44)ヤマト創世記 三輪山と纏向
文字数 2,123文字
河内期・物部 氏が隆盛をきわめた古墳時代中期の前、大和期・物部氏の歴史【太陽祭祀が大和平野(古代大和湖畔)に到達し、唐子 ・鍵 から纏向 (三輪山麓)にスライドする過程(第43章)で、王家に深く関わった物部氏が石上 に拠点を置くに至った経緯】は謎です。
いわゆる欠史八代(第二代綏靖天皇 ~第九代開化天皇)とも重なるであろうBC150~AD350の約五百年間(弥生時代後期から古墳時代前期)の出来事です。
この間の歴史を考える手がかりは、①土器編年 でいうところの纏向編年、②神奈備 の三輪山 と大神神社 です。(歴史としては②→①の順番)
①纏向編年 は名の通り、纏向遺跡(AD200~350)から出土した土器分類に基づく編年体系(定説にはなっていませんが妥当な編年と考えています。)で、注目されるのは、
1)纏向初期(AD200ごろ)の弥生式土器から庄内式(古墳時代初期)への変化
2)纏向中期の庄内式の主流化
3)終盤期(AD300ごろ)の庄内式から布留式への変化、です。
1)庄内式は大阪府豊中市の庄内遺跡から出土した弥生と古墳の両時代の特徴をあわせ持った標識土器で、底部がやや尖形で側面まで炎が回りやすく効率良く煮炊きできる薄造りの構造。これが出土することから纏向初期に古墳時代が始まった根拠になります。
3)布留式は物部氏のヤマトの拠点、石上 (天理市を流れる布留 川流域、石上神宮 が至近)の布留遺跡(堂垣内 地区)から出土した土器様式。物部祭祀の核心エリアから出土した状況から
【布留遺跡。天理参考館パネル。赤い線で囲ったところが物部祭祀の核心エリア。天理教本部の真下になります。中央を流れるのが布留川。すぐそばに石上神宮 】
なお、西山古墳(杣之内 古墳群)の西側には勾田町 の地名。これに関連して布留遺跡(堂垣内 地区)からは碧玉 の欠片 が出土しており、大和期・物部氏が一帯で玉作 を行っていた模様。あわせて製鉄のこん跡である鉄滓 (鉄を取り出した廃棄物)も出土しました。この点は河内期・物部氏の玉作(第43章)や、巨大古墳時代にあわせて古代河内湖南岸での鉄(鍛冶)生産に移行する前の段階として捉えることができます。
②時代は遡 りますが、出雲後物部 (著者の造語)という形で具体的に見えてきます。
ヒスイのモノづくり史(第43章まとめ)より。弥生時代は、縄文と習合した出雲文化が稲作で日本海の都市国家群を形成しながら南進し、終盤に北九州・糸島 から瀬戸内海-淀川三島 平野経由でヤマトに東遷 した(第40章。東征 ではない。)時代、と捉えています。
おそらくこのヤマト東遷は北九州で勢力を拡大した物部氏の圧力によるもので、新天地(豊葦原中津国 )を古代大和湖畔に求めた結果であろうと考えています。
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出雲族のヤマトでの始まりは出雲国造神賀詞 に伝えられています(成立は遅くともAD700ごろ)
出雲国造神賀詞、現代語訳)大穴持命 が申すには、皇孫 が住むところを大倭 の国として、自らの和魂 を八咫鏡 に遷し大物主 と称して三輪山に鎮座する。子の阿遅須伎高孫根命 を葛城の鴨 に、事代主命 を宇奈提 に、賀夜奈流美命 を飛鳥に置き、皇孫の守護神とする。自らは出雲大社に鎮座する。
御魂 鎮座の三地点(葛城の鴨、宇奈提、飛鳥)の比定は不確かですが、神賀詞 の三輪山のくだりは八咫鏡を除き大神神社 の御由緒の通りですし、また、纏向も含めた祭祀のこん跡から考察可能です。
巻向 駅の少し北、JR桜井線の西側で発見された大型の掘立柱 建物群(纏向遺跡居館跡)は三つの建物が真の東西から約5度南に傾く直線状に並んでいました。ヒミコの宮殿跡とも話題にのぼるところで、建物跡のそばからは祭祀に使用されたと考えられる大量の桃の種が見つかっています。
太陽祭祀の日の出と日の入のうち、纏向遺跡の建物群のライン・日の入方向は二上山を向いています。真の東西から南に約5度の傾き方向に日没する時期は、現在の3月上旬と9月上旬になり、春分・秋分に近く、稲作の開始と終了を知らせる時期にあたります。
また、このラインから南東・約28度前後の方向の三輪山山頂に冬至(12月下旬)の朝の太陽が昇ります。この時代のおそらく新年の日の出。
総合して、纏向遺跡居館跡の建物群と三輪山は、古代ヤマトの国の太陽祭祀に基づく暦(春・秋・冬)の基準点であったと考えることができます。
さらに面白いのはこの傾きを、三輪山麓の檜原神社(大神神社摂社。元伊勢・倭笠縫邑伝承地、大神神社と同じ三つ鳥居で有名)にスライドすると、檜原神社(正面鳥居)からのラインは二上山の雌岳と雄岳のほぼ中間を指しています。
二つの傾きラインについては、関連性がゼロというよりは、むしろ何かの一連の事情や経緯によってこのような位置関係となった可能性があります。
いわゆる欠史八代(第二代綏靖天皇 ~第九代開化天皇)とも重なるであろうBC150~AD350の約五百年間(弥生時代後期から古墳時代前期)の出来事です。
この間の歴史を考える手がかりは、①土器
①
1)纏向初期(AD200ごろ)の弥生式土器から庄内式(古墳時代初期)への変化
2)纏向中期の庄内式の主流化
3)終盤期(AD300ごろ)の庄内式から布留式への変化、です。
1)庄内式は大阪府豊中市の庄内遺跡から出土した弥生と古墳の両時代の特徴をあわせ持った標識土器で、底部がやや尖形で側面まで炎が回りやすく効率良く煮炊きできる薄造りの構造。これが出土することから纏向初期に古墳時代が始まった根拠になります。
3)布留式は物部氏のヤマトの拠点、
物部式
といってもよいぐらいです。当時のヤマトの中心だった纏向は突然終結したと考えられていますが、庄内式から布留式への変化は、纏向(出雲・三輪山と太陽祭祀)から布留(物部祭祀)への権威の移動
があったことの間接的な証拠と考えられます。【布留遺跡。天理参考館パネル。赤い線で囲ったところが物部祭祀の核心エリア。天理教本部の真下になります。中央を流れるのが布留川。すぐそばに
なお、西山古墳(
②時代は
纏向遺跡の至近にある三輪山と大神神社を一体のエリア
と考えると、①で推察される権威の移動がヒスイのモノづくり史(第43章まとめ)より。弥生時代は、縄文と習合した出雲文化が稲作で日本海の都市国家群を形成しながら南進し、終盤に北九州・
おそらくこのヤマト東遷は北九州で勢力を拡大した物部氏の圧力によるもので、新天地(
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出雲族のヤマトでの始まりは
出雲国造神賀詞、現代語訳)
太陽祭祀の日の出と日の入のうち、纏向遺跡の建物群のライン・日の入方向は二上山を向いています。真の東西から南に約5度の傾き方向に日没する時期は、現在の3月上旬と9月上旬になり、春分・秋分に近く、稲作の開始と終了を知らせる時期にあたります。
また、このラインから南東・約28度前後の方向の三輪山山頂に冬至(12月下旬)の朝の太陽が昇ります。この時代のおそらく新年の日の出。
総合して、纏向遺跡居館跡の建物群と三輪山は、古代ヤマトの国の太陽祭祀に基づく暦(春・秋・冬)の基準点であったと考えることができます。
さらに面白いのはこの傾きを、三輪山麓の檜原神社(大神神社摂社。元伊勢・倭笠縫邑伝承地、大神神社と同じ三つ鳥居で有名)にスライドすると、檜原神社(正面鳥居)からのラインは二上山の雌岳と雄岳のほぼ中間を指しています。
二つの傾きラインについては、関連性がゼロというよりは、むしろ何かの一連の事情や経緯によってこのような位置関係となった可能性があります。