)が集めていた唐古池の土器の破片から米粒の圧痕(あっこん)を見つけたことから、稲作の弥生時代の発見と定説へと発展した初瀬川(はつせがわ)大和川(やまとがわ))のほとり、環濠(かんごう)のある大規模遺跡です。
 (写真:唐古・鍵遺跡のシンボルタワー。唐古・鍵ミュージアムの弥生水田復元ジオラマ)


 唐古・鍵の神殿で、おそらくは姫巫女(ひめみこ)が稲作豊穣の祈りを行った・・・その奉納物としての出雲式の勾玉一対、と考えると、出雲文化がヤマトに入場した草創期のこん跡と考えることができ、また、その信仰スタイルは少なくとも五百年以上も後の稲荷信仰へと続き発展していったと考えることもできます。(稲荷信仰は第31・32章)


 なお、自然褐鉄鉱とは、湿地帯・水辺の葦などの根茎に生息するバクテリアが水中の鉄分(Fe、水酸化鉄)を取り込んで濃縮、数万年以上かけて堆積したもので、時間とともに根茎自体が無くなって中身が空洞で球状のものが地中から出土します。古代大和平野のほとんどが古大和湖あるいはその水辺であったことの証拠で、唐古・鍵はその水辺につくられた古代都市と言えるほどの集落であったと考えられます(葦原中津国(あしはらのなかつくに)のイメージ)

 唐古・鍵は紀元前200年ごろ~西暦200年ごろの遺跡で、直線距離で南西に約4キロ離れたヒミコで有名な纏向(まきむく)(西暦200年ごろ~350年ごろ)に先行する遺跡で、密接にスライドする二つの遺跡の関係が注目されています。
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