53)アラハバキ解(10)生駒の大鳥・ヤタガラス

文字数 2,624文字

 前章で紹介した、四天王寺の東、生駒山の大鳥(おおとり)を、大阪城天守閣からも東南((たつみ))の方向に見ることができます。

 高い建物がない時代、大阪平野のどこからでも生駒山の大鳥が見えたことでしょう。
 (写真:生駒の大鳥付近より少し北。中腹の枚岡(ひらおか)展望台の案内板。左(南)に大仙(だいせん)(りょう)古墳(仁徳天皇陵)。右(北)に豊中市の伊丹(いたみ)空港や吹田市のエキスポシティ(万博公園))


 四天王寺と生駒山のラインに気づき、何度か、生駒の大鳥、特に頭部に見える山麓(さんろく)と市街地を歩きました。一帯は東大阪市の(かみ)四条(しじょう)町~四条町~南四条町を中心としたエリアで、いくつかのことがわかりましたので、箇条書きにします。

① 大鳥の頭の直下・市街地(南四条町)に『縄手』地名縄手(なわて)小学校の敷地内に縄手遺跡。縄文中~後期中心、弥生~古墳時代の土器、墳墓。写真:縄手中学校グラウンドの向こうに大鳥の頭、ガードレールの左が小学校)


② 神武(じんむ)東征(とうせい)時の創建由緒のある梶無(かじなし)神社六万寺(ろくまんじ)町)

③ 豊臣秀吉公の瓢箪山(ひょうたんやま)稲荷神社を勧請(かんじょう)(瓢箪山町)

 *****以下、順番に説明します。

 ① 京都下鴨(しもがも)神社・ヤタガラスの説話との符合
 (写真:京都・下鴨神社「カラスの縄手」の説明より)「ヤタガラスは太陽を意味」し「ナワテとは、細い(せまい)長い道ということで、ヤタカラスの神様へお参りする長い参道の意味です。

 春分・秋分の日、大阪(四天王寺)の東、生駒山の大鳥の頭から日が昇ります。(第52章)
 縄文以来、大鳥の頭の(ふもと)の縄手遺跡には人が住み、弥生~古墳時代と継続して営みがあったということですから、一帯は太陽が昇るヤタガラス信仰の祭祀場でもあった可能性があります。
 頭部への登り道は『細くせまい長い道』が幾筋もあり、まるで

のようです。
 これに関連して、東大阪市の北に隣接する大東市の北に、明治期に国営の四条(しじょう)(なわて)神社が創建された四条畷市があり、同市は太平記(たいへいき)(南北朝時代)の(しょう)楠公(なんこう)楠木(くすのき)正行(まさつら)公らが玉砕(ぎょくさい)した四条畷の戦い(1348年)の戦場として知られていますが、東大阪市のこの一帯にも、複数の史跡と

の伝承が残されています。

 ② 梶無(かじなし)神社には『御船(おふね)白肩津(しらかたのつ)(河内湖北岸)から入江深くに(さかのぼ)らせ来て、難航の末、上陸したところ』という由緒が残されています。(資料写真;弥生時代の図が参考、黄色の丸)

 当時の河内湖(かわちこ)の東岸は、南北に長い生駒山の麓の水辺がひろがっていたはずですが、さて、神武(じんむ)天皇は、何を目指し、危険を冒してまで、梶無神社の入り江に入り込んだのでしょうか。
 私は導きの大鳥、ヤタガラスが目印であったと推理しています。
 (写真:左)梶無神社。右)河内国一之宮・枚岡(ひらおか)神社)


 河内国一之宮・枚岡神社(中臣(なかとみ)氏の氏神、(もと)春日(かすが)出雲井町(いずもいちょう)、四条町エリアの北)の主祭神が、神武東征に登場して活躍した重要人物・(あめの)児屋根(こやねの)(みこと)など、一帯には神武東征の旧跡地であることを示唆(しさ)する話が複数あります。

 ③ 秀吉公が天守閣に登り(冒頭写真)、(たつみ)(東南)の方向に双円墳(そうえんふん)(ひょうたん型)を見つけて、伏見桃山城で(まつ)っていたふくべ稲荷を勧請して瓢箪山稲荷神社を創建したという言い伝え。
 この話に関して、秀吉公は大坂城から10数キロ先の長さ約50mの古墳ではなく、生駒の大鳥-ヤタガラス-を観て目印にしたのではないかと推理しています。
 (写真:瓢箪山稲荷神社。境内図。北側に双円墳。神社は古墳を遥拝(ようはい)する形)

 本殿の奥、最も古墳に近い所に鎮座する戸川(とがわ)神社の御紋(ごもん)

 この御紋に注目です。時期的には遅くとも江戸期のものでしょうか。瓢箪型の中に勾玉(まがたま)状の表現がありますが、本著のヒスイ考察とあわせて(第12章、第37章)、ヒョウタンは子宮、勾玉状は(孔の開いた)”子種(こだね)をもたらす器官”をあらわすと考えてよいでしょう。
 御紋には、『子宮の奥に、魂の世界と繋がった孔のある子種の器官が備わっていて、魂はその孔を通って子宮に宿り人の形に育つ』といった生命観があらわされていると考えます。
 天下を取った秀吉公が祈願するのはただひとつ。
 太陽の特別な八咫(やた)の大ガラスの足元、特別なヒョウタンから特別な子孫が生まれる・・・長きにわたる豊臣家の繁栄です。
 結果的にその夢はかないませんでしたが、もしかしたら秀吉公はこの社で自分自身の再生・復活を祈ったのかも知れません。

 *****

 さて、四天王寺の転法輪(てんぽうりん)石が指し示す東、大鳥の頭部の話です。二つの神社跡、寺院、水垢離(みずごり)場があり、その中で、いくつか興味深いものを見つけました。
 (写真:竹藪(たけやぶ)の小道を進むとひとつめの(はい)神社)
 社への参道は手入れされているように思いました。


 (写真:奥の院。もうひとつの廃神社。規模の大きな石積(いしづみ)が見えます)
 近所の方によると御嶽(おんたけ)さんを(まつ)っていたとのこと。


 廃神社のため、二社の関係や由緒はわかりませんが、楠木(くすのきけ)家・楠木正行(まさつら)公に関係するのでしょう。
 (写真:左)ひとつめの廃神社の菊水(きくすい)紋(楠木家の家紋)右)ふたつめの廃神社の石積の上の楠木正行(まさつら)公碑)


 水垢離場(みずごりば)の、大日(だいにち)如来(にょらい)が水を吐き出す大地(玄武(げんぶ)?)に乗り護法(ごほう)する像容です。制作年代など不明です。





 *****

 特に知られた史跡などはありませんが「四天王寺の東」から生駒の大鳥を目指して来て、ずいぶん収穫があったように思います。
 ご覧の皆さんは下の三枚の写真、共通点がおわかりでしょうか?
 私は歴史考察において、こういった自分なりの「点」を見つけて繋いで行くやり方をするのですが、そのためには比較共通点を見つけてゆく必要があります。


 昇る太陽(アラ)と流れ下る川(ハバキ)》と大地≫。火と水と土
(第45章冒頭の大神(おおみわ)神社の看板も参照してください)
 縄文以来(第10章)、私たちのご先祖様が繋いできた信仰の()りようの描写です。
 驚いたのは菊水(きくすい)紋も、水を吐き出す像容も、いずれも共通した表現であることに気づかされたことです。
 ・・・想像もしていませんでした。
 例えば水を吐き出す像容は第15章で紹介した『飛鳥・酒船石(さかふないし)遺跡の亀形(かめがた)石造物と湧水(ゆうすい)施設』のコンセプトを解くカギになるように思います。同じような亀形造形物は、四天王寺の亀井水(かめいのみず)でも見られます。
 もちろん楠木(くすのき)氏のことなど、さらに学び、考察が必要なところはたくさんあるのは承知していますが、アラハバキをテーマにしてやって来て、思いもかけない時代からアラハバキのことを教えてもらいました。

 (次回5月31日12時、最終章)
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