いつか本気のあなたが見たい
文字数 5,557文字
自主練習から戻ってきた女子野球部のメンバーは、言葉少なに着替えて帰っていった。
鈴と朝陽は、学校近くのコンビニの脇にいた。
最初は母親の出勤ついでに送ってもらうことの多かった鈴だが、最近は朝陽に合わせて自転車通学に切り替えた。
わかるよ、そのくらい。何年一緒にいると思ってるの?
……そうだよね。
礼先輩はまっすぐ帰れって言ったけど、私はやっぱり高池さんが心配だから……。
高池さんが、野球やりたいのにできなくて悔しい思いしてるのはずっと感じてたんだ。私は、そういう人のことは嫌いになれないよ。
ふふ、鈴ちゃんらしいや。――じゃあ、行ってみよっか!
二人は自転車に飛び乗ってこぎ始めた。
丹波島橋の手前を左に曲がって、直線道路を一気に進んでいく。
右手に大きな病院の姿が見えてきた。もう暗くなって、建物はシルエットと窓明かりだけになっている。
駐輪場に自転車を置くと、二人は早足で病院のエントランスを抜けた。
病院案内のプレートを確認して、整形外科の場所を見つける。足はすぐにそちらを向いた。
一階北側の奥へ歩いていくと、通路の左側に診察室、右側にイスが置かれていた。
そして、イスには漆原礼、優の姉妹が座っていた。
自分の投球がきっかけでバッターが倒れたら、人によってはトラウマになると思うよ。朝陽ちゃんだって、凪ちゃんがいきなり倒れてびっくりしたでしょ。
あーそうそう、凪ちゃんって左腕の肘のあたりの骨にヒビ入ってるんだって。そんなんで金属バットの先端に硬球当てたら反動やばすぎると思わない?
ひ、ヒビですか……? そんな状態でバッターボックスなんか入ったら……。
もうちょっとで治るってところだったらしいわ。だから本人もそろそろ行けるって思ったんでしょうね。
診察室のドアがスライドした。
ブレザーを右手に持って、高池凪が出てきた。診察室の中には緋田恵も一緒にいる。
いいですか、本当によく見てやってくださいよ。こんなことばかり繰り返してたんじゃ、まともな練習もできないまま高校生活が終わってしまいます。この子は徹底的に監視するくらいでないと。
……はい、大変申し訳ありませんでした。以後、よく気をつけます。
口調の厳しい医師に、恵が何度も頭を下げた。それでも物足りないのか、医師は長々と熱く語っている。
……ヒビが、前と同じくらいまで広がったそうです……。
ってことは、もうちょい我慢すれば完治だったんじゃん。
そっか。……よかった。まだ高池さんの本気のプレー、見てないもん。
私達はまだ1年生だもん。3年生の夏に試合出られれば大丈夫なんだよ。――だから高池さん、焦らないでね。
高池さん、実力あるから少し出遅れたってすぐ私達なんて追い越しちゃうよ。
ほほう、朝陽ちゃんはあの1打席で凪ちゃんの実力を見抜いたと?
構えがぶれないし、見逃し方もうまかった。絶対上手な人だってすぐわかりました。
凪ちゃん、こんないいチームメイトを裏切っちゃダメだぞ。こういう気のいい子達、なかなか巡り会えないんだからね。
あのさ、できれば教えてくれないかな。何があってそんな怪我を?
そういえば聞いていないわね。左腕……デッドボールではないのね?
県予選の準決勝で怪我をしたんです。試合が延長戦になって、8回の裏にワンナウト1、2塁になりました。私達が先攻だったので、1点取られたらサヨナラ負けの状況で……。
相手は5番の右打者で、引っ張った打球が私の正面に飛んできました。取ることは取れたんですけど、球足が速すぎて体勢を崩したんです。
するとゲッツーは間に合わないね。3塁踏んで2塁ランナー封殺って感じかな。
私もそうするつもりでした。タイミングがギリギリだったので、頭から突っ込んでサードベースにグローブを伸ばしたんです。でも、よろつきながらだったせいで左腕がベースの左側に行ってしまって、そこにランナーがスライディングしてきて……。
……スパイクで蹴られたのね。下手すれば骨折までいっててもおかしくない怪我じゃないの。
……私はそこで負傷退場になりました。その試合は結局勝ったんですけど、次の決勝戦でチームは負けました。
高池さん、絶対上位打ってたでしょ。そんな人が抜けたらきついよね……。
……初めての大怪我だったんです。しばらくはちょっとした振動でもものすごく痛くて、走り込みもできませんでした。それで休んでいるうちに、声をかけてくれた山京学園の人も来なくなりました……。
スポーツ推薦者には授業料免除とか留年しにくい環境が用意されるとか、学校が負う負担も大きいのよ。それを考えれば、怪我人に推薦枠は与えられない。仕方ないと言えば仕方のないことね。
でも私、その人が来なくなったら急に怖くなったんです。このままどんどん下手になっていくだけなんじゃないかって。
それで、治りきってないのに練習を始めちゃったんだね。
で、悪化させたり治りかけを元に戻しちゃったりの繰り返しか。
……山京学園で高校野球をやるのが私の夢だったんです。山京の野球部にいても恥ずかしくないレベルにならなきゃって思ってたのに、何もできない日がずっと続いて……やっぱり、焦ってたんです。
およ? でもそれなら一般入試に合格して普通に入部すればよかったじゃん。
私も最初はそう考えたんですけど、スポーツ推薦の授業料免除が受けられないなら、山京学園に入れられるだけのお金はないって親に言われて……。
私立ってお金かかるもんね。私も高校の情報一覧見た時びっくりしちゃった。
……私、それでヤケになって、じゃあ家から一番近い高校でいいって言ってここに来たんです。
これまでずっとやさぐれてたのはそのせいだったのね。
でも、高池さんが野球好きなのは変わらないんだよね? だから野球部に入ったんでしょ?
うん……。最初は迷ったけど、やっぱり野球のない生活なんて考えられなかった……。
高池さん、今度はちゃんと怪我治して、一緒にプレーしようね! 3年の夏は今の1年生6人全員でグランドに立とう!
これで軋轢は解消されたみたいね。心配事が一つ減って安心したわ。
言ってるそばからまったく……! というかばらすな!
はじめまして、高池凪の母です。娘が大変な迷惑をかけたようで、本当に申し訳ありません。
いえ、こちらも新入生の体調をしっかり把握していなかったので……。
まさか、もう治ったと言って練習に参加したんですか?
礼は返事を曖昧に濁したが、その反応がすべてを物語っていた。
凪は何も返さなかった。
まるで、そう言われるのを覚悟していたかのようだった。
この子が同じ場所を再発させるのはこれでもう四回目なんです。
野球をやりたい気持ちはわかります。私だってやりたいようにやらせてあげたい。でも、この子が自分でその道を断っているんです。最初は焦っているのも理解できましたよ。でも、あまりに学習しなさすぎる。
お恥ずかしい話ですが、うちはけっして裕福とは言えません。こう何度も繰り返されると、治療費が家計を圧迫するんです。そしたら、野球どころではなくなりますね?
私だって自分の娘が活躍しているところを見たい。でも、野球への思いが強すぎてこうなってしまうのですから、もういっそ辞めてしまうべきなのかもしれません。
凪、あんたがどれだけ多くの人に迷惑をかけたかわかっている?
バッターボックスで倒れたって聞いたわ。それならきっと全員が駆けつけてくれたんでしょうね。
うん、みんな来てくれた……。肩を貸してもらったり、荷物を運んでもらったり……。
で、でも、野球を取られたらどうしていいかわからないよ……。
鈴は、凪の母親に負けないくらいの声で割って入った。
鈴は凪と母親の間に立って、拳を握りしめて声を出した。
た、確かに治療費のことは難しいですけど、私は高池さんと一緒に野球がやりたいです!
そうです! 私、絶好調の時の高池さんを見てみたいんです。完全に治るまで、もし練習を始めようとしたら私が必ず止めます。だからもう一回だけ、高池さんにチャンスをあげてください!
……うちの娘、迷惑しかかけてないと思うけど、どうしてそこまで言ってくれるの?
今……約束したばっかりだからです。3年生になった時、今の1年生全員でグラウンドに立つんだって。だから、高池さんがいなくなったら私が困ります!
(この子、ここ一番で開き直れるのがすごいわね……)
あの、お医者さんの証明がもらえるまでは絶対に止めます。だから、高池さんは私達に任せてください。
(こういうのって入学したばっかじゃなきゃ言えないよね~。縦の関係に慣れちゃうと言い返せないっすわ~)
……まったく。進学先、ヤケになって選んだわりには大当たりだったじゃない。
皆さん、このわがまま娘をよろしくお願いします。練習を再開できるようになった時は、ちゃんと先生の診断書を持っていかせますね。
こちらも、不注意を起こさないよう気をつけます。継続を認めてくださってありがとうございます。
凪ちゃん、明日からまた頑張ろうね! でも無理はダメだからね。もし時間あったら一緒に走り込みを――あっ、凪ちゃんって呼んじゃったけどいいかな?
(嬉しすぎてテンションおかしくなってる……。まあ、中学の奴らのドス黒さを見てきてるし、野球一筋の高池さんは鈴ちゃんから見たら尊敬できる人ってことになるんだろうなぁ)
高池さんのお母さんですね。野球部監督の緋田恵と申します。
ドクターに捕まって高池さんの指導方法を長々と……。
監督さん、ずいぶんお若いんですね。――今、チームメイトの皆さんにお説教されてしまいました。
ふふ、冗談ですよ。凪はいい仲間に巡り会えたようです。どうかこの子のこと、よろしくお願いいたします。
彼女は完治すれば一流のプレーヤーになれるだけのポテンシャルがあると確信しています。こちらこそ、責任を持って指導させていただきます。
凪は母親のあとについて歩き出したが、廊下の角で止まって振り返った。
凪は微笑んで、立ち去っていった。
それは彼女が初めて見せた、自然な笑顔だった。
さて、ずいぶん遅くなってしまいましたし、私達も帰りましょう。皆さん、夜道には気をつけてくださいね。
朝山さん、病院ではもうちょっと静かにしゃべりましょうね。
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